経歴
- 王正雅、字は光謙、その先祖は太原尹東都留守王翃の子。伯父の翊は代宗朝の御史大夫で誠実剛直をもって当代に名を知られ、没して忠恵と諡された。正雅は若い頃、孝行と慎み深さで知られた。元和初、進士に及第し甲科に登り、礼部侍郎崔邠に深く認められ幕府の職を度々務めた。元和十一年(816年)、監察御史を拝命し三度昇進して万年県令に至った。
- 穆宗の頃、京邑は治めるのが難しいとされていたが、正雅は強きを抑え弱きを助け政の評判が高かった。折しも柳公綽が京兆尹となり帝の前で称賛すると、穆宗は緋衣と銀章を県に持って行き宣賜させた。戸部郎中に遷り、まもなく知台雑事を加えられ、太常少卿に再遷し、汝州刺史・本州防禦使に出た。宦官が監軍となり権勢を頼み政を乱していたため、正雅はこれに耐えかね病を理由に辞職した。
- 朝廷に入り大理卿となった。宋申錫の事件が起こり獄は宮中から起こされ結局証拠はなかった。当時王守澄の威権と鄭注の寵勢は、宰相重臣であっても表立って異を唱える者がいなかった。ただ正雅は京兆尹崔綰とともに上疏し、事を捏造した者を外部に出して取り調べさせ別に上聞するよう求めた。これにより獄の情状はやや緩み、申錫はただ官を貶されるにとどまり、内外は皆これを推重した。太和五年十一月(831年)に没し左散騎常侍を追贈された。
正雅の従弟・重
- 正雅の従弟の重は翊の子で、官が河東令にとどまった。重の子の衆仲は進士に及第し官が衡州刺史に累進した。衆仲の子は凝。
衆仲の子・王凝
- 凝、字は致平。若くして父を失い、宰相鄭肅の甥として舅の元で育った。十五歳で両経に及第した。かつて『京城六崗銘』を著し文士に称えられた。再び進士甲科に及第。崔璪が塩鉄を領すると巡官に招かれた。梓潼・宣歙使の幕府に度々仕えた。宰相崔亀従の推薦で鄠県尉・集賢校理を拝命し、監察御史に遷り殿中侍御史に転じた。宰相崔鉉が揚州に出鎮すると節度副使に奏請された。朝廷に入り起居郎となり礼部・兵部・考功の三員外を歴任した。司封郎中・長安令に遷った。中丞鄭処誨の推薦で台雑を知り考功郎中に転じ中書舎人に遷った。当時政が意に添わなかったため同州刺史に出され金紫を賜った。晩年、病を理由に華州敷水の別荘に退いた。一年余り後、礼部侍郎に召された。
- 凝は性格が堅実で正しく、貢挙で人材を選ぶ際には貧しい俊才を抜擢し、権勢家の請託を通さなかったため恨みを買い商州刺史に出された。翌年、検校右散騎常侍・潭州刺史・湖南団練観察使となった。朝廷に入り兵部侍郎となり塩鉄転運使を領した。また権勢家に阿らなかったため秘書監に改まった。河南尹・検校礼部尚書・宣州刺史・宣歙観察使に出た。凝は咸通中に二度宣城の使幕を補佐し、民の利害を詳しく調べ積年の弊害を除いたため、民の暮らしは豊かになった。
- 一年余り後、黄巣が嶺表から北に戻り淮南を大いに略奪し和州を攻囲した。凝は牙将樊儔に軍を率いさせ采石に拠って援助させたが、儔が命に背いたため凝はその場で斬って見せしめとし、別将烏頴に儔に代えて援助に赴かせ、結局歴陽の包囲は解けた。賊は怒って軍を率い宣城を攻めた。大将王涓が出撃して迎え撃つことを願い出ると、凝は「賊は憤って来ている、慎重に迎え撃つべきだ。彼らは多く我らは少ない、万一勝てなければ州城が危うくなる」と述べた。涓はなお進んで戦うことを強く求め、凝は壮丁を集めて要害を分けて守らせ城壁に登って備えを固めさせた。涓は果たして戦死した。賊は勝ちに乗じて来たが守りは既に整っていた。賊は梯や衝車を用意し数か月にわたり激しく攻め、防備の力が尽きると役人・民は「賊の凶暴な勢いに抗しきれません、尚書には降伏を願い出て賊を退かせていただき、尚書の一族に禍が及ぶことがないようにしてください」と願い出た。凝は「人は皆一族を持つが、私だけがそれを全うできようか。この城と存亡を共にすると誓う」と答えた。まもなく賊は退いた。乾符五年(878年)のことである。この年夏、病が重くなり大きな星が正寝に落ちるという出来事があった。八月、郡で没した。享年五十八。子がなかったため弟の子の鑣を後継とした。鑣の兄の鉅は官が兵部侍郎で終わった。