出自と初期の経歴
- 裴度、字は中立、河東聞喜の人。祖父の有鄰は濮州濮陽令、父の漵は河南府澠池丞。度は貞元五年に進士に及第し宏辞科に登った。制挙の賢良方正・能直言極諫科に応じ対策は高等となり、河陰県尉を授けられた。監察御史に遷り、権幸を論じた密疏の語が鋭く旨に逆らったため河南府功曹に出された。起居舎人に遷り、元和六年、司封員外郎知制誥となり、まもなく本司郎中に転じた。
魏博宣諭
- 七年、魏博節度使の田季安が卒した。その子の懐諫は幼く軍政を任せられず、牙軍は小将の田興を留後に立てた。興は朝廷に心腹を通じ国法を守り常賦を納めることを願い出、憲宗は度を魏州に遣わし宣諭させた。興は前任の僭侈の後を受け、車服や邸宅が制を超えていたため、これを嫌い、旧採訪使の庁に居所を移し、度に壁記を書かせ興の謙譲と奉法の姿勢を述べさせ、魏の人々は深く感謝した。興はさらに度に属郡を巡らせ詔旨を宣べさせ、魏の人々は郊外に出迎え感激した。使命を終えて戻ると中書舎人を拝した。
御史中丞――五坊小使の弾劾
- 九年十月、御史中丞に改められた。宣徽院の五坊小使は毎年秋に畿甸で鷹犬を検分し、至る先々の官吏に厚い供饋を求め、意に満たなければ横暴に取り立て、百姓は寇盗のように恐れた。貞元末にはこの輩の横暴が特にひどく、民家の門や井戸に網を張り「我らの供奉の鳥雀を驚かすな」と出入りや汲水を禁じ、酒食を売る家に群がって飲食し、去る際には蛇の入った篋を残して「この蛇でもって供奉の鳥雀を養う、飢渇させるな」と脅し、主人は賂を渡してようやく蛇篋を持ち去らせた。元和初にもこの弊は何度か取り締まられたが治まらなかった。
- 小使がかつて下邽県に至った際、県令の裴寰は性厳格でその横暴を憎み、公館の外では一切便宜を図らなかった。小使は怒り、寰が無礼な発言をしたと訴え、憲宗は怒り寰を獄に下し大不敬で論じようとした。宰相の武元衡らが道理を説いても帝の怒りは解けなかった。度は延英殿で寰の無実を極言し、帝はなお怒って「卿の言う通り寰に罪がなければ五坊小使を処罰し、小使に罪がなければ裴寰を処罰する」と述べたが、度は「罪の帰する所は聖旨の通りでしょうが、裴寰が県令として陛下の百姓をこれほど惜しんだことに罪を加えるべきでしょうか」と対え、帝の怒りはすぐに解け、翌日寰は釈放された。
- まもなく度は刑部侍郎を兼ね蔡州行営に使いし諸軍を宣諭した。帰還後、帝が諸将の才を問うと、度は「李光顔は義を見て勇敢に動く、終には成すところがあるだろう」と答え、数日のうちに光顔は時曲で賊軍を大破したと奏し、帝は度の人を知る眼識を大いに嘆じた。
宰相拝命の経緯――刺客に襲われる
- 十年六月、王承宗・李師道はいずれも刺客を放って宰相武元衡を刺し、度も同様に刺させた。この日、度が通化裏を出たところ、盗賊三人が剣で度を撃ち、まず靴の紐を断ち、次に背を撃ち単衣を切り裂き、さらに頭にわずかに傷を負わせ、度は馬から落ちた。度は氈帽をかぶっていたため傷は深くならずに済んだ。賊がさらに刃を振るい追ったが、従者の王義が賊にすがりつき大声で叫んだため、賊は刃を返して義の手を断ち切って逃げた。度は既に溝の中に落ちており、賊は度を死んだと思い立ち去った。三日後、詔により度は門下侍郎・同中書門下平章事となった。
- 度は剛直で弁が立ち、特に政道に長け、その言うところは人の心を動かした。魏博からの使いを終え帝意にかなう報告をし、蔡州の慰労から帰るとますますその言葉に耳を傾けられたが、武元衡が政を執っていたため大用には至らなかった。刺客事件により初めて大計を委ねられることとなった。
対藩鎮強硬論
- 当初、元衡が殺害された際、献策する者の中には度の官を罷めて二鎮(王承宗・李師道)の心を安んずべしと言う者がいたが、憲宗は「度の官を罷めれば奸計が通ることになる、朝綱はどう振るえようか、朕は度一人を用いてこの二賊を破るに十分である」と大いに怒った。度もまた賊を平らげることを己の任とした。度は負傷により二十余日の休暇を請い、詔により衛兵が度の私第に宿し中使の見舞いが絶えなかった。拝命前日、宣旨で「宣政での参賀は不要、延英に対せよ」と伝えられ、度が入対すると帝は懇ろに撫諭した。当時群盗が紀綱を乱し変事が都城に及び朝野は恐れおののいたが、度が宰相に任じられると人心はようやく安まり、必ず賊を平らげると期待された。以後、賊を誅する策が日々献ぜられ、軍の用兵は一層急となった。
冢宰論
- 十一年、荘憲皇后が崩じ度は礼儀使となった。帝が政を聴かず旧例に倣い冢宰を置いて百司を総べさせようとした際、度は「冢宰は殷・周の六官の首として邦理を掌り百司を統べたが、後代は官の設置にこの号がなく虚しく設けるべきでない、国朝の故事も置く置かないは一定でなく古今で制が異なり必ずしも踏襲すべきでない」と上疏し、勅により「諸司の公事は中書門下に取り計らわせる」とされ、識者はこれを是とした。
淮西討伐論
- 六月、蔡州行営の唐鄧節度使高霞寓が鉄城で兵を敗った際、朝野は震撼した。先に群臣が吳元濟討伐の可否を論じるよう詔が下った際、朝臣の多くは罷兵赦罪を説き、翰林学士の錢徽・蕭俛は特に強くそれを主張したが、度だけは賊を赦すべきでないと述べていた。霞寓の敗報が届くと宰相以上は皆用兵を厭い罷兵を上奏しようとしたが、延英で憲宗は「一勝一負は兵家の常であり、帝王の兵が敗れぬはずがないなら古来なぜ用兵に苦心しようか、卿らはただ要害の処置を考えよ、将帥に不適な者がいれば躊躇なく去らせ、兵力が足りなければ速やかに応援せよ、一将の不利で成計を挫くべきではない」と述べ、宰臣は言葉を発せず罷兵を言う者はなくなり、度の策が通った。
王稷家の一件
- 王稷家の二奴が、稷が父の遺表をすり替え進奉物を隠匿したと訴えた際、その奴を仗内に留め置き中使を東都に遣わして稷の家財を検めさせようとしたが、度は「王鍔(稷の父)の没後、その家の進奉は既に多い、今その奴の告発で家事を検めれば天下の将帥はこれを聞き家産を計るようになるだろう」と奏し、憲宗はその日のうちに中使を戻し二奴は京兆府に付され処刑された。
淮西赴任の決意
- 十二年、李愬・李光顔がたびたび賊を破ったと奏したが、国家は淮右に四年も兵を集め度支の供餉は弊害著しく、諸将は賊を玩んで様子見をし成功がなく、帝もこれを患いとした。宰相の李逢吉・王涯ら三人は軍を労し賦を弊するとして罷兵を望み、帝に利害を陳べたが、度だけは無言であった。帝が問うと「臣が自ら督戦いたします」と対えた。翌日延英で再び議した際、逢吉らが退出すると帝は度だけを留めて「卿は必ず朕のために行けるか」と問い、度は伏して涙を流し「臣は誓ってこの賊と共に生きません」と述べ、帝も面持ちを改めた。度はさらに「臣は昨日吳元濟の降を乞う表を見ましたが、この逆賊の勢いは実に窮迫していると察します。ただ諸将がまとまらず追い詰められないため降っていないだけです。もし臣自ら行営に赴けば、諸将は各々功を立て恩寵を固めようとし、賊は必ず破れます」と奏し、帝はこれを了とした。
淮西宣慰招討処置使拝命の詔
- 翌日、詔が下された。輔弼の臣は軍国の頼みであり、興化致理には鈞を秉して居るが、威を取り功を定めるには分閫して出ずるものである、淮右討伐にあたり朝議大夫・守中書侍郎・同平章事・飛騎尉・賜紫金魚袋の裴度を、その才謀・智略により丞相の印綬を帯びさせ諸侯の斧鉞を賜い、清問を宣布し皇猷を恢張し連営を感励し多塁を蕩平し孤疾を招懐し夷傷を撫するよう命じ、淮西の一軍はもとより忠節を効し過海赴難の勲があり建中初には襄陽を攻め破り梁崇義を擒えた功があるが、今は凶逆に脅されているため輔臣を内から輟し師率とし保全慰諭せしめるとし、門下侍郎・同中書門下平章事・蔡州刺史、充彰義軍節度・申光蔡観察等使、なお淮西宣慰招討処置使を充てるとした。
- 詔が出ると、度は韓弘が淮西行営都統であることから重ねて招討とは呼ばれたくないとし宣慰処置使とのみ称すことを請い、また招撫を兼ねる以上「翦其類」を「革其誌」に、弘が既に都統であることから「更張琴瑟」を「近輟樞衡」、「煩我臺席」を「授以成算」に改めるよう請い、いずれも許された。刑部侍郎の馬総を宣慰副使、太子右庶子の韓愈を彰義行軍司馬、司勲員外郎の李正封、都官員外郎の馮宿、礼部員外郎の李宗閔らを両使判官書記とする奏も許された。
私邸での賓客接待の慣例を改める
- かつて徳宗朝は政が偏り、朝官が互いに行き来すれば金吾に密かに察知させ密奏させ、宰相は私邸で賓客に会うことすらできなかった。度が輔政するに及び、群賊が未だ誅されていないため奇士を招き共に策を練るべきとして私邸で賓客を招くことを請い、憲宗はこれを許した。以後、天下の賢俊が丞相に計議を効し私邸で士に接することができるようになったのは、度の請いによる。
淮西討伐の続行と赴任
- 淮西討伐以来、王師はたびたび敗れ、殺傷が甚だしく輸送が追いつかないとして議論が紛糾したが、度は腹心の病を早く除かねば大患となり、そうしなければ両河の賊もこれを見て動静を決めるだろうと考え、堅く討伐を請い、帝は深く度を信任してこれを疑わず聞き入れた。
- 度は拝命し延英で対したとき、「主の憂いは臣の恥であり、義において必ず死をもって応えます。賊が滅べば朝廷に戻る日がありましょう、賊が残れば戻る期はありません」と奏し、帝はこれに惻然として涙を流した。
- 十二年八月三日、度は淮西に赴き、詔により神策軍三百騎が護衛し、帝は通化門に御して慰労した。度は楼下で涙を含んで辞去し、犀帯を賜った。名目は宣慰であったが実際は元帥の任にあたり、郾城を治所とした。帝は李逢吉と度が不仲であることから逢吉の知政事を罷め剣南東川節度に出した。
郾城での指揮
- 度が京師を離れると、淮西行営の大将李光顔・烏重胤は監軍の梁守謙に「度が来てから功を立てれば我らの利にならない、急いで戦い先に功を立てよう」と語り、その月六日に出兵し賈店で賊と戦ったが敗れた。度は二十七日に郾城に至り諸軍を巡撫し帝旨を宣達すると士気は奮い立った。それまで諸道の兵には中使の監陣がついて進退が主将の裁量にならず、勝てば先に献捷させ、負ければ様々に難詰していたが、度は行営に至るとこれらをすべて奏して除き、兵柄を将に専任させたため、皆喜んだ。軍法は厳粛で号令は一つに統一され、出戦のたびに勝利を収めた。度が使者を蔡州に遣わすと、吳元濟は「先に密かに降を望みつつも索日進が河を隔てて大声で呼ばわり三軍が元濟に備えたため、帰順の道がなかった」との書を度に送った。
呉元濟の捕縛
- 十月十一日、唐鄧節度使の李愬が懸瓠城を襲い破り吳元濟を捕らえた。度は先に宣慰副使の馬総を城中に入れ安撫させ、翌日、彰義軍の節を建て洄曲の降卒一万人を率いて進んだ。李愬は槖鞬を具え軍礼をもって度を出迎え路傍で拝礼した。度が政務に就くと蔡の人々は大いに喜んだ。旧令では道での私語を禁じ夜は燭を灯さず、酒食を共にする者は軍法で処罰されていたが、度は法を改め盗賊・闘殺以外はすべて廃し、往来も昼夜の別なく許した。これにより蔡の遺民は初めて生きる楽しみを知った。
- 当初、度は蔡の兵を牙兵に用いた。ある者は反側の徒で心が未だ安定していないため備えを解くべきでないと言ったが、度は笑って「私は彰義軍節度使を拝命し、元凶が捕らえられた今、蔡の人はすなわち私の人である」と答えた。蔡の父老は皆感涙し、申・光の民も即座に平定された。
淮西平定後の処置
- 十一月二十八日、度は蔡州から入朝し、副使の馬総を彰義軍留後として残した。当初、度が蔡州に入った際、元濟の婦女珍宝を没収したとの讒言があり、帝はやや疑った。帝は元濟の旧将をすべて誅そうとし二剣を封じて梁守謙に授け蔡州に遣わした。度は郾城に戻る途中で守謙と会い、共に蔡州に入り罪を量って刑を加えたが、詔の通りには実行しなかった。守謙は詔通りにと固執したが、度は先に疏を上げてそのまま京師に赴いた。二月、詔により度は金紫光禄大夫・弘文館大学士を加えられ、上柱国の勲を賜り晋国公に封じられ食邑三千戸を得、再び政事を知ることとなった。
政治顧問としての諫言――内宴の造営
- 憲宗は淮西の賊平定を機に李光顔ら功臣を朝に招き内宴を開こうとし、六軍使に麟徳殿の東廊を修めさせた。軍使の張奉国は公費が足りず私財で助けたことを執政に訴えた。度は「陛下の営造には将作監などの司局があるのに、なぜ功臣に財産を注ぎ込ませるのか」と穏やかに述べたが、帝は奉国が事を漏らしたことを怒り致仕させた。帝はまた龍首渠を浚渫させ凝暉殿を起こし華麗に飾り、仏寺の花木を移し庭に植えた。程異・皇甫镈という奸邪な者が度支・鹽鐵を領し、余剰金を貢いで帝の営造を助けた。帝は異・镈が蔡州平定時の供饋に事欠かなかったことから二人を共に同平章事に任じようとした。度は延英で「程異・皇甫镈は銭穀の吏に過ぎず、天に代わって物を治める器ではありません。陛下が耳目の欲に従い相位に就ければ天下の人が口々に不可と言い、陛下の益になりません、どうかよくお考えください」と面論したが、帝は聞き入れなかった。度は三たび疏を上げ論じ自らの相位を辞すことまで請うたが、上都は取り上げなかった(詳細は『皇甫镈伝』にある)。
五坊使楊朝汶の弾劾
- また商人の張陟が五坊使楊朝汶に借りた利息付きの金を隠し持ったところ、朝汶は陟の家から私簿を得て、借金人の盧載初が故西川節度使盧坦の筆跡だと記されていたため、朝汶は坦の家人を捕らえ拘束した。坦の息子は理を訴えられず私財で償ったが、後に筆跡を確かめると故鄭滑節度盧群の手書きであることが判明した。坦の息子がこれを訴えると、朝汶は「金は既に進上済みであり取り戻せない」と言った。御史中丞の蕭俛や諫官が朝汶の横暴を上疏し、度は崔群と共に延英で極言したが、憲宗は「東軍のことを卿と相談したいが、これは小事なので自分で処置する」と述べた。度は「兵事は小事です、五坊が平人を追捕するのは大事です、兵事が治まらなければ山東が憂うだけですが、五坊使の横暴は輦轂(都)を乱しかねません」と奏したが、帝は不快であった。帝は久しくして省悟し、楊朝汶を召して「以前お前のせいで私は宰相に会うのが恥ずかしかった」と責め、直ちに誅すよう命じた。
河北への調略
- 淮・蔡が平定されると鎮・冀の王承宗は大いに恐れた。度は弁士を遣わし趙・魏の間に遊説させ、承宗に土地を割いて質を入れ帰順するよう説かせた。承宗は田弘正に援を求めたが、これも度の使客が説得した結果であり、兵刃を交えることなく承宗は屈服した。
李師道討伐の献策
- 十三年、李師道が命に背いたため、宣武・義成・武寧・横海の四節度の師に田弘正と会軍させ討伐する詔が下った。弘正は黎陽から渡河し李光顔らの軍と合流することを奏請し、帝が延英で宰臣に可否を議した際、皆「閫外のことは大将が制するもの、既に上奏があれば請いに従うべき」と述べたが、度だけは不可として「魏博の一軍は他道と異なり、渡河後は退けず必ず進撃せねば功を見ません。もし黎陽から渡河すれば本境を離れてすぐ滑州に至り、供餉の労のみあって顧望の勢が生じます。ましてや弘正・光顔はともに威断に乏しく互いに疑い合い遷延を招くでしょう。兵事は中央で一定の処分をせねば懸念があります。河南で持重するのでなければ河北で威を養うべきです。さもなくば馬を秣い兵を励まし霜が降り水が落ちるのを待って楊劉で渡河し鄆州に直行すべきです、陽谷あたりまで進んで陣を張れば兵勢は自ずと盛んになり賊の陣形は自ずと乱れます」と奏し、帝は「卿の言う通りだ」として弘正に楊劉から渡河させる詔を下した。弘正の軍が渡河して南下し鄆州から四十里の地に塁を築くと賊の勢いは案の定衰え、まもなく師道は誅された。
皇甫镈の讒言による左遷
- 度は性が剛直で時政に欠陥があれば極言を惜しまず、そのため奸臣の皇甫镈に讒言され憲宗は不快であった。十四年、検校左僕射・同中書門下平章事・太原尹・北都留守・河東節度使となった。
穆宗朝――河朔再乱と鎮州招討使
- 穆宗即位、長慶元年秋、張弘靖が幽州軍に囚われ田弘正が鎮州で殺害され、硃克融・王廷湊が再び河朔を乱すと、詔により度は本官のまま鎮州四面行営招討使を兼ねた。当時帝は驕慢で輔相は凡庸、処置が適切でなく乱の再発を招いた。李光顔・烏重胤らは名将と称されつつも十数万の兵で賊を撃っても寸功もなかった。勢いが既に激しく流れ、もはや振るいがたかったからである。しかし度は拝命の日から兵を集め卒を補い休む間もなく、西軍を自ら率い賊境に臨み城を落とし将を斬りたびたび捷報を上げた。穆宗はその忠款を深く嘉し中使の慰諭は絶えず、検校司空に進み押北山諸蕃使を兼ねた。
元稹との確執・讒言への上疏
- 当時翰林学士の元稹は宦官と結び宰相の座を求め、知枢密の魏弘簡と刎頸の交わりを結んでいた。稹は度に恨みはなかったが自分より先んじる者を忌んでいた。度が山東で用兵し軍事を処置し上奏するたびに稹らに阻まれることが多く、天下の人は稹が寵を恃み帝の耳目を惑わすと言った。度は軍中から上疏し、主が聖ならば臣は直であり、聖主に遭遇した以上直臣たろうと述べ、河朔逆賊の患は山東を乱すのみだが禁闈の奸臣の患は天下を乱すため、河朔の患は小さく禁闈の患は大きい、しかも近頃自分の陳べた章疏と実際奉じた書詔にはしばしば食い違いがあり、翰苑の旧臣(元稹)が朋党を結び帝の聡明を蔽っているのではないかと訴えた。さらに自らが乗伝で京師に赴き軍事を面陳したいと請うても奸臣がこれを阻み、諸道を率いて討伐しようとしても阻害され、招撫が遅延させられていることを述べ、朝中の奸臣を去れば河朔の賊は討たずとも平らぐが、奸臣が残れば賊を平らげても無益であると論じ、代宗朝の程元振の蒙蔽を引いて自らを柳伉になぞらえ、この表を三事大夫と百僚に集議させるよう請うた。
元稹罷免と度の東都留守左遷
- 度は続けて三章を上げ辞情は激切であった。穆宗は不悦であったが大臣の正議を懼れ、魏弘簡を弓箭庫使とし元稹の内職を罷めた。しかし帝の稹への寵は衰えず、まもなく稹を平章事に拝す一方、度の兵権を罷め司徒・同平章事として東都留守に充てた。諫官は連日延英門に伏し、度は将相の全才であり散地に置くべきでないと上疏したが、帝は取り合わなかった。それでも人情が度にあることを知り、度に太原から京師を経て洛陽に赴くよう詔した。元稹は宰相となると帝に罷兵を請い廷湊・克融を赦し深州の囲みを解くことを進言したが、これは度の兵権を奪う狙いであった。
帰京と淮南節度使
- 二年三月、度は京師に至り、まず克融・廷湊が河朔で暴乱を起こし討伐の命を受けながら功がなかったことを述べ、次いで東都への任命により入朝を許されたことを陳べた。言葉は穏やかながら気は強く、左右の者を感動させた。度は龍墀に伏し涙にむせびながら奏し、帝も動かされ「よく分かった、朕は延英で卿を待つ」と自ら諭した。
- 当初、度には左右の助けがなく奸邪に排斥され、勲徳があっても人主を感動させられないと見られていたが、度が河北の事を慷慨激切に殿廷で陳べると、居並ぶ者は皆心を動かされ、武人や貴顕の者も嘆息して涙する者があった。翌日、度は司徒・揚州大都督府長史・淮南節度使を守り光禄大夫に進階した。
深州の囲み解除
- 当時朱克融・王廷湊は朝廷の節鉞を受けながら深州の囲みを解いていなかった。度は太原を発つ際、二鎮に書を送り大義を諭した。克融は囲みを解いて去り、廷湊も退いた。中使が深州から来てこれを報告すると穆宗は大いに喜んだ。その日また中使を深州に遣わし牛元翼を迎えさせ、度に廷湊への書状を書かせた。度は道中で詔を奉じ、中使が受け取った度の書には「朝謝の後は留務に帰るつもりだ、廷湊が度に兵権がないことを知れば前約を破るだろうから、易えてほしい」とあった。中使は度の書の草稿を進呈しその事情を奏上した。度が京師に至り進退を明弁すると、帝はちょうど深州の囲みを憂えていたため度に淮南節度使を授けた。
劉悟の一件への助言
- 先に監軍使の劉承偕が寵を恃み節度使の劉悟を凌辱したため、三軍が憤り大いに騒ぎ承偕を捕らえて殺そうとし、既にその従者二人を殺したが、悟が救って承偕を助命し監禁した。詔により承偕を京師に送還させようとしたが、悟は軍情を理由に従わなかった。この件で宰臣が延英で奏事した際、度も列席していた。帝が「劉悟が承偕を拘束し送り返さないのはどう処置すべきか」と問うと、度は蕃臣として軍国の事を議すべきでないと辞退したが、帝がなお問い、悟が仆射の位や絹五百万疋を賜りながら軍衆を放って監軍を凌辱させ、この事にどう対処すべきか難儀していると述べた。度は「承偕が昭義で不法を働いたことは臣もすべて知っております。かつて悟が行営から臣に書を送りこの事をたびたび論じました。当時中使の趙弘亮が臣の軍にいてその書を持ち帰りましたので、自ら奏上したかどうか」と述べた。帝は「私は全く知らない、悟はなぜ密奏しなかったのか、私に処置できないことがあろうか」と述べた。度は「劉悟は武臣で大臣の礼を知りません。しかし密奏があっても陛下は処置できなかったでしょう。今日このように事情が明らかになり臣らが面と向かって論じても陛下はなお決められないのですから、悟の言葉だけで聖聴を動かせるはずがありません」と述べた。帝が「前のことは論じずともよい、今どう処置すべきか直言せよ」と問うと、度は「陛下が忠義の心を得て天下の武臣に陛下のため命を捧げさせたいのであれば、詔書半紙を下し、任使が不明で承偕がこのように法を乱すに至ったと述べ、悟に三軍を集めて斬らせるべきです。そうすれば万方は命を尽くし群盗は肝を潰し天下は無事となります。そうしなければ悟に官を改め絹を賜っても事の益にはならないでしょう」と述べた。帝はしばらくうつむいて「朕は承偕を惜しいとは思わないが、太后の養子であるため囚われていることを太后がまだ知らない、卿の処置が難しければ改めて相談しよう」と述べ、度は王播らと共に「遠く悪い地に配流すれば承偕は必ず出られましょう」と奏し、帝はこれに従い、承偕は結局帰還できた。
徐州の乱への対処と復権
- 度が司徒の冊を受けようとしていた頃、徐州から節度副使の王智興が河北行営から兵を率いて戻り節度使の崔群を逐い自ら留後を称したとの奏があった。朝廷は驚愕し、その日のうちに宣制し度を司徒・同平章事として再び政事を知らしめた。宰相の王播に度に代わり淮南を鎮めさせた。度と李逢吉は元来不仲であり、度を憎む者たちは逢吉が陰謀に長け度を陥れられると見て襄陽から逢吉を召し兵部尚書とした。度が再び政事を知ると、魏弘簡・劉承偕の党が禁中にあり、逢吉は族子の仲言の謀により医人の鄭注を通じ中尉王守澄と結び、宦官もこれを助けた。五月、左神策軍が告発人の李賞の言として「和王府司馬の于方が元稹の使いで客を結び裴度を刺そうとしている」と奏した。詔により左僕射韓臯・給事中鄭覃と李逢吉の三人が于方の獄を鞫問したが、未決のまま元稹は同州刺史に、度は左僕射に罷められ、李逢吉が度に代わり宰相となった。以後、逢吉の党の李仲言・張又新・李続らは内は宦官と結び外は朝士を扇動し朋党を立て度を阻もうとし、これを「八関十六子」と称した。度への悪評が日々広まり、まもなく度は同平章事を帯びぬまま山南西道節度使に出された。
韋処厚の弁護と復官
- 長慶四年、襄陽節度使の牛元翼が卒した。その家族は先に鎮州にあり、朝廷は何度も中使を遣わし引き取ろうとしたが王廷湊は引き延ばして渡さず、元翼の死を聞くとその家族を皆殺しにした。昭湣皇帝はこれを聞いて何日も嘆き、宰輔が人材でないためこのような奸臣の悖逆を招いたと嘆じた。翰林学士の韋処厚は上言し、汲黯が朝にあれば淮南は謀反せず、段幹木が魏にあれば諸侯は兵を加えなかったという故事を引き、裴度の勲は中夏に高く声は外夷に及び廷湊・克融もその力を憚り吐蕃・回鶻もその名に服しているのに、今もし朝廷に置かず用いなければ河北山東は朝廷の策に従わなくなるだろう、管仲の「人が離れて聞けば愚となり、合わせて聞けば聖となる」との言葉のとおり治乱の本は人心に順うか背くかにあるとし、陛下が食事の際に嘆息し蕭何・曹参のような人材がいないことを恨みながら、目の前に裴度という人材を留めて用いないのはどういうことかと訴えた。宰相を用いるには信じて委ね親しんで礼を尽くすべきであり、功のない者は退けるがそれ以外は終始を全うすべきと説き、自らは逢吉と讎嫌はなく、かつて裴度により貶黜されたこともあるが、これは君のためを思っての進言であると述べた。
- 昭湣は驚き省悟し、度の奏状に平章事の名がないことに気づき「度は宰相であったのになぜ平章事がないのか」と処厚に問い、処厚は「逢吉に押しのけられ、僕射から興元に出鎮した際に旧使銜から落とされたのです」と奏した。帝は「そこまでするとは」と述べ、翌日制を下し同平章事を再び兼ねさせた。
武昭事件
- しかし逢吉の党は巧みに度を貶め、度の復用を恐れた。陳留の人の武昭は果敢で弁が立った。度が淮西を討った際、昭は軍門に進み蔡州に入り吳元濟を説かせ、元濟が兵で威嚇しても昭は動じず、善く応対して帰った。度はこれを用いるべしと見て軍職に署し太原に鎮した際に随行させ石州刺史を奏授した。郡を罷め袁王府長史とされた。昭は散位に置かれ内心鬱屈し逢吉を怨む言葉を漏らした。奸邪の党は衛尉卿の劉遵古の従人安再栄に告発させ、武昭が李逢吉を害しようと謀ったとした。獄が成り武昭は死んだが、これは度の旧事を暴いて汚す狙いであった。しかし士君子の公論は皆度を助け逢吉を罪とした。天子は次第にその実情を明らかにし、興元を通る中使のたびに密旨を伝え撫諭し、召還の約束もあった。
京師召還と讒謗
- 宝暦元年十一月、度は入朝を疏請した。翌年正月、度が至ると帝は厚く礼遇し、数日後、宣制で再び政事を知らせた。逢吉の党の左拾遺張権輿は特に力を尽くし、度が興元から入朝を請うたことに対し「度の名は図讖に応じ、宅は岡原に拠り、召さずして自ら来たのはその心が知れる」と上疏した。先に奸党は度を忌み「非衣(裴)の小児が腹をはだけ、天上に口があり駆逐された」という謡辞(「天口」は度がかつて吳元濟を平らげたことを指す)を作った。また帝城の東西に六つの岡が横たわり『易』乾卦の数に合うとされ、度の平楽裏の邸がちょうど第五の岡にあたることから権輿はこれを言葉として取り上げた。昭湣は年少ながらその誣謗を深く見抜き、度への恩顧を変えず、奸邪は言葉を発することができなかった。
洛陽行幸の中止
- 当時昭湣は洛陽への行幸を望み、宰相の李逢吉と両省の諫官がたびたび上疏したが、帝は「朕の意は既に定まった、従官宮人は皆自ら糒糧を備えよ、百姓に供饋させることはない」と厳しく述べた。逢吉は東都は近く宮闕もあり時に巡遊するのは常典だが法駕が動けば千乗万騎の儀を減らせず費用は豊倹適宜であるべきで、自ら糧を備えるようでは大体を損なう、干戈がなお収まらず辺境も安寧でない今は人心の動揺を恐れると諫めたが、帝は聞かず度支員外郎の盧貞を東都に遣わし行宮と洛陽大内を検分させた。朝廷が憂え恐れていたところ、度が興元から来て延英で行幸のことに話が及ぶと、度は「国家が両都を営んだのは巡幸に備えるためですが、艱難以来この事は絶えて久しく、東都の宮闕・六軍の営塁・百司の廨署は荒廃しています。行幸を望まれるなら少しずつ修繕し、一年半ほど後にようやく議すべきです」と述べた。帝は「群臣の意見はここまで及ばず、ただ行くべきでないとだけ言う、卿の奏のようであれば行かなくとも期を延ばしただけで済む」と述べた。折しも硃克融・史憲誠がそれぞれ丁匠五千人を出し東都修繕を助けたいと請うたため、帝は東行を停止した。
硃克融対策の献策
- 幽州の硃克融は留賜春衣使の楊文端を拘束し、衣段が粗末だと訴え、今年の三軍の春衣が不足しているとして度支に一季分の春衣(約三十万端匹)を請い、また丁匠五千人を出して東都修繕を助けると請うた。帝はその不遜を憂え、宰臣に「克融の奏をどう処置すべきか、重臣を遣わし宣慰させ春衣使を求めさせるべきか」と問うと、度は「克融の家はもと凶族であり故なくまた無礼を働くのは自ら滅亡を招くだけです、陛下は憂うるに足りません。譬えれば山林の中で自ら吼え躍る豺虎のようなもので、事とせねば自ずと何もできません。この賊はただ自分の巣穴の中で無礼を働くだけで、動けば何もできません。今は使者を遣わし宣慰する必要も留めた勅使を求める必要もなく、十日ほど猶予して詔を下し『宦官がそちらでやや礼を失したと聞いた、到着次第処分する。賜った春衣が有司の作りが良くなかったことは大いに気にかけており既に処罰を命じた』と伝えればよいでしょう。丁匠五千人と兵馬を東都へという請いはもとより虚言であり、賊中では出せないと思われますので、直ちにその奸意を挫くべく『卿の請う丁匠での宮闕修繕は速やかに遣わせ、既に魏博等道に命じ受け入れを準備させている』と返答すべきです。この詔を得れば必ず慌てふためくでしょう。もしこれができず含容を示すなら『東都宮闕の修繕は有司の事であり卿が丁匠を遠く遣わす必要はない。また三軍の春衣は本道の通常のことであり、朝廷がこれまで賜与したのは出征に伴う特別な恩であって通常はこの例はない、朕は二三十万端匹を惜しむわけではないが範陽だけに特別扱いはできない、卿は承知せよ』と返答すればよいのです。このように処分すれば陛下は気にかけずともよろしいでしょう」と述べた。帝はこれに従い詔章を出したところすべて度の予想通りとなり、旬日もたたぬうちに幽州で克融とその二子が殺された。
政務への出席を促す諫言
- 当時帝は幼く驕縦で群臣に会うのを厭っていた。度は「近頃陛下は月におよそ六七度朝に坐され、天下の人心は陛下が庶政に躬親していることを知らぬ者はなく、河北の賊臣も遠く聞いて耳をそばだてています。この両月ほど入閣・延英が稀になり、大事な公事が滞っているのではと案じます。どうか涼しい時に度々坐して意見を広く求めてください。聖体を養うには時候に順うことが肝要で、飲食に節あり寝起きに常あれば四体は和し長寿を保てます。道書に『春夏は早起き、鶏鳴の頃、秋冬は遅く起き、日の出の頃』とあるように、陽にあっては涼を、陰にあっては暖を求めるものです。今陛下は庶政に憂勤し万機を親覧され延英に御して臣らを召され対されますが、盛夏のこの時期は清晨が望ましく、巳午の頃は炎暑が厳しく、日が傾いても食を忘れるほど労を厭わずとも、仰ぎ見る臣らも煩わしく感じます。すでに何度も申し上げましたが切にお聞き入れを願います」と述べ、以後帝の視事はやや頻繁になった。
敬宗擁立への関与
- まもなく度支を兼ね領した。禁闈に盗が起こり宮車が晏駕(崩御)した際、度は中貴人と密謀し劉克明らを誅し江王を迎えて天子に立てた。その功により門下侍郎・集賢殿大学士・太清宮使を加えられ他は元の通りとされ、擁立の勲により特進に進階した。
滄景の乱への対処と機務辞退
- 当時滄景節度使の李全略が死し、その子の同捷が兵権を私し継襲を求めたため、度は討伐を請い、一年余りで同捷は誅された。度は兵食の調達は宰相の事ではないとして上疏し諸有司に返還するよう請い、詔により許された。実封三百戸を賜った。
- 度は年老いて病がちとなり、機務を辞したいと懇ろに上疏したが恩礼はますます厚く、文宗は御医を遣わし診させ日々中使に見舞わせた。四年六月、詔が下り、漢の孔光や晋の鄭沖の故事を引き、宰相の位を大政に委ね参決の繁務から解くとして、特進・守司徒・兼門下侍郎・同中書門下平章事、充集賢殿大学士・上柱国・晋国公・食邑三千戸・食実封三百戸の裴度を、憲宗朝の出車殄寇の勲、穆宗朝の参戎入輔の績、敬宗朝の活国庇人の勤、当代における吊伐底寧の力を称え、司徒・平章軍国重事とし、病が癒えるまで三日・五日ごとに一度中書に入ることとし、散官勲封実封は元のままとし冊命の礼を備えるとした。
- 度は表を上げて辞退し、公台の崇礼冊典の盛儀は自分には過ぎたもので、既に前後三度この礼を受けており、なお枢近に参ずる以上さらなる煩わしさを重ねるのは恥じ入るとし、実務を課し実事を責めることを求め冊命の儀は停止するよう願った。優詔によりこれが許された。九月、守司徒・兼侍中・襄州刺史、充山南東道節度観察・臨漢監牧等使を加えられた。
晩節――韜晦と批判
- 度は元来堅正で君に事えて曲げず、そのためたびたび奸邪に排され危うい目にも遭ったが、晩節にはやや浮沈して禍を避けるようになった。当初、度支鹽鐵使の王播が広く進奉を行い寵を求めた際、度も余剰金を集めて播に倣ったため士君子はこれを軽んじた。また韋処厚・南卓を補闕拾遺に引き入れ結納を図り自安の策とした。後進の宰相李宗閔・牛僧孺らはこの振る舞いを喜ばず、そのため度は病を理由に辞任し再び襄陽節度に出された。
臨漢監牧の廃止・東都留守・李訓事件での弁護
- 元和十四年、襄陽に臨漢監牧を置き百姓の田四百頃を廃し牧馬三千二百余匹を置いていたが、度は牧馬の数が少なく無駄に民田を廃していると奏しこれを罷め使の名も除いた。八年三月、本官のまま東都尚書省事を判し東都留守を充てた。九年十月、中書令に進んだ。十一月、李訓・王涯・賈餗・舒元輿ら四宰相が誅された際、その親属門人で連座した者は数十百人に及び獄に下され流竄されようとしたが、度は上疏してこれを弁じ、数十家を救った。
晩年の生活――綠野堂
- 以後、宦官が権を用い衣冠の道が廃れると、度は年齢もあり王綱が乱れる中もはや出処にこだわらなくなった。東都の集賢裏に邸を立て、山を築き池を穿ち竹木を植え、風亭水榭・梯橋架閣・島嶼回環と都城随一の勝景を作った。また午橋に別荘を築き花木万株を植え、涼台暑館を「綠野堂」と名付け、甘水を引き入れ脈を分けて左右を潤した。度は政務の合間に詩人の白居易・劉禹錫と終日酒宴を楽しみ高歌放言し詩酒琴書を自ら楽しみ、当時の名士は皆この交わりに加わった。都から京師に戻る人があるたび、文宗は必ず「卿は裴度に会ったか」と先に尋ねた。
再度の河東節度使、そして薨去
- 帝は度の足の病で朝謁が不便であっても年はまだ甚だ衰えていないとし、開成二年五月、再び本官のまま太原尹・北都留守・河東節度使を兼ねさせた。度はたびたび老病を理由に固辞し兵権を再び執ることを望まなかったが、優詔は許さず、文宗は吏部郎中の盧弘を東都に遣わし「卿は多病でも年はまだ甚だ老いていない、朕のため臥して北門を鎮めよ」と促し、度はやむなく赴任した。三年冬、病が重くなり東都に戻り養病を願い、四年正月、詔により帰京を許され中書令を拝したが、病のため朝謝できなかった。詔で本官の俸料は日を計って支給するとされ、国医が邸に遣わされ診察した。
- 上巳の曲江賜宴で群臣が詩を賦した際、度は病で赴けなかった。文宗は中使に度への詩を賜り「元老を待つことを思い、君を知るのが遅かったことを恨む。我が家の柱石は衰え、憂いを丘に祈ることを学ぶ」と詠み、御札で「朕の詩集に卿との唱和詩を入れたいのでこれを示す、卿の病がまだ癒えず心力がなければ後日でよい、春の頃は養生が難しいというから調護に努め早く癒えるように、多くの思いは書き尽くせない、薬物が必要なら奏請を憚らずに」と伝えた。しかし御札が門に着いた時には度は既に薨じていた。四年三月四日のことである。帝はこれを聞いて長く震え悼み、詩を清書させて霊座に置かせた。時に年七十五、太傅を追贈され、朝を四日輟め、賻贈は加等とされた。詔により京兆尹の鄭復が喪事を監護し、要する物はすべて官給とされた。
遺表
- 帝は度に遺表がないことを訝しみ、中使が問うと家人がその稿草を進めた。その趣旨は儲貳(皇太子)が未だ定まらぬことを憂うるものであり、家事には及んでいなかった。
総評
- 度はもと書生として策により科挙に及第し、数年のうちに要職を歴任した。艱難の時に遭いながらも命を奮い策を決し、身を挺して賊を討ち中興の宗臣となった。元和・長慶の頃、乱臣賊子は鋭気を蓄えられず度の威に恐れをなした。度の風貌は中人を超えるものではなかったが、風采は俊爽で対応は雄弁であり、見聞きする者は皆襟を正した。使者として絶域に赴く者があれば四夷の君長は必ず度の年齢・容貌・帝の用不用を尋ねたといい、その威名は異域にまで及び華夷から畏服されたのはこの通りである。当時の威望徳業は郭子儀に匹敵し、中外に出入りして身をもって国の安危・時の軽重を担うこと二十年に及んだ。将相を任命するたびに賢愚を問わず皆度を第一に推したのも士君子から愛重された証である。東晋の王導・謝安が雅俗を鎮めたのに勝るとも劣らぬ、訏謨方略においては度がなお勝っていた。
- 子は五人、識・譔・讓・諗・議である。
度子 識
- 識は蔭により官を授けられ、累進して通議大夫・検校右散騎常侍・寿州刺史・本州団練使・上柱国、晋国公を襲い食邑三千戸・実封百五十戸、紫金魚袋を賜った。大中初、潭州刺史・御史中丞に改められ河南都団練観察使を充てた。八年、検校戸部尚書・鳳翔尹・鳳翔隴右節度使を加えられ、十一年、本官のまま許州刺史・忠武軍節度・陳許観察等使に移った。
度子 譔
度子 讓
- 讓は初め京兆府参軍を務め、太和中、度が襄陽に鎮した際、随行を願い出た。
度子 諗
- 諗は大中五年、大中大夫・検校右散騎常侍・御史大夫・宣州刺史・宣歙観察使・上柱国・河東男・食邑三百戸、紫金魚袋を賜り入朝して権知刑部侍郎となった。兄弟が並んで方鎮に列したことを人々は栄誉とした。
史論
- 史臣曰く、徳宗は建中の乱に懲りて藩臣に姑息になり、貞元末年には威令が衰微した。章武皇帝(憲宗)はかねての憤懣を晴らそうと志し朝廷で嘉猷を訪ねた。初めに杜黄裳(邠公)を得て高崇文に劉辟を誅させ、次に武元衡(武丞相)を得て軍略を運らせ帝の英断を助けさせ、終には裴晋公(度)を得て武威を輝かせ両河の宿盗を尽く滅ぼした。雄々しいかな、章武の果断は。晋公は書生の身から台衡の位に至り、艱難に遭って凶醜に憤り、身をもって殉ずることを誓ったのは壮とすべきである。臣が君に事えるには忠と義があるのみで、大は謀略で禍難を排し小は正論で過失を匡すもので、内に己の利害を計らず外に人言を恤えないのは古人にも難しいことだが、晋公はこれを成し遂げた、まことに社稷の良臣、股肱の賢相であり、元和中興の功は彼のものと言うべきである。かつて孔子が周室の陵遅を嘆き斉桓公の覇業を評して「管仲がいなければ」と論じたが、王承宗・李師道が悪を極めた頃、奸人が四海に満ち刺客が京師に溢れ、関吏禁兵さえ賊に内通し議論する臣の言葉が出る前に刃が胸を貫く有様であった。死を賭す義臣がいなければ誰が身を挺して危難を冒し天子を輔けようか。もし裴令(度)が用いられなければ元和の世の運命は測り難かったであろう。臣がここに「左衽」(夷狄化)の嘆きを明らかにし聖上が賢を奨める深意を宣べる所以である。
賛
- 賛に曰く、晋公は叛を伐ち、身をもって難に臨んだ。用いれば治まり、捨てれば乱れる。公が朝廷を去ると冀方(河北)を再び失った。穎(元稹)・植(皇甫镈)の謀は、まことに善からぬものであった。