舊唐書卷一百七十七 列傳第一百二十七 豆盧瑑

出自と経歴

  • 豆盧瑑、河東の人。祖父の願、父の籍はいずれも進士第に登った。瑑は大中十三年に進士科に登った。咸通末、累進して兵部員外郎となり戸部郎中知制誥に転じ翰林学士に召され正式に中書舎人を拝した。乾符中、累進して戸部侍郎・学士承旨に至った。六年、吏部侍郎の崔沆と同日に平章事を拝した。宣制の日、大風雷雨で樹木が倒れた。左丞の韋蟾が瑑と親しく祝いに訪れた際、瑑が雷雨の異変に話が及ぶと、蟾は「これは相公が霖(恵みの雨)を作る解の祥に応じたものです」と述べたが、瑑は笑って「霖はどうしてこれほど激しいのか」と答えた。黄巣の賊が京師を犯した際、僖宗に従い開遠門を出たが賊に制せられ、張直方の家に匿われ害を受けた。識者はこの風雷を不吉な兆しであったと見た。
  • 弟の瓚・璨はいずれも進士第に登り累く清要を歴任した。瓚の子の革は中興(後梁以後)に位が宰輔に至った。

史論

  • 史臣曰く、近代の衣冠人物で門族が盛んなものとして、崔從・崔颋の後裔は実に名流に富んでいる。しかし崔彦曾は徐州の乱の秋に遭い崔胤は李(唐)の亡ぶ数に接し、計は誤ったといえども天から逃れられようか。楊収・劉鄴・曹確・畢諴の諸族は門地が世胄でなくとも位を才藝により昇り典墳を身に付け青紫(高官)を俯拾いした。しかし楊収は地位を得ると奢侈を求め名を敗った。身を持し躬を飭むことは深く戒めとすべきである。杜氏は三世にわたり輔相を出したが、太尉(杜讓能)は横流(乱世)に陥り難に臨んで身を忘れたことは涙を流させるに値する。

  • 賛に曰く、漢代の荀氏・陳氏、我が朝の崔氏・杜氏。子があり弟があり、多くが宰輔に登った。裴(休)は節を改め、楊(収)は名を敗った。膏粱(富貴)が性を移すことは、信じるに足る証がある。