挙兵と雍丘防衛
- 蒲州河東の人、兄張曉は開元中監察御史。文才があり進士に及第、清河令を経て安禄山の乱では真源令として抵抗を組織した。
- 雍丘令令狐潮の降伏企図に対し、単父尉賈賁と共に義兵を挙げ雍丘城に入り防衛。賁の戦死後、巡が兵を統率、令狐潮・李廷望の攻囲にも耐え、雍丘は孤立無援となった。
睢陽の攻防と殉節
- 至徳二載(757年)正月、雍丘放棄を決断し許遠の守る睢陽に合流。玄宗は主客郎中・御史中丞を授けた。尹子奇の長期攻囲で兵糧が尽き、人肉食に至る惨状の中、巡は自らの妾を殺して兵に食べさせ「忠義を貫く諸君のためだ」と将士を鼓舞した。
- 賀蘭進明に援軍を求めた南霽雲は、進明が救援を渋る様を見て自ら指を噛み切り誠意を示し帰城した。十月、城は陥落し巡・姚訚・南霽雲・許遠が捕らえられた。巡は「気を吐いて逆賊を呑もうとしたが力及ばなかった」と語り、尹子奇に「唐臣として君父のために死ぬ、賊に従うお前こそ畜生だ」と最期まで罵倒し処刑された。許遠だけは洛陽へ送られた。
附 姚誾
- 姚誾は浹州平陸の人、宰相姚崇の兄孫。張巡と親しく睢陽防衛の功で至徳二載(757年)検校尚書侍郎に加えられた。賈賁は故閬州刺史賈璿の子である。