舊唐書卷一百九十九下 列傳第一百四十九下 契丹

契丹は潢水南岸に興った遊牧勢力で、唐は松漠都督府を置いて羈縻支配した。八世紀初頭には可突于らの反乱で唐と衝突を繰り返したが、以後も朝貢関係を保ち唐末まで存続した。

年表(9件)

契丹

  • 契丹は潢水の南・黄龍の北、鮮卑の故地に居り、長安東北5300里。東は高麗、西は奚、南は営州、北は室韋に至る。国の南には冷陘山があり、狩猟を生業とし定住しない。君長は大賀氏。勝兵4万3千を8部に分け、徴発は8部合議が必要。埋葬は樹上に置く風習で服喪の規定は無いが、子孫の死には父母が哭す。他の風俗は突厥に同じ。
  • 武徳初年たびたび辺境を侵し、2年(619年)平州に侵入。6年(623年)君長咄羅が名馬・貂皮を献上。貞観2年(628年)君長摩会が来降。突厥頡利が梁師都との交換を求めたが太宗は拒絶。
  • 太宗の高麗親征時、営州で君長・老人らを慰労し蕃長窟哥を左武衛将軍とした。22年(648年)窟哥ら内属を請い松漠都督府を設置、窟哥は左領軍将軍兼松漠都督・無極県男・李姓を賜与。曾孫祜莫離は則天朝に左衛将軍・彈汗州刺史・帰順郡王。
  • 別部酋帥孫敖曹は隋で金紫光禄大夫、武徳4年(621年)靺鞨酋長突地稽と共に内附し雲麾将軍・遼州総管。曾孫万栄は垂拱初年に右玉鈐衛将軍・帰誠州刺史・永楽県公。万歳通天年間(696年頃)、万栄と義兄弟松漠都督李尽忠は営州都督趙翽の侮辱に怒り挙兵し営州で乱を起こした。則天は激怒し万栄を「万斬」、尽忠を「尽滅」と改名させる詔を出し、尽滅は無上可汗を自称、進撃を続けたが、張玄遇・曹仁師・麻仁節らを西硤石谷で破り、王孝傑・蘇宏暉の7万も東硤石谷で破って王孝傑は戦死。尽滅(李尽忠)死後、万斬(李万栄)が幽州にまで侵攻したが、河内王武懿宗・婁師徳・沙吒忠義の30万討伐軍と奚・突厥の背後攻撃を受け壊滅、家臣に討たれてその首は東都へ送られた。
  • 開元3年(715年)尽忠の従弟李失活が突厥の衰えに乗じ内附、松漠都督府を再置し失活は松漠郡王・左金吾衛大将軍・松漠都督。8部落は旧帥をそのまま刺史に。宗室の外甥女楊氏を永楽公主として降嫁。
  • 6年(718年)失活死去、従弟娑固が継承。大臣可突于が娑固の除去を謀られたことに反攻、娑固は営州へ逃れたが討伐に失敗し戦死(奚王李大輔も戦死し、薛泰は捕らわれた)。可突于は娑固の従弟郁于を主に立てたが、朝廷は罪を赦し郁于を冊立。
  • 10年(722年)郁于入朝、燕郡公主を降嫁、松漠郡王・左金吾衛員外大将軍・静析軍経略大使を授与。可突于は左羽林将軍。翌年郁于病死、弟吐于が継承(燕郡公主を継妻)が可突于と再び対立。
  • 13年(725年)吐于は公主を連れ入朝、遼陽郡王に改封され宿衛に留まった。可突于は尽忠の弟邵固を主に立て、車駕東巡の際邵固は左羽林軍員外大将軍・静析軍経略大使・広化郡王に封じられ皇族外甥女陳氏(東華公主)を降嫁された。
  • 邵固帰蕃後入朝した可突于は中書侍郎李元紘に無礼を受け不満を抱き、張説は「両蕃は必ず叛く」と予言。18年(730年)可突于は邵固を殺し部落・奚衆を率いて突厥に降り、東華公主は平盧軍に逃亡。朝廷は忠王浚を河北道行軍元帥として討伐を計画するも実行されず。
  • 20年(732年)信安王禕が幽州長史趙含章と共に討伐し大勝、可突于は逃走、奚衆は降伏。翌年可突于が再侵し官軍は渝関都山で大敗(郭英傑・呉克勤ら戦死、6千余人皆殺)。張守珪が幽州長史・御史中丞として経略にあたり、可突于を追い詰めると偽降・離反を繰り返す中、契丹衙官李過折が可突于とその党数十人を斬った。
  • 23年(735年)正月、その首が東都に届き、過折は北平郡王・特進・松漠州都督に。しかし同年可突于の残党泥礼に過折とその子らが殺された(一子刺乾は安東に逃れ左驍衛将軍)。
  • 天宝10載(751年)安禄山が契丹酋長の叛意を誣告して討伐を請い、8月に数万を率いて出兵したが大敗(数千人戦死)、12載には契丹が再び降附。貞元期にも隔年で朝貢の礼が続いた。
  • 貞元4年(788年)奚と共に振武を侵犯、9年・10年に朝貢再開、11年には大首領熱蘇ら25人が来朝。以後元和・長慶・宝暦・太和・開成にも遣使朝貢が続いた。会昌2年(842年)新王屈戍が雲麾将軍に封じられ、幽州節度使張仲武の上奏により回紇印に代え「奉国契丹之印」の印章を賜与された。