出自と経歴
- 張仲方、韶州始興の人。祖父の九臯は広州刺史・殿中監・嶺南節度使、父の抗は右僕射を贈られた。仲方の伯祖の始興文献公九齢は開元朝の名相。仲方は貞元中に進士に及第し宏辞科に登り、集賢校理から出仕したが母の喪により免官された。喪が明けて秘書省正字に補され咸陽尉に調任された。邠州従事に出、入朝して侍御史・倉部員外郎を歴任した。
李吉甫謚議
- 呂温・羊士諤が宰相李吉甫の陰事を誣告した事件で二人が貶された際、仲方は呂温の貢挙門生であったことに連座し金州刺史に出された。吉甫が卒すると入朝して度支郎中となった。太常が吉甫の諡を「恭懿」と定めた際、博士の尉遅汾は「敬憲」を請うたが、仲方は駁議した。諡は巨節を取り細行を蔑するべきものであるとし、吉甫は才藝豊かだが権謀を弄び好悪を私情に任せ諾を軽んじ信を欠いたと批判し、内には輔臣を害する盗を、外には毒を含む敵を招き、兵禍が四年に及んだことは吉甫の謀にその兆しがあり、これを「先覚者」とは呼べないと述べた。功を論ずるには妄りに取るべきでなく、蜀の平定は言語侍従の臣に帰し呉の平定は廟謀の輔に帰すものであり、これを混同すべきではないとし、また奢靡を嗜みながら「倹をもって人を愛す」と称し、受授に節操なく「才を慎み補う」と称するのは矛盾すると論じた。諫諍の士を外に斥け忠烈の廟を内に建てるのは聡明を蔽い私愛に近いものであり、家範に規律がなくどうして法を垂れ制度を定められるかと問うた。
- 諡法にいう「敬」とは内を直くすることであり内に粛でなければ外を刑すことはできない、「憲」とは法であり、吉甫は一度も法官を務めず一つの小獄も議したことがなく、要職にあっても安和平易寛柔を自任していたのみで、名と行いが一致しないと論じ、一定の辞は精審を要するとして淮西討伐が平定し天下が無事になってから都堂で集議して諡を定めても遅くないと請うた。
- 憲宗はちょうど用兵中であり仲方が深くこれを論じたことを憎み、大いに怒って遂州司馬に貶し、量移で復州司馬とし、河東少尹に遷り、まもなく鄭州刺史を拝した。
石像刻記
- 滎陽の大海仏寺には高祖が隋の鄭州刺史であった日、太宗の病を祈るため石像一躯を造らせ十六字を刻んだいわれがあった。年久しくして缺損したため滎陽令の李光慶がこれを修飾し、仲方は再びその石を刻んで記した。
敬宗朝での諫言
- 敬宗即位後、李程が宰相となり仲方と同年の進士であった縁で仲方を右諫議大夫に召した。敬宗は幼く戯れがちで淮南王の播に上巳の競渡船三十隻を造らせる詔を出した。播は船材を京師で調達し半年分の輸送費を要すると計算した。仲方は延英に赴き懇切に諫め、帝はただ十隻だけ造ることとした。帝がまた華清宮に幸そうとした際、仲方は「万乗の行幸には儀を備える必要があり軽々しく行くべきでない、威重を失う」と諫め、帝は従わなかったが仲方を労った。
太和・開成年間の官歴
- 太和初、福州刺史・兼御史中丞・福建観察使として出、三年、太子賓客に入り、五年四月、右散騎常侍に転じた。七年、李徳裕が輔政すると太子賓客分司に出され、八年、徳裕が罷相すると李宗閔が再び仲方を常侍に召した。
- 九年十一月、李訓の乱で四宰相・中丞・京兆尹が皆死んだ。翌日、両省官が入朝した際、宣政衙門が開かず百官が朝堂に取り乱れ引接する者もない中、閣門使の馬元贄が宣政衙門を斜めに開けて「左散騎常侍張仲方を召す」と宣した。仲方が班を出ると元贄は「仲方は京兆尹となる」と宣し、その後衙門が大きく開かれ仗が呼ばれた。一月余りで鄭覃が宰相となり薛元賞を京兆尹に用いたため仲方は華州刺史に出された。開成元年五月、秘書監に入った。世論は鄭覃が李徳裕の党であり仲方を排斥したと見た。覃は朋党に関わることを恐れ、紫宸で「丞郎の欠員に張仲方を用いたい」と啓したが、文宗は「中台侍郎は朝廷の華選である、仲方は牧守として政績がないのにどうして丞郎に処せようか」と答えた。銀青光禄大夫・上柱国・曲江県開国伯・食邑七百戸を累加され、二年四月に卒した。
- 仲方は貞確自立で祖の風があった。李吉甫の諡を駁議して以来、徳裕の党に排斥され坎坷のうちに没し、人士はこれを悼んだ。文集三十巻がある。
- 兄の仲端は位が都昌令に終わった。弟の仲孚は進士第に登り監察御史となった。