鄭注との結託と入宮
- 当時、逢吉は東都留守で、再び宰相になることを望み、また裴度を深く怨み、常に憤懣を抱えていた。訓はその意を察し、奇計をもって動かした。自ら鄭注と親しいと称し、逢吉はこれを信じ、訓に金帛珍宝数百万を与え長安に持たせ鄭注に賂わせた。注は賂を得て喜び、機を見て中尉王守澄に薦めた。守澄は注の医薬の術と訓の易学を合わせて文宗に薦めたが、訓が喪服中であることを憚り禁中に入れがたく、帝は訓に戎服を着させ王山人と号させて注と共に内に入れた。帝はその趣意を見て奇才と認めた。
- 訓が喪を終えると京師にとどまり、太和八年、流人の身から四門助教に補され内殿に召され緋魚を賜った。その年十月、国子『周易』博士に遷り翰林侍講学士を兼ねた。院に入る日には宴が賜られ法曲弟子二十人が院で法曲を奏して寵愛を示した。両省の諫官が閣に伏して訓の奸邪を切に諫めたが、聞き入れられなかった。
誅宦官の謀
- 文宗は生来正を守り悪を憎む性で、宦官の権寵が過ぎ禍の種となっていること、元和末の弑逆の徒がなお左右にいることを、表向きは優遇しつつも内心堪えがたく思い、その根を断ち恥を雪ぎたいと望んだが、宮中深くにあり将相と明言し難かった。かつて侍講の宋申錫と謀ったが失敗し反撃を受け、以後宦官はいよいよ横暴となった。そこで鄭注が王守澄の寵を得ていることを利用し訓を推挙させ、黄門の疑いを避けようとした。
- 訓は翰林にあって『易』を講ずる際、宦官の事に話が及ぶとしばしば激憤して見せ、帝の心を動かした。訓・注の弁舌は縦横であったため必ず事を成すと見込まれ、帝は真意を二人に明かして謀った。以後二人は寵幸を得て言うことは何でも聞き入れられたが、深い密謀は往々にして外に漏れた。帝は宦官の猜疑を恐れ『易』義六条を疏して百官に示し、訓の真意を言い当てた者に賞を与えるとし、師友として訓を寵すると見せかけた。
- 九年七月、兵部郎中・知制誥に改められ翰林学士を兼ね、九月には礼部侍郎・同平章事に遷り金紫の服を賜り、詔により政務の暇に三五日ごとに翰林に入ることとされた。
訓による専権と王守澄の誅殺
- 訓は権を握ると宦官誅殺を謀った。宦官の陳弘慶はもと元和末の弑逆の名を負っていたが、当時襄陽監軍であったところを漢南より召し、青泥駅で杖により決殺した。王守澄は長慶以来枢密を掌り禁軍を典って威福をほしいままにしていたが、訓は宰相となると守澄を六軍十二衛観軍容使とし禁旅の権を奪い、まもなく鴆殺した。訓はますます帝の恩顧を受け、別殿での奏対のたびに他の宰相は訓の言に逆らわず、宦官・禁軍も迎えて拝礼し控えめになった。
- 訓はもともと軽薄で、その門庭に集う者は狂怪険異の輩が多かったが、時には正人偉望の士を取り立てて人心を鎮めることもあり、天下の人には訓によって太平が来ると期待する者もあり、惑わされたのは帝一人ではなかった。
甘露の変
- 訓は鄭注に引き立てられた身であったが、禄位が共に大きくなると両立できぬ勢いとなり、中外呼応の謀を口実に注を鳳翔節度使として出した。宦官を誅した後は注も除くつもりであった。同年十一月に宦官誅殺を約し、兵力が要るため大理卿の郭行余を邠寧節度使、戸部尚書の王璠を太原節度使、京兆少尹の羅立言を権知大尹事、太府卿の韓約を金吾街使、刑部郎中知雑の李孝本を権知中丞事とし、いずれも訓の親しい者であった。王璠・郭行余が任地に赴く前に広く豪俠や金吾台府の従者を募らせ、事を集結させようとした。
- その月二十一日、帝が紫宸殿に御し班列が定まると、韓約が「金吾左仗院の石榴樹に夜来甘露が降り、既に上奏いたしました」と拝舞して報告し、宰相百官が次々に祝賀した。李訓は「甘露の瑞祥が宮禁に降りたのですから、陛下は自ら左仗にお出ましになるべきです」と奏し、帝は輿に乗り紫宸門を出て含元殿東階から殿に登った。宰相・侍臣は副階に分かれて立ち、文武両班は殿前に列した。帝はまず宰相・両省官に視させたところ、戻って「真の甘露ではないかもしれず軽々には申せません、これを言えば四方が必ず祝賀することになります」と述べた。帝が「韓約が誤ったか」と問うと、左右軍中尉・枢密内臣を遣わして視させた。
- 中尉らが去った後、訓は王璠・郭行余を「来て勅旨を受けよ」と呼んだが、璠は恐れて進めず、行余のみ殿下で拝した。両鎮の兵はいずれも丹鳳門外で兵器を執っていたが、璠に従う兵のみ入り邠寧の兵は来なかった。中尉・枢密が左仗に至り幕下に兵の気配を聞き驚いて走り出た。門番が閉じようとしたが宦官に叱られ扉を下ろせなかった。宦官が戻って奏すると韓約は気を失い汗を流し顔を上げられなかった。宦官は「事は急である、陛下は内にお入りください」と奏し、輿を挙げて帝を迎えた。訓は殿上で「金吾衛士は殿に上がり乗輿を護れ、賞百千を与える」と叫んだが、宦官は殿後の罘罳を取り壊し輿を挙げて疾走し、訓は輿にすがって「陛下は内にお入りになってはなりません」と呼んだ。金吾衛士数十人が訓に従って入り、羅立言は府中の従人を率いて東から、李孝本は台中の従人を率いて西から、合わせて四百余人が殿に上がり宦官を撃ち、死傷者は数十人に及んだ。
- 訓はますます焦り宣政門へと逃れた。帝は目を怒らせ訓を叱り、宦官の郤志栄は拳で訓の胸を打ち、訓はその場に倒れた。帝が東上閣門に入ると門は閉ざされ、宦官は万歳を数度叫んだ。しばらくして宦官が禁兵五百人を率い刃を露わに閣門を出て、出会う者を殺した。宰相の王涯・賈餗・舒元輿はちょうど中書で会食していたが難を聞いて逃げ出し、諸司の従吏の死者は六七百人に及んだ。
- この日、訓は拳で打たれ倒れ、事が成らなかったことを悟り、単騎で終南山に逃げ込み寺僧の宗密のもとへ身を寄せた。訓は宗密と元来親しく、髪を剃って匿ってもらおうとしたが従者に止められ、鳳翔に逃れ鄭注を頼ろうとした。山を出たところで盩厔鎮将の宗楚に捕らえられ、械につけられ京師に送られた。昆明池に至った際、訓は軍に入れば別に拷問を受けることを恐れ、兵士に「至る所に兵がいる、私を捕らえた者は富貴を得られるが、それより私の首を持って行けば奪われずに済む」と言い、兵士は訓を斬りその首を持って行った。
- 訓の弟の仲景、再従弟の戸部員外郎の元皋も、いずれも処刑された。
- 仇士良は宗密が李訓を匿ったことを知り、人を遣って左軍に縛送し、告発しなかった罪を責めた。殺そうとした際、宗密は平然として「貧僧は訓を長く知っており、その謀反も知っていた。しかし本師の教えは苦しむ者に会えば救うことにあり、身命を惜しまず、死しても本望である」と述べた。中尉の魚弘志はこれを嘉して罪を赦すよう奏した。
出自と経歴
- 鄭注は絳州翼城の人。もとは医薬の術をもって長安の権豪の門に出入りした。本姓は魚だが鄭氏を冒したため、当時は魚鄭と呼ばれた。注が事を専らにすると、人々は彼を「水族」と呼んだ。
- 元和十三年、李愬が襄陽節度使となった際、注はこれに依った。愬はその薬効を得て厚遇し、節度衙推に署した。愬が徐州に移鎮するのに従い職務を得て、軍政の可否についても意見を求められた。注は詭弁で陰険狡猾ながら人の意を探るのに長け、愬と謀るたびにその意にかなった。しかし邪を挟み権謀をもっぱらにし威福を専らにしたため、軍府はこれを患いとした。当時、王守澄が徐軍を監し、注を深く怒っていた。ある日、軍情を理由に愬に注を訴える者があった。愬は「彼はそうであっても実に奇才である、試しに語ってみよ、意にかなわなければその時に去らせても遅くない」と述べ、監軍に謁見させた。守澄は初め難色を示したが、座に招いて語ると機弁縦横で意にかない、内室に招いて膝を交え意気投合し、遅く会ったことを恨んだ。翌日、守澄は愬に「まことに公の言う通り、実に奇士である」と述べ、以後注は守澄の門を自由に出入りするようになった。愬は注を巡官に署し賓席に列させた。
- 守澄が枢密を知るに及び、長慶・宝暦の頃、国政の多くは守澄が専らにした。注は昼は伏し夜に動き賄賂を行き来させた。当初は讒邪奸巧の徒がこれに付き従い進取を図ったが、数年後には達僚権臣が争ってその門に集まった。山東・京西の諸軍を歴任し衛佐・評事・御史を経て、さらに検校庫部郎中となり昭義節度副使となった。かつて陰謀で宋申錫を誣告したことがあり、道を守る正人はこれを疎んじた。
- 太和七年、邠寧行軍司馬を罷め京師に入った。御史の李款は閣内で「鄭注は内は勅使に通じ外は朝官と結び、両地を往来して財貨を求め、昼伏夜動して権を窃んでいる、人はあえて言わぬが道路の目は明らか、法司に付すべきである」と弾劾した。旬日のうちに諫章十数通が上ったが文宗は容れなかった。まもなく注は通王府司馬・充右神策判官を授けられ、朝野は驚き嘆いた。八年九月、注が薬方一巻を進めたことで守澄が浴堂門で対面させ錦彩を賜った。その召対の夕、彗星が東方に現れ長さ三尺、光がひときわ強かった。その年十二月、太僕卿・兼御史大夫を拝した。
- 注は善和裏に邸を構え、永巷に通じる長廊と復壁を設け、日々京師の軽薄な子弟や方鎮の将吏を集めて権利を招いた。日を置いて禁軍に入り守澄と親密に語り合い、時に一晩中眠らなかった。李訓は注に付いて進み機を見て謁見し、軽浮で躁進な者が注の門にあふれた。九年八月、工部尚書・充翰林侍講学士に遷り、九仙門から召され帝自ら告身を賜った。当時李訓も既に禁廷にあり、二人は意気投合し日々帝の側に侍り太平の術を講じ、朝夕に太平が到来すると説いた。二人の奸謀が合わさり、天子はますます惑わされた。
- 訓・注の権勢は天下に赫々たるものとなった。志を遂げると平生の恩讎を細大漏らさず報い、楊虞卿の獄を機に李宗閔・李徳裕を忌み、心に憎む者を二人の党と目した。朝士は次々に斥逐され、班列は空となり、人々は震え上がった。帝はそれとなく察して詔を下し慰諭し、人心はやや安まった。
榷茶と土木の献策
- 訓・注は天性狂妄で世に迎合するのみで、経略謀猷において称すべきものはなかった。当初浴堂で召対された際、帝が富国の術を問うと榷茶を献策した。その法は江湖の百姓の茶園を官が自ら経営し量に応じて代を分け与え、使者に主らせるというもので、帝はこれを信じ王涯に榷茶使を兼ねさせた。また秦中に災いがあるとして土木工事による厄払いを勧めた。文宗は詩を能くし、杜甫の『江頭篇』の「江頭の宮殿、千門を鎖す、細柳新蒲、誰が為に緑なる」を吟じたことがあり、天宝以前は曲江の四岸に楼台行宮廨署があったと知り、心密かに慕っていた。注の言を得て左右神策軍に人を分け曲江・昆明の二池を浚渫させ、公卿士大夫の家に江頭に亭館を建て時に応じて遊賞することを許した。両軍は紫雲楼・彩霞亭を建て、宮中から額を賜った。注の言に従わぬことはなくこの類が多かった。
- 九月、検校尚書左僕射・鳳翔尹・鳳翔節度使となった。これは李訓と謀事の期を合わせ、中外呼応の勢を作ろうとしたものであった。十一月、注は訓の事が発覚したことを聞き、鳳翔から親兵五百余人を率いて上洛したが、扶風に至って訓の敗を聞き引き返した。監軍使の張仲清は既に密詔を得ており、注を迎え労い監軍府に招いて議事させた。注は兵衛を頼んで赴いたが、仲清は既に幕下に伏兵を置いており、注が座るや伏兵が発して斬られ、首は京師に伝えられ、部下は潰散した。注の家族は皆殺しにされ一人も残らなかった。訓の敗が知られてから注が捕らえられるまで、京師の人々は憂え恐れていたが、この時に至り人々は皆祝った。
- 注は両眼が遠くを見えず、自ら金丹の術を持ち痿弱重膇の病を除くと称した。かつて李愬が効ありと言ったことから守澄にも取り入りその術を神秘化した。これにより宦官は皆注を憐れみ、結局それを利用して狂妄な謀略を売り込んだ。守澄が自らその禍を招き衣冠の士が塗炭に落ちる結果となったのは、一時の悪運であろうか。注の家財を没収したところ絹百万匹、その他の財貨も同様であった。