出自と挙兵
- 瑯邪臨沂の人。五代祖顔之推は北斉黄門侍郎、曾祖顔勤禮は崇文館学士、曾伯祖顔師古(貞観秘書監)には別伝がある。廕により官途につき性剛直で吏幹あり、開元中魏州録事参軍として政績第一と評された。
- 天宝十四載(755年)常山太守を摂す。安禄山挙兵の報に接し、平原太守の従弟顔真卿と呼応し義兵を挙げることを決意。長史袁履謙・賈深・張通幽らと共謀し、常山を守っていた賊将蔣欽湊を宴に招いて謀殺、稾城尉崔安石らの計略で高邈・何千年も捕縛し、その首と共に京師へ送った。
太原での横取りと平原の呼応
- 太原節度使王承業が功を横取りして上表し賞を得たが、玄宗は後にこれを知り杲卿に衛尉卿・御史大夫を加え、袁履謙を常山太守、賈深を司馬とした。
- 杲卿の檄文で河北諸郡が呼応し十五郡が朝廷側についた。顔真卿も平原で李憕・盧奕の首を奪って埋葬し、饒陽太守盧全誠らも呼応、常山・平原の兵威は大いに振るった。禄山は西進を止め史思明・蔡希德を河北に向かわせた。
常山陥落と殉節
- 天宝十五載(756年)正月、史思明が常山を攻め、兵少なく陥落。杲卿・履謙は洛陽に送られ、禄山は「なぜ我に背いたか」と詰問したが、杲卿は「私は代々唐臣、忠義を守るのみ。お前こそ牧羊の羯奴の分際で天子に背いた」と罵倒し、節解の刑に処されても罵り続けた。幼子誕・甥詡・履謙も惨殺された。
- 二月、李光弼・郭子儀の軍が常山を奪還し、囚われていた妻子数百人は救出された。至徳二載(757年)冬、両京回復後、子の泉明が河北で親族を探し出し、真卿が援助した。泉明は父の遺骸を探し出し(片足がないのを確認して真の遺体と判じた)、履謙の遺骸と共に長安へ改葬した。
- 乾元元年(758年)五月、詔して太子太保を追贈し「忠義を胸に元凶を斬り、孤城力尽きても身没して名は存す」と称えられた。