出自と経歴
- 李讓夷、字は達心、隴西の人。祖父は悦、父は応規。讓夷は元和十四年に進士に及第し諸侯府から出仕した。太和初、入朝して右拾遺となり翰林学士に召され左補闕に転じた。三年、職方員外郎・左司郎中に遷り職を充てた。九年、諫議大夫を拝した。
起居舎人拝命の経緯
- 開成元年、本官のまま起居舎人事を兼知した。当時起居舎人の李褒が痼疾を得て罷免を請うた。宰臣の李石が欠員を奏すると、上は「褚遂良は諫議大夫の時この官を兼ねた、卿は今の諫議大夫の姓名を尽く挙げよ」と述べた。石は李讓夷・馮定・孫簡・蕭俶を奏し、帝は「讓夷でよい」と述べた。李固言は崔球・張次宗を用いたいと述べたが、鄭覃は「崔球は宗閔の門に遊んでいた、赤墀の下で記注する筆を執る職は千古の法であり朋党を用いてはならない、裴中孺・李讓夷であれば私は少しも異論はない」と述べた。讓夷が君主・大臣に重んじられていたのはこの通りである。二年、中書舎人を拝した。鄭覃のこの発言により李玨・楊嗣復に深く嫌われ、文宗の代を通じて官は伸びなかった。
徳裕政権下での栄達
- 徳裕が政を秉ると急速に抜擢され、工部・戸部の二侍郎を歴任し左丞に転じた。累進して検校尚書右僕射に至り、まもなく中書侍郎・同平章事を拝した。宣宗即位後罷相し、太子賓客・分司として卒した。