張允濟
- 張允濟、青州北海の人。隋の大業中、武陽令となり徳教で下を訓すことに務め百姓に慕われた。元武県が隣接しており、ある人が牸牛(雌牛)を妻の実家に8、9年預けたところ牛が繁殖し10余頭になった。別居しようとすると妻の実家が牛を渡さず、県司も代々決着をつけられなかった。その人は武陽に至り允濟に訴えた。允濟は「お前の県にも令はいるのに、なぜここまで来たのか」と言うと、その人は泣きやまず事情を詳しく語った。
- 允濟は左右に命じて牛主を縛らせ衫で頭を覆い、妻の実家の村に「盗牛の賊を捕らえた」と称して連れて行き、村中の牛をすべて集めさせ由来を尋ねた。妻の実家は事情を知らず連座を恐れ、訴えられていた牛を指して「これは女婿の家の牛です、私は知りません」と言った。允濟は覆いを取って妻の実家の人に「これがすなわち女婿だ、牛を彼に返しなさい」と言い、妻の実家は叩頭して罪に服した。元武県司はこれを聞いて大いに恥じた。
- また道で葱を植える老母に出会ったことがあり、庵を結んで守っていた。允濟は「ただ帰りなさい、守る必要はない。盗まれたら令に告げに来ればよい」と言った。老母がその言葉に従うと一夜のうちに葱が大量に失われた。母がこれを允濟に告げると、葱地十里以内の男女をすべて集めて呼び出し調べ、果たして盗んだ者を見つけた。またある旅人が夜明け前に発った際、道に衫を落とし十数里行ってから気づいたが、ある人が「ここは武陽の境内だ、道に落ちたものは拾わない、戻って取ってくれば必ずそこにある」と言い、その通り見つかった。遠近でこれを称賛し、政績はとりわけ優れていた。
- 高陽郡丞に遷ったとき、当時郡将がおらず允濟一人が大郡を統べたが、吏人は畏れつつも悦んだ。賊帥王須抜が攻囲した際、城中の糧は尽き吏人は槐の葉や槁の節を食べたが、ついに叛く者はなかった。貞観の初め、累遷して刑部侍郎となり武城県男に封じられた。幽州刺史として出て、まもなく卒した。