出自と館駅使への上疏
- 裴潾は河東の人。若くして篤学で隷書に巧みであった。門蔭により出仕し、元和初、累進して右拾遺、左補闕に転じた。元和中、両河で用兵していた際、憲宗は宦官を寵任し兵柄を専らにする者もあり、宦官を館駅使に充てることもあった。曹進玉なる者は恩を恃み暴戻で四方の使者に横柄で捽辱する者もあったため宰相の李吉甫が奏して罷めさせた。十二年、淮西で用兵があり再び宦官を使に充てようとした。潾は上疏し、館駅の務には専知官があり、畿内には京兆尹、外道には観察使・刺史が監臨し、台中にも御史が館駅使を充て過失を察している、宦官を出させれば内臣外事の職分を乱すことになると論じたが、言は用いられなかったものの帝の心にはかなうところがあり起居舎人に遷った。
服餌への諫言
- 憲宗は晩年薬餌に熱心となり天下に奇士を捜させる詔を出した。宰相の皇甫镈と金吾将軍の李道古は邪をもって寵を固め山人の柳泌や僧の大通、鳳翔の田佐元を薦め皆翰林で待詔とした。憲宗が柳泌の薬を服すと日ごとに躁渇が増し、その噂は外にも広まった。潾は上疏し、天下の害を除く者が天下の利を受け天下の楽を共にする者が天下の福を享けるとして黄帝以下歴代の聖王が功徳により長寿を報われたことを引き、陛下の大孝・至仁を称え、去年から諸方が薬術の士を薦め韋山甫・柳泌らが互いに引き合い薦送が増えていることを述べ、真の道士は名を隠し人に求めず山林に潜むもので、公卿に幹謁し術を鬻ぐような者は真の道士ではなく、利を求めて来て自ら仙薬を煉ると称し権貴の賄賂を誘うだけであり、偽りが露見しても恥じず逃げると論じた。金石の薬は前聖が病を療すために用いたもので常食ではなく、金石には酷烈な熱毒の性があり焼錬すれば年月を経てさらに危険であること、秦漢の君主が方士を信じた盧生・徐福・欒大・李少君の故事がいずれも奸偽の露見に終わったことを引き、「君の薬は臣が先に嘗め、親の薬は子が先に嘗める」との礼を引いて、薬術の煉薬人とそれを薦めた者にまず一年間服させ真偽を確かめるべきと述べた。
- 疏は帝の意に逆らい、潾は江陵令に貶された。
柏公成事件
- 穆宗即位後、柳泌らが誅され、潾は兵部員外郎に召され刑部郎中に遷った。前率府倉曹の曲元衡が百姓の柏公成の母を杖殺した事件で、法官は公成の母の死が咎の範囲外にあり元衡の父が軍使として父の蔭で銅(贖罪金)を徴すべきとしたが、柏公成が元衡から私に賄賂を受け母の死を公府に訴えなかったため法寺は恩赦により罪を免じようとした。潾は、典刑は公の柄であり在官者は部属に対して行使できるが元衡は在官でなく公成の母も部属でなく、威力を恃んで残虐を働くのは常典に拘るべきではなく、柏公成が讎から賄を取り母の死を利したのは天性に悖り誅すべきと論じた。奏が下り、元衡は杖六十配流、公成は死罪とされ、公議はこれを称えた。考功・吏部の二郎中に転じた。
官歴続き
- 宝暦初、給事中を拝した。太和四年、汝州刺史・兼御史中丞として出、紫を賜ったが、法に違い杖殺した罪に連座し左庶子・分司東都に貶された。
- 七年、左散騎常侍に遷り集賢殿学士を充て、歴代の文章を集め梁の昭明太子『文選』の続編として三十巻を編み『大和通選』と名付け音義・目録一巻とともに献じた。潾と元来交わりのない文士の文章はあまり選ばれず、当時の議論はこれを軽んじた。
- 八年、刑部侍郎に転じ、まもなく華州刺史に改められ、九年、再び刑部侍郎を拝した。開成元年、兵部侍郎に転じ、二年、集賢院学士・判院事を加えられた。まもなく河南尹に出て入朝して兵部侍郎となり、三年四月に卒し、戸部尚書を贈られ諡は敬。
- 潾は道義を以て自ら処し君に事えて心を尽くし、とりわけ朋党を嫉んだため権幸に知られることがなかった。憲宗が薬により結局長寿を得られなかったことから、君子は潾を先見の言と評した。
張皋の上疏
- 穆宗は柳泌を誅しても間もなく自ら惑わされ、左右近習を通じて次第に方士を再び進めた。処士の張皋が上疏し、神慮が淡ければ血気は和し嗜欲が勝れば疾病が起こるとし、古の聖賢は自ら頤養に努め外物に耳目を乱されなかったと述べ、『易』の「無妄の疾には薬せずして喜びあり」、『詩』の「天より康を降し福を降すこと穣々たり」を引いた。高宗朝の処士孫思邈の『千金方』の「凡そ人は故なくして薬を服すべきでない、薬気は偏って助けるところがあり臓気を不平にする」との言を引き、天子ならばなおさら自らを軽んずべきでないと述べ、先朝晩年に方士を好み危疾を招いたことを鑑とすべきと訴えた。朝野の人が紛々と密議しても旨に逆らうことを畏れ誰も献言しないため、自らは蓬艾の微生で麋鹿と共に住む身であっても忠義を弁えているとして意見を述べたと結んだ。
- 穆宗はこの言を嘆じ称えたが、まもなく張皋を訪ねさせても見つからなかった。