舊唐書卷一百七十八 列傳第一百二十八 鄭畋

出自

  • 鄭畋、字は台文、滎陽の人。曾祖の鄰、祖父の穆、父の亜はいずれも進士第に登った。亜、字は子佐、元和十五年に進士第に登りさらに賢良方正・直言極諫の制科に応じた。吏部の選調でさらに書判抜萃に登り数年のうちに連続して三科に及第した。聡悟が絶倫で文章は秀発であった。李徳裕が翰林にあった頃、亜は文をもって幹謁しその才を深く知られた。徳裕が浙西に出鎮すると従事に招かれた。累く家の困難に遭い人に多く忌嫉され長く不遇であった。会昌初、初めて入朝して監察御史となり累進して刑部郎中に至った。中丞の李回が知雑に奏し諫議大夫・給事中に遷った。五年、徳裕が罷相し渚宮に鎮すると亜は正議大夫を授けられ桂州刺史・御史中丞・桂管都防禦経略使に出た。大中二年、呉汝納が冤を訴え徳裕が再び潮州に貶されると亜も循州刺史に貶され卒した。

鄭畋の若き日

  • 畋は十八歳で進士第に登り汴宋節度推官から出仕し秘書省校書郎を得た。二十二歳、吏部の選調でさらに書判抜萃に及第した。渭南尉・直史館事を授けられたが赴任前に亜が桂州に出たため畋は左右に随侍した。大中朝、白敏中・令狐綯が相次いで政を秉ること十余年、元来徳裕を憎んでいた。徳裕の親旧の多くが廃斥される中、畋も長く士伍に伍することができなかった。咸通中、令狐綯が出鎮し劉瞻が北門(翰林)に鎮すると従事に招かれた。入朝して虞部員外郎となった。右丞の鄭薰は令狐の党であり畋の旧事を摭い覆奏し省への入省を許さなかったため、畋は再び従事として出た。五年、入朝して刑部員外郎となり万年令に転じた。九年、劉瞻が宰相となり翰林学士に薦められ戸部郎中に転じた。

官への感謝の上奏

  • 畋は長く擯棄されていたが幸い抜擢されたことに感謝し、官を授けられるたびに自ら陳べた。十八歳で進士及第、二十二歳で書判登科し、この時王畿で綬を結び青雲の望みを蓄えていたが、一度風水(不遇)に沈むと星霜を久しく換え外府の樽罍に厭き明庭の礼楽を渇望していたこと、咸通五年にようやく朝に登れたこと、聖君に遭遇しなければ幽跡を発揚できなかっただろうと述べた。刑部員外郎の任にあった日、たびたび閣内で対揚し、去冬萬年の宰たる抜擢を蒙りさらに延英で中謝を得たこと、藿(葵)が日を仰ぐように依り盆を捨てて青天を見るように喜んだことを述べた。京県の繁多な事務に心を尽くして政をなし疲れが癒えても強敵の跡はなく、宰の心を専らにし憂勤の化に応えようとしていたところ、陛下が過分に採聴し恩栄を超授し百里の中から抜擢して三清(清貴の官)の上に置いてくれたこと、翰苑を超えてすぐ郎曹に改められたことを述べた。

知制誥拝命の感謝

  • まもなく知制誥を加えられ、また自ら陳べた。会昌二年に進士及第、大中の初年に書判登科したこと、当時故昭義節度使の沈詢に代わり渭南県尉となったが二考で罷免され楊収がその後任として綬を結んだこと、詢は既に顕栄を歴任し数年前に没しているが収は台輔の寵を極め既に三年になることを述べた。臣は外は賓筵に困窮し内は散秩に甘んじ霄漢を仰ぎ見て虚しく雲泥の差を嘆いてきたと述べ、賦命の屯奇(不運)と言われても実は人に排忌されたためであると述べた。事あるごとにこのように自らを洗い清めていた。

中書舎人・学士承旨としての活躍

  • まもなく中書舎人に遷った。十年、王師が徐方を討つ際、禁廷の書詔が多く舞い込んだ。畋は筆を執れば湧くように書き動くたびに滞りなく言葉はすべて的を射て同僚も筆を置いて畋に任せた。まもなく戸部侍郎に遷った。龐勛が平定されると本官のまま承旨を充てた。畋は徳望が先立ちながら長く沈滞していた。禁廷の要職を極めていよいよ宰輔に任ぜられるべき折、承旨拝命に謝すにあたり、禁林はもとより清厳と称され承旨はとりわけ峻重とされる、偏に顧問を承り英賢の首に冠たることになったが、今の宰輔四人のうち三人がこの官から昇進しており、その盛美は尋常と異なると述べた。凡流の身がこの芳しい跡を継ぐことを憂えるのはこのためだと述べつつ、劉瞻の慎密や韋保衡の規程を守り誠意を尽くし君に事え肝を披いて聖を翊ける決意を示し、貞方を鎧兜とし忠信を垣とすれば帝文を丹青し王度を金玉とするこの職を辞退するには及ばないとも述べた。まして沈舟墜羽(不遇な身)が聖主の抜擢により薄藝微才でも鴻恩の知遇を受け二度の周年を経て六度も官栄を叨り郎吏から貳卿に至り末僚から上列に遷ったことを述べた。大用への切なる思いはこのようであった。

劉瞻左遷の制の失言

  • その年八月、劉瞻が医工とその宗族の囚禁を諫めたことで罷相し荊南節度使に出された。畋がその制を起草した際、過度に美辞を用いてしまった。懿宗はこれを見て大いに怒り責めた。畋は先に行跡が汚れ時に棄てられていたが、経路を経てついに叨りに居るに至り、既に多くの塵埃を蒙りながらその狡蠹(悪知恵)はいっそう甚だしいと詰り、承旨の位にありながら朕の心を体すべきなのに、先に劉瞻を籓に出す際に朕に意図がなかったはずがないのに、次に草詔を担うべき身として過度に美辞を用い、筆先で譎詭を逞しくし愛憎を形に籠めたことは、瞻からの恩に報いることだけを知り朕の抜擢の恩を蔑ろにしたことになると述べ、言が偽りながらも堅く同悪相済むことが明らかであるとし、竄逐の科を行い邪な党を屏けるべきとして梧州刺史とした。

僖宗朝の宰相拝命

  • 僖宗即位後、召還され右散騎常侍を授けられ兵部侍郎に改められた。乾符四年、吏部侍郎に遷った。まもなく制が下り、先には正しい道が鬱屈し権が邪幸に帰していたが、畋は心を執って惑わされず節を秉って讒に遭いながらも鴛行(朝班)に復し人望はますます高まったと述べ、既に彌綸の業を負っているのだから輔弼の任に居るべきとして本官のまま同平章事とした。僖宗の尊号奉呈の礼が終わると中書侍郎を進加され特進に進階し門下侍郎・兼礼部尚書・集賢殿大学士に転じた。

黄巣の乱と高駢起用をめぐる論争

  • 五年、黄巣が曹・鄆で挙兵し南は荊・襄を犯し東は江淮を渡り衆は百万に及び経る郡邑をたびたび陥落させた。六年、安南府を陥落させこれを拠点とした。浙東観察使の崔璆に書を送り鄆州の節鉞を求めた。璆は賊の勢いを図りがたく授けて北方への懸念を絶つべきと述べた。天子は百僚に議させた。当初、黄巣が挙兵した際、宰相の盧攜は浙西観察使の高駢が元来軍功があるとして淮南節度使に奏し賊の要衝を扼させた。まもなく駢は諸道行営都統とされた。崔璆の奏に際し朝臣が議論した。節を仮して患を紓めるべきとする者もいた。畋は衆議を採り南海の節制で懐柔しようとしたが、攜は高駢を初めて用いた立場から奇功を立てさせ勝を図ろうとした。攜は「高駢の将略は並ぶ者がなく淮の兵はきわめて精鋭です、今諸道の師がまさに集結しており小さな賊など平定するに足ります、これを舎てて怯を示し諸軍の士気を解体させてよいものでしょうか」と述べた。畋は「巣賊の乱はもとは饑饉の年に因るものです、人は利により集まり実に大勢になりました、江淮以南はほとんど半分が食い尽くされています、国家は久しく用兵せず士は皆戦を忘れ、駐屯する節将も門を閉じて自守するだけで支えきれていません、咎を赦し包容し権に恩沢を降す方がよいでしょう、彼らはもと饑饉の年に利で集まった者たちであり一度豊年に遭えば故郷を思わない者がいましょうか、その衆が一度離れれば巣賊はほとんど俎上の肉となります、これがいわゆる戦わずして人の兵を屈するということです、もし今この機会に計をもって攻めず全て兵力に頼れば、天下の憂いはまだ尽きないでしょう」と述べた。

二相の対立

  • 衆議はこれを是としたが、左僕射の于琮は「南海には市舶の利があり毎年珠璣を貢いでいます、今妖賊の手にあればこのままでは国庫が漸く廃竭してしまいます」と述べた。上もまた駢の成功を望んでおり攜の議に従った。中書で制勅を商量する際、畋は「妖賊百万が天下を横行する中、高公は賊を延引し玩び翦除の意がないのに、これに更に地位を保証すれば彼らの思う壺です、国祚の安危は私たち三四人の画策にかかっています、公が淮南に頼り用兵しようとするなら、私はどこに身を落ち着ければよいのか分かりません」と述べた。攜は怒り袖を払って立ち上がり、その袖が硯に触れると、そのまま硯を投げつけた。僖宗はこれを聞き「大臣が互いに詬るとは、どうして四海の模範となれようか」と怒り、二人は共に政事を罷められ太子賓客・分司東都となった。

鳳翔節度使としての防衛

  • 広明元年、賊は嶺表から北に江浙を渡り崔璆を虜え淮南の郡県を陥落させた。高駢は張璘に要衝を守らせただけで自らは壁を閉じ自守した。天子はようやく畋の先の言を思い出し、二人は共に召還され畋は礼部尚書を拝した。まもなく鳳翔隴右節度使に出た。この冬、賊が京師を陥落させ僖宗が出幸した。畋は難が起こったことを聞き斜谷で駕を出迎え涙を流し「将相が陛下を誤らせ、これほどの事態になりました、臣こそ罪人です、死をもって不首尾を懲らしてください」と述べた。上は「卿の失ではない、朕は狂賊が陵犯したため興元に駐蹕することにした、卿は堅く賊の要衝を扼し蔓延させないように」と述べた。畋は「臣は心をもって国に報い死してもやみません、陛下には東方を顧みる憂いを持たれませんように、ただ道が艱難で奏報が滞りがちですので機に臨んで遠く聖旨を仰げないこともあり、便宜従事を許してください」と対えた。上は「宗社の利になるなら卿の行うところに任せる」と述べた。畋は鎮に戻ると兵を集め卒を補い武具を修め城壁を整えた。家財をすべて出して士卒に分配し昼夜大敵に臨むかのように備えた。

龍尾陂の戦い

  • 中和元年二月、賊将の尚讓・王璠が五万の衆を率い鳳翔を攻めようとした。畋は賊が来ることを予知し大将の李昌言らに要害に伏兵させた。賊は畋が儒者であることから抵抗できまいと侮り歩騎を長駆させ部伍が整っていなかった。畋は精鋭数千を高い丘に陣させ虚しく旗幟を延べ数里に連ねた。賊から十余里の距離で鼓を打ち陣を構えた。賊はその衆寡を測れず初めは兵を並べ陣を構えようとしたが後軍がまだ到着しないうちに昌言らが伏兵を発して撃ち、その衆は大いに乱れた。日が晡(夕方)に至ると岐の軍は四方から合し龍尾陂で追撃し、賊は兵仗を捨てて自ら潰え斬った首は万を数えその鎧仗を得て岐軍は大いに振るった。天子はこれを聞き宰相に「私は畋が儒者の勇を尽くさぬ者ではないと知っていたが、大いに心が慰められた」と述べた。すぐに畋を検校尚書左僕射・同平章事とし京西諸道行営都統を充てた。

檄文と諸鎮の呼応

  • 当時畿内の諸鎮の禁軍はなお数万あったが、賊が京師を汚した後、多くの兵が帰る所を失っていた。畋は制を承け招諭し諸鎮の将校が皆岐陽に集まった。畋は財を分けてその心を結び共に盟誓し王室を匡すことを期した。さらに檄文を天下に伝えた。
  • 檄文では、鳳翔隴右節度使・検校尚書左僕射・同中書門下平章事・充京西諸道行営都統・上柱国・滎陽郡開国公・食邑二千戸の鄭畋が諸籓鎮・郡県・侯伯・牧守・将吏に告げるとし、屯亨(困難と亨通)には数があり否泰(悪運と好運)は相い連なるもので日月が欠け陰陽が過ちを冒すのに似ていると述べた。漢朝が盛んなときは王莽・董卓が奸凶を恣にし夏道が未だ衰えぬときも羿・浞がその残酷を働いたが、いずれも僭越の末に誅されたことを引き、妖孽の生ずることは古今免れがたく、代々忠貞の士がその力を尽くし匡復の謀をなしてきたと述べた。我が国家は五運を承け乾を継ぎ三王の統を踏み区を綿々と化に浴させ宇を遍く仁に帰したこと、十八帝の鴻猷は神鼎に銘され三百年の睿沢は人々の謡に広まっていること、加えて政は寛弘を尚び刑は枉濫がなく王道を勤め行い生霊を恤むことに努めてきたことを述べ、これは無窮に宝祚を伝え瑤図を朽ちさせないに足るものだと述べた。
  • しかし近年螟蝗(虫害)が害をなし旱害が続き無頼の徒が乱を起こし秩序を乱すに至ったこと、討伐しても猖狂を止められなかったことを述べ、草賊の黄巣は奴僕下才・豺狼の醜類であり、寒い冬に耕し暑い夏に耨するような苦労を厭い田疇に力を尽くさず、食を偸み衣を靡し剽奪により生を偸んできたと批判した。凶党と結び平人を駆り立て里閭を擾害しやがて郡邑を侵陵するに至ったことを述べ、籓臣が武に劣り戎士が財を貪ったため討逐の名だけで実際は遷延の役となり、これが賊の跳梁を招き累々と要求を重ねさせる結果になったと述べた。聖上は民を愛育する情が深く道を含弘に広め、万方に自らの罪を問い百姓を心とし、節旄を仮して籓鎮に委ね悛革を望み疲弱の民を困らせないようにしてきたが、賊は犬馬の誠意を全く示さず虫蛇の毒を恣にし、征鎮を剽掠し京都を覆没させ衣冠を凌辱し士庶を屠残したと訴えた。人命を草芥のように見なし大宝を弈棋のように取れると思い、宮闈を窃据し偽って名号を称し、羊頭を爛らせて爵を拝させ狗の尾を続けて官を命じるような有様で、燕が幕に巣くうように安を誇り魚が鼎の中で戯れるようなものだと批判し、五侯が怒りを抑え項羽の屍を分けようとした故事や蚩尤の骨を葬った四冢の故事のように賊の末路は近いと述べた。田宅を広く侵し貨財を濫りに瀆し渓壑のように満たしがたく烏鳶のように恣に攫んでいるとし、茫々たる赤県(中国)はほとんど夷狄の郷のようになり惴々たる黔黎(民)は牢獄の中にいるかのようだと述べ、これは人神共に怒り道行く人が心を痛める事態だと結んだ。
  • 畋は謬って籓垣を領し将相の栄を兼ねる身として、常に戈を枕にして朝を待ち血の涙で食を忘れるほどであり、義士忠臣と共に狐鳴狗盗の輩を翦り除くことを誓うと述べた。近く詔命を承け諸軍を会合させ、皇帝は自ら六師を統べ既に三蜀を発ち、霜のような戈が万隊、鉄の馬が千群、雕虎が嘯けば風が生じ応龍が驤れば雲が起こるがごとき勢いであると述べた。淮南の高相公は関東諸道の百万の雄師を集め夏の初めに関内で会することを計っており、畋も涇原節度使の程宗楚・秦州節度使の仇公遇らと共に既に精鋭を駆り関畿に大集し隴右の蛇矛を挙げ関中の蟻の群れを掃おうとしていると述べた。吐蕃・党項も久しく皇化を被り国讎を深く憤り沙漠の軍をもって蕩平の捷を共に献じたいと願っていると述べ、この時こそ華戎が力を合わせ籓鎮が連衡し旌旗は雲霞に煥爛とし剣戟は霜雪に晶熒とする様であると述べた。皆縄を持って試みを待ち勇を賈って先を争い竹帛に功を垂れ朝廷の恥を雪ぐことを誓っているとし、この残った孽(黄巣)を殄除するのに何の困難があろうかと述べた。まして諸道は代々国恩を受け身に好爵を纏い皆匡邦の略を蓄え致主の誠を傾けており、函谷・洛陽が乱れ鑾輿が夷狄を避けて以来、銅駝を見て心が裂けぬ者はなく玉塁を望んで魂を消さぬ者はないと述べ、この勤王の呼びかけを聞けば必ず袖を投げて立ち上がるはずだとし、さらに憤激をもって速やかに寇讎を殄すことを望み、永く社稷の勲を図り君親の徳に報い鑾を迎えて反正することは、なんと喜ばしいことかと結んだ。

檄文の効果

  • 当時駕は坤維(蜀)にあり音信・駅路が阻絶し朝廷はもはや振るえないと見られていたが、畋の檄文が伝わると諸籓は動揺し各々勤王の師を治め、巣賊はこれを聞いて大いに恐れた。以後、賊騎は京西を越えることがなかった。当時畋が賊の要衝を扼していなければ褒・蜀は危うかったであろう。まもなく検校司空に進んだ。

晩年

  • その年冬、畋は急病にかかり、岐山がまさに賊の要衝を防ぐ地であることから驍将による鎮守が必要として大将の李昌言を薦める表を上げ、詔で許された。詔により畋は行在に赴くこととなった。二年正月、成都に至り、王鐸に代わって兵を将い収復させることとなった。畋はまもなく僕射平章事となったが病により長く拝せず累く表を上げ機務の解任を求めた。二年冬、罷相し太子少保を授けられた。僖宗は畋の子で給事中の凝績を隴州刺史とし、詔により畋に郡に赴き療養させた。畋は郡舎で薨じた、時に年五十九。

李茂貞による追贈上表

  • 光啓末、李茂貞が鳳翔節度使を授けられた。畋が兵を会した頃、茂貞は博野軍の小校として奉天にあり、畋はその軍をすべて岐下に召集し、茂貞が軍旅に勤勉であることを見て大いにこれを奇として遊邏の任を委ねた。この頃、茂貞は畋の奨め遇した恩を思い上表してこれを論じた。
  • 表では、故検校司空・同平章事の鄭畋が瑞応の星の精のごとく祥を月角に開き、洪炉を聖代に建て庶績を明昌に成したことを称え、鳳凰の羽が春の池に浴していたところ突然龍節が右輔(鳳翔)に移されたと述べた。群鴟(賊)が嘯き集い万蝟(多くの敵)が鋒を集める中、玉輅(帝の車)が慌ただしく地方に移り金門(宮門)が次第に閉ざされたことを述べ、九州は互いに顔を見合わせながらもなお風になびくように様子見をし百辟は帰する所なく半ば疑いながら忠誠を委ねていたと述べた。畋は冠を怒りで衝き袖を払って兵を治め、樽前に剣戟を並べ閫外に貔貅(勇猛な兵)を練り、犠牲を捧げ衆に誓い鼓に釁して師を出し、羽檄を四方に馳せ皇威を万里に暢べたと称えた。身をもって地軸を維ぎ横流を決して尽く東溟に入れ、手をもって天関を正し妖星を掃って北極を再び尊んだと述べ、囊沙減竈の計や伐鼓揚旌の勢いにより四凶が獣心を恣にする中でも一陣で龍尾(龍尾陂)に塗れさせたと述べ、建瓴(勢いに乗る)の捷を大いに振るったのは反掌の間に過ぎなかったとした。しかし思いがけず天柱が朝に摧け将星が夜に隕ち、竹帛には徒に茂烈が書かれるのみで松楸(墓所)にはまだ易名(諡)の栄が輝いていないと述べた。臣は初めて兵に従った際にその指顧を承り三令五申の戒めを稟け一匡九合の謀に与った、今誤って微功により重鎮を得たが、武侯(諸葛亮)の遺愛を思えば城塁はなお存し、叔子(羊祜)の高い足跡を思えば涙が止まらないと述べ、特に贈謚を加え泉扃(墓所)を慰めることを望むと結んだ。
  • 昭宗はこれを嘉し詔により司徒を贈り諡を文昭とした。

人物

  • 畋は文学に優れ器量は弘恕であった。風儀は美しく神彩は玉のようで詩を賦すのにとりわけ長けた。人と交わっては栄枯を問わず一貫していた。かつて員外郎であった頃、鄭薰に省への入省を許されなかったが、畋はこれを恨みとしなかった。畋が宰相になると薫の子が郎であったが、畋は特にこれを抜擢し給事中・列曹侍郎とした。徳をもって怨みに報いる姿勢は多くこの類であった。
  • 子の凝績は景福中、刑部・戸部の侍郎を歴任した。