出自と経歴
- 曹確、字は剛中、河南の人。父の景伯は貞元十九年に進士第に登りさらに制科に登った。確は開成二年に進士第に登り籓府を歴訪した。入朝して侍御史となり工部員外郎知制誥から郎中に転じ、内署に入り学士となり正式に中書舎人を拝し金紫を賜り権知河南尹事となった。入朝して兵部侍郎となった。咸通五年、本官のまま同平章事となり中書侍郎・監修国史を加えられた。
伶官への抜擢への諫言
- 確は儒術に精しく器識は謹重で行動は法度に従った。懿宗が伶官の李可及を威衛将軍に任じようとした際、確は執奏し、貞観の故事によれば太宗が初めて官品令を定めた際、文武官合わせて六百四十三員とし房玄齢に「朕がこの官員を設けたのは賢士を待つためである、工商雑色の流は術が同輩に優れていても厚く財物を与えるだけでよく官秩を超授し朝賢君子と肩を並べ同座で食させるべきではない」と語ったこと、太和中、文宗が楽官の尉遲璋を王府率にしようとした際、拾遺の竇洵直が極諫し光州長史に改めさせた前例を引き、両朝の故事に基づき可及には別の官を授けるべきと請うたが、帝は聞き入れなかった。
李可及の寵愛
- 可及は音律に長け特に喉を転じて新声を作ることに巧みで、音辞の曲折は聴く者を飽きさせなかった。京師の屠沽(庶民)もこれを真似て「拍弾」と呼んだ。同昌公主の喪が明けた後、帝と淑妃は思念やまなかった。可及は『嘆百年舞曲』を作り、珠翠で盛装した舞人数百人が魚龍を描いた地衣の上で舞い官馬五千匹分の費用を用いた。曲が終わると珠璣が地を覆い辞語は淒惻で聞く者は涙を流し、帝はこれにより可及を寵愛した。かつて安国寺で『菩薩蠻舞』を舞わせた際、あたかも仏が降生したかのようで帝はますますこれを愛した。可及がかつて子の嫁取りをした際、帝は銀樽二つの酒を賜ったが開けてみると酒ではなく金翠であった。誰もあえてこれを非難しなかったが確と中尉の西門季玄だけがたびたびこれを論じても帝の寵は衰えなかった。僖宗即位後、崔彦昭がこれを逐うよう奏し可及は嶺表で死んだ。
確の晩年
- 確は累加して右僕射となり度支事を判じた。相位にあること六年。九年、罷相し検校司徒・平章事・潤州刺史・鎮海軍節度観察等使となった。龐勛を防いだ功により太子太師を加えられた。弟の汾も進士第に登り累官して尚書郎知制誥となり正式に中書舎人を拝した。河南尹に出、検校工部尚書・許州刺史・忠武軍節度観察等使に遷った。入朝して戸部侍郎・判度支となった。兄弟が共に将相の任に列したことは人々の栄誉とされた。
- 確と畢諴は共に儒術により登用され相位にあっては廉倹貞苦であったため君子に称され「曹・畢」と並称された。