舊唐書卷一百九十九下 列傳第一百四十九下 鐵勒

鉄勒は匈奴の別種で、有力部族薛延陀の夷男が唐から真珠毘伽可汗に冊立され北方に勢力を張ったが、太宗との対立の末、貞観二十年(646年)に唐軍によって滅ぼされ、鉄勒諸部は唐の羈縻州府に編入された。

年表(6件)

鐵勒

  • 鉄勒は匈奴の別種。突厥の強盛化に伴い諸部は分散弱体化し、武徳初年には薛延陀・契苾・回紇・都播・骨利幹・多覧葛・僕骨・抜野古・同羅・渾部・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫などが磧北に散在していた。薛延陀は元は薛氏を称し、延陀部を滅ぼしその民を併せたことから名乗った。官制・兵器・風俗は概ね突厥に同じ。
  • 隋の大業年間、西突厥処羅可汗が強大化し鉄勒諸部を臣従させたが、過酷な徴税に対し薛延陀ら諸部が処羅に叛き、契苾哥楞(易勿真莫賀可汗)と薛延陀乙失缽(也咥小可汗)を推戴。のち西突厥射匱可汗の勢力下で両部は可汗号を返上し臣従、回紇ら6部は始畢可汗、乙失缽の部は葉護可汗に属した。
  • 貞観2年(628年)葉護可汗死去で内乱、乙失缽の孫夷男が7万余家を率い突厥に帰属していたが、頡利可汗の失政に乗じて反攻・大破。頡利部の諸姓が夷男に帰属し推戴したが夷男は固辞。太宗は喬師望を派遣し夷男を真珠毘伽可汗に冊拝、夷男は郁督軍山下に王庭を建てた(長安の西北6000里、東は靺鞨・西は葉護・南は沙漠・北は俱倫水に至り、回紇・抜野古・阿跌・同羅・僕骨・霫の諸部を統轄)。
  • 貞観3年(629年)夷男の弟統特勒が入朝し寶刀・寶鞭を賜与された。4年(630年)頡利平定後、夷男は故地に帰り都尉揵山北・独邏河南に王庭(勝兵20万、二子を南北部の主に)を建てた。
  • 12年(638年)夷男の二子を小可汗に冊命(実は勢力分断が狙い)。李思摩を可汗に立て漠南に配置したことに夷男は不満を抱いた。
  • 15年(641年)太宗の泰山封禅を好機と見た夷男は子の大度設に20万を率いさせ李思摩部を攻めさせた。太宗は李勣・薛万徹を派遣、諾真水で決戦し、唐軍は歩戦策で薛延陀の騎射戦術を破り3000余級を斬り馬1万5千を得る大勝、大度設は単騎で逃走。夷男は和睦を請うた。
  • 16年(642年)夷男は求婚し馬3000匹を献じた。太宗は房玄齢と議論の末、和親策として新興公主を降嫁させることとし、夷男は歓喜したが、聘礼の羊馬調達が遅延・損耗したため、太宗は婚約を破棄。以後李思摩との抗争が再燃し太宗は璽書で夷男を叱責した。
  • 19年(645年)太宗の高麗親征に際し夷男は援軍を申し出たが断られ、その冬夷男が卒し太宗は挙哀。少子の肆葉護抜灼が兄突利失可汗を殺して即位(頡利俱利薛沙多弥可汗)したが苛政で人心を失い、夏州侵攻に失敗、逃亡中に回紇に殺され宗族もほぼ滅んだ。
  • 20年(646年)太宗は江夏王道宗・阿史那社爾・執失思力・薛万徹・張倹・契苾何力ら諸軍を分道進発させ、自らも霊州へ出向いて後援。延陀残党を撃破し、鉄勒諸部が相次いで入朝を請い、太宗が霊州に至ると数千人が帰順、北方はことごとく平定された(この際の平定を称える詔勅を収録)。
  • 延陀西遁の残党は夷男の甥咄摩支を伊特勿失可汗に推戴し帰順を求めたが、鉄勒諸部の動揺を懸念した朝廷は李勣に討伐を命じ、九姓鉄勒2万騎で天山に進軍、咄摩支は投降(右武衛将軍・田宅を賜与)。李勣はなお離反の気配ある部落を追撃し5000余級を斬り男女3万を虜にした。
  • 21年(647年)契苾・回紇など10余部落が帰順し、太宗はその居地に応じ瀚海(回紇)・金微(僕骨)・燕然(多覧葛)・幽陵(抜野古)・亀林(同羅)・盧山(思結)の6都督府と、皋蘭(渾部)・高闕(斛薛)・鶏鹿(奚結)・鶏田(阿跌)・楡渓(契苾)・蹛林(思結別部)・寘顔(白霫)の7州、計13州府を設置し、燕然都護府で統轄させた。京城の百姓に3日間の大酺を賜った。
  • 永徽元年(650年)延陀の逃亡首領が帰国を願い出て渓弾州を新設し安置。則天朝には突厥が強盛化し鉄勒諸部は多くが併呑され、回紇・契苾・思結・渾部は甘州・涼州に移住した。
  • 骨利幹は大海に至るほど遠く古来中国と通じなかったが、貞観中に朝貢し玄闕州を設置。良馬10匹を献じ、太宗はその駿馬に十驥(騰霜白・皎雪驄・凝露驄・懸光驄・決波騟・飛霞驃・発電赤・流金・翱麟紫・奔虹赤)の名を付け、その由来を文に記した。延陀の叛乱後、朝貢は絶えた。