舊唐書卷一百六十四 列傳第一百十四 王播
王播、字は明敭(?―830年)。進士出身の能吏で、塩鉄転運使として財政に通じ宰相にまで昇った。塩・鉄の利権を巧みに扱い権勢に取り入ることで栄達したが、士人としての節操を欠くとして批判された。
年表(30件)
- 元和五年810年御史中丞となる。十月、京兆尹となる
- 元和六年三月811年刑部侍郎に転じ諸道塩鉄転運使を兼ねる
- 元和十年四月815年礼部尚書に改まる
- 元和十三年818年検校戸部尚書・成都尹・剣南西川節度使となる
- 長慶元年七月821年刑部尚書・塩鉄転運等使を拝命し、十月に中書侍郎・平章事となり宰相となる
- 太和元年五月827年淮南から入朝し財物を献上、六月に尚書左僕射・同平章事を拝命する
- 太和四年正月830年喉の腫れにより急死する。享年七十二
- 貞元十四年798年進士に及第する
- 元和十四年819年比部郎中知制誥となる
- 長慶元年821年礼部侍郎に遷り、翌年まで二年間貢挙を掌る
- 太和二年828年陝虢観察使・御史大夫に出る
- 太和四年830年朝廷に入り尚書左丞を拝命する
- 太和六年832年検校吏部尚書・河中尹・河中晋絳節度使となる
- 太和七年833年兵部尚書として朝廷に入る
- 太和八年834年検校右僕射・襄州刺史・山南東道節度使を拝命する
- 太和九年835年兵部侍郎・判戸部事を拝命する
- 会昌元年841年吏部尚書に召される
- 会昌三年843年権知礼部貢挙となる
- 大中元年847年山南西道の鎮で没する。享年八十八
- 会昌初進士に及第する
- 大中初監察御史として朝廷に入る
- 広明初潭州陥落など敗戦の責を問われ宰相を罷免される
- 咸通五年864年礼部侍郎に転じ二年間貢士を掌る
- 咸通七年866年戸部侍郎・判度支となり礼部尚書に遷る
- 咸通十二年871年同平章事となり宰相となる
- 乾符二年875年門下侍郎・同平章事に再任される
- 乾符四年877年自ら諸軍を率いて群盗掃討に赴くことを願い出る
- 乾符五年878年守司徒・門下侍郎・同平章事、諸道行営兵馬都統となる
- 三年二月883年沙陀の軍とともに華州を回収し、四月に京城を回復する。晋国公に封じられる
- 光啓四年十二月888年滄景節度使への赴任途上、魏博の反乱兵に襲われ殺害される
経歴
- 王播、字は明敭。曾祖の璡は嘉州司馬。祖父の升は咸陽令。父の恕は揚府参軍。播は進士に及第し賢良方正制科にも登り集賢校理を授けられ監察御史に再遷し殿中侍御史に転じ侍御史を歴任した。貞元末、寵臣李実が京兆尹となり恩寵を頼み横暴であった。かつて播と道で出会った際、慣例では尹は台官を避けるべきところ実は避けなかった。播は文書でこれを非難し、実は怒って播を三原令に貶し挫こうとした。播は命を受けると府に赴き謝意を述べ府県の礼をすべて尽くした。担当地に着任すると政は明るく治まり、勢力を頼む豪門にも決して法を曲げなかった。年末の考課では畿内の県で最優秀とされた。実は播に政治手腕があると認めかえって大いに礼遇ししばしば帝に推薦した。徳宗はその才を認め破格の登用をしようとしたが、折しも母の喪に服すこととなった。
- 順宗即位後、駕部郎中を授けられ長安令に改まった。この年のうちに工部郎中に遷り台雑を知り綱紀を糺し人々に称えられた。考功郎中に転じ虢州刺史に出た。李巽が塩鉄を掌ると副使・兵部郎中に奏請された。
- 元和五年(810年)、李夷簡に代わり御史中丞となった。朝廷の規律を振るい諸職務を整えた。十月、許孟容に代わり京兆尹となった。当時禁軍の諸鎮が畿内に配置されており、軍人の出入りに際し弓矢や剣を帯びて盗みが頻発し奸を捕らえるのが難しかった。播は畿内の軍鎮の将卒が出入りする際に武器を持たないこと、諸王・駙馬・権豪の家が畿内で鷹犬の狩猟道具を試すことを禁じるよう奏請した。詔でこれに従うと、以後奸盗は収まった。六年三月(811年)、刑部侍郎に転じ諸道塩鉄転運使を兼ねた。
- 播は吏務に優れ、文書事務が山積していてもよどみなく処理し、狡猾な役人の欺瞞も必ず暴いた。当時天下は多事で法寺の議罪は条文が複雑を極めていた。播は前後の格条をすべて備え座右に置き、審決のたびに神業のような速さで処理した。当時の属僚は皆感服しきれないほどであった。
- 十年四月(815年)、礼部尚書に改まり使は従前通り兼ねた。以前、李巽は程異を江淮院官とし、異は財政に通じ、播が使を領すると異を副使に奏請した。朝廷軍が呉元済を討伐する際、異を江淮に駅伝で赴かせ賦税と輸送を大いに集め、賊平定に至るまで大いに功があった。皇甫鎛が権を握ると播が大用されることを恐れ、使の職務を程異に領させるよう請い、播は本官を守るのみとなった。十三年(818年)、検校戸部尚書・成都尹・剣南西川節度使となった。
- 穆宗即位後、皇甫鎛が貶されると播はしばしば上表して京師への帰還を求めた。長慶元年七月(821年)、召還され刑部尚書を拝命し塩鉄転運等使を再び領した。十月、中書侍郎・平章事を兼ね使も従前通り領した。長慶中、内外の権臣に多く便宜を図った。播は銅鉄・塩の利益をもって輔弼の地位に登り、専ら帝の意を迎えることに努め、安危や諫言について一言も発しなかった。当時河北が再び反乱し朝廷は用兵していた。折しも裴度が太原から入朝すると、朝野の世論は度を地方に置くべきでないとした。翌年三月、度を留めて再び政務を執らせ、播は度に代わって淮南節度使・検校右僕射となり使も従前通り領した。さらに塩鉄の印を携えて鎮に赴くことを願い出て、上都院の印は別に給するよう求め許された。播が淮南に着任すると折しも旱魃で凶作となり人が人を食らうほどであったが、税収の不足を補うため強引な徴収を行い、家々が皆嘆き怨んだ。
- 敬宗即位後、銀青光禄大夫・検校司空を加えられ塩鉄転運使を罷免された。当時中尉王守澄が権を握っており、播は利権を失ったことから広く珍品を求め腹心の役人に守澄と密かに結ばせその助力を得ようとした。守澄は隙を見て上奏し播に才があると述べ、帝は延英殿でこれを話題にした。諫議大夫独孤朗・張仲方、起居郎孔敏行・柳公権・宋申錫、補闕韋仁実・劉敦儒、拾遺李景譲・薛廷老らは延英殿を開いて播の奸邪と寵臣への結託、再度の大用を求める動きを面奏するよう求めた。しかし天子はまだ幼く、この諫言を用いることができなかった。以後、世論は紛糾して止まなかった。翌年正月、播は再び塩鉄転運使を領した。播は旧職を得ると銅鉄・塩の税収の中で巧みに徴収を行い月々進献した。名目は羨余(余剰)としたが実際は正額であり、専ら重用を求め人々の非難を意に介さなかった。
- 当時揚州城内の官河は水が浅く、旱魃になるとすぐに漕運の船が滞った。播は城南閶門西の七里港から東に向けて開削し曲がりながら禅智寺橋を取り旧官河に通じさせることを奏請した。開削は次第に深くなり船の航行が容易になった。開削した長さは十九里に及び、その工事費用は国庫の銭を破ることなく方円自弁の形で賄い漕運の妨げにならなかった。後任もこれに頼った。
- 文宗即位後、検校司徒を加えられた。太和元年五月(827年)、淮南から入朝し大小の銀碗三千四百枚・綾絹二十万匹を献上した。六月、尚書左僕射・同平章事を拝命し使も従前通り領した。二年(828年)、太原公・太清宮使に進封された。四年正月(830年)、喉の腫れを患い急死した。享年七十二。朝を三日廃し太尉を追贈された。
- 播は寒門の出身から文才で身を立てて顕職に登り評判があった。しかし時勢に流され士人としての節操を保たず、奸邪な手段で出世を図ったことは君子の恥じるところであった。しかし生まれつき吏務に勤勉で、事務が山積し役人が庭に満ちて決裁を求め帳簿が机に積み上がっても、他人なら耐えられないところを播はこれを楽しむほどであった。播の子は式、弟は炎・起。
- 炎は貞元十五年(799年)進士に及第し太常博士に至り早世した。子は鐸・鐐。
播の弟・王起
- 起、字は挙之、貞元十四年(798年)進士に及第し集賢校理に初任し制策直言極諫科にも登り藍田尉を授けられた。宰相李吉甫が淮南を鎮すると監察のまま掌書記を兼ねた。朝廷に入り殿中侍御史となり起居郎・司勲員外郎・直史館に遷った。元和十四年(819年)、比部郎中知制誥となった。穆宗即位後、中書舎人を拝命した。
- 長慶元年(821年)、礼部侍郎に遷った。この年、銭徽が貢士を掌る際に朝臣の請託を受け合格させたため世論はこれを不当とした。詔で起と同僚の白居易に再試験を行わせると落第する者が多かった。徽は貶され、起がこれに代わり礼部侍郎となった。二年間貢挙を掌り特に優れた人材を選んだ。以前、貢挙は乱れが多く権勢のある家の子弟が互いに便宜を図り合い、貧しい家の俊才は十のうち六、七が排除されていた。元稹・李紳が翰林にいた時これを深く怒り再試験の制度が生まれた経緯があった。起が貢士を試験する際、当該部署で選んだ進士について採点した雑文を先に中書に送り宰臣に可否を審査させてから合格発表するよう奏請し、これに従った。世論は起が是非を避けたとしても貢挙の職責を失ったとし、河南尹に出された。朝廷に入り吏部侍郎となった。
- 文宗即位後、集賢学士・判院事を加えられた。兄の播が僕射として政を輔佐していたため選部(吏部)を掌ることを望まず兵部侍郎に改まった。太和二年(828年)、陝虢観察使・御史大夫に出た。四年(830年)、朝廷に入り尚書左丞を拝命した。播の喪に服す際、悲しみで身をやつすこと礼を超えるほどで友悌がとりわけ篤かった。戸部尚書・判度支に遷った。西北辺境の防備のため毎年軍のための和市(互市)があり、人夫の輸送の労が大きかったため、霊武に和市を移し邠寧で営田を起こすよう奏請した。六年(832年)、検校吏部尚書・河中尹・河中晋絳節度使となった。当時蝗害と旱魃が続き穀物価格が暴騰し、豪門は穀物の売却を控えて高値を狙っていた。起は蓄えを持つ家に厳しく戒め市場に穀物を出させ、隠す者は法により処罰し、これにより民は救われた。七年(833年)、兵部尚書として朝廷に入った。八年(834年)、検校右僕射・襄州刺史・山南東道節度使を拝命した。長江・漢水の水田は前任者が法を曲げ堤や堰が壊れていた。起は着任すると従事李業に属郡を巡らせ検査させ修繕させ、特別に水利の法を定め、民は凶年を免れた。九年(835年)、銀青光禄大夫を加えられた。当時李訓が権を握っており、訓は元来起が貢挙で選んだ門生であったため起を宰相に推挙しようとした。八月、詔で兵部侍郎・判戸部事を拝命した。その冬、訓が失脚したが起は儒学に篤い年長者として累が及ばず、ただ判戸部事を罷免されるのみであった。
- 文宗は文を好み特に古学を尊んだ。鄭覃は経義に長け、起は博識に長け、ともに翰林に招かれ経史を講論した。起は学問に耽り官位が高くなっても学びに励むことをやめず、日夜怠らず寝食を忘れるほどで、書物はすべて読破し一度目にしたものは忘れなかった。兵部尚書に転じた。荘恪太子が皇太子に立てられると儒者に経義を授けさせようとし、起は太子侍読を兼ね太常卿を判じ礼儀詳定使を兼ね、祭祀に用いる九種の玉器の制作を創始し、奏議して述べた。
- (祭器についての奏議の要旨)国家の礼は祭祀を大事とし、珪璧の制度は経典に前例がある。『周礼』によれば天地四方を蒼璧で天を、黄琮で地を、青珪で東方を、赤璋で南方を、白琥で西方を、黒璜で北方をそれぞれ祭るとある。また四圭に台座を付けて天を祀り、両圭に台座を付けて地を祀り、圭璧で日月星辰を祀るとある。これら九種の器はすべて神を祀る玉である。また「禋祀をもって昊天上帝を祀る」とあり、鄭玄は「禋とは煙のことで、玉幣を作り祭りが終われば燃やして煙を昇らせ陽に報いる」と注釈している。今の『開元礼』の趣旨も同じであり、これは玉を焚く儀礼の証拠である。また『周礼』には「国の玉鎮大宝器を掌り、大祭があれば事が終われば蔵する」とあり、これは玉を収蔵する証拠である。梁の崔霊恩が撰した『三礼義宗』には「およそ天神を祭るには二つの玉があり、一つは神を礼するための玉、一つは焚くための玉である。神を礼する玉は事が終われば収蔵し、神を祀る玉は犠牲とともに焚く」とあり、霊恩の説は『礼経』にかなっている。今、国家の郊天祀地では神を祀る玉は常に用いられているが、経典・古法によれば神を礼する玉はまだ備わっていない。臣らは有司に良質の玉を精選させ蒼璧・黄琮等の九器を新たに作らせ、祭祀後は収蔵することを求める。焚く玉については従前の制度に従いたい。
- これに従った。皇太子のために『五運図』及び『文場秀句』等を著して献上した。三年(829年)、本官のまま翰林侍講学士を兼ねた。荘恪太子が薨じると詔で起に哀冊文を撰させ、その文辞は婉麗であった。
- 四年(830年)、太子少師に遷り兵部事を判じ侍講も従前通り兼ねた。家が貧しいことから特に詔で毎月仙韶院の月料銭三百千を割いて給することとなった。起は文学に富んだが家政には無頓着で俸給が入ればすぐに使用人や妾のものになった。帝は師友の恩から特に周給を加えた。世論はこれが伶人(楽人)と分け合うことになったのを恥じるべきこととした。
- 武宗即位後、八月、山陵鹵簿使を兼ねた。枢密使劉弘逸・薛季稜は誅殺を恐れ、山陵の兵士に乗じて廃立を謀った。起は山陵使とともにその謀を知り密奏し、いずれも誅殺された。まもなく検校左僕射・東都留守・判東都尚書省事となった。
- 会昌元年(841年)、吏部尚書に召され太常卿事を判じた。三年(843年)、権知礼部貢挙となった。翌年、正式に左僕射を拝命し再び貢挙を知った。
- 起は前後四度貢挙を典掌し、選んだ者は皆当代の文才ある士人で名を知られ、人々は皆その精緻な鑑識眼と公正さを称えた。この年秋、興元尹・同平章事を兼ね山南西道節度使に出た。鎮に赴く日、延英殿で辞去の礼を述べると、帝は「卿は国家の老臣、宰相に内外の別はない、朕に政の欠けたところがあれば急ぎ表で知らせよ」と述べた。宴と賜与は大いに手厚かった。鎮に在ること二年、老齢を理由に交代を求めたが許されなかった。大中元年(847年)、鎮で没した。享年八十八。朝を三日廃し太尉を追贈され諡は文懿。文集百二十巻、『五緯図』十巻、『写宣』十巻がある。起が侍講であった頃、難字や疑わしい事があると中使が口頭で伝え、それに札で答えたため『写宣』と名付けられた。子の亀が跡を継いだ。
起の子・王亀
- 亀、字は大年。性格は簡素で瀟洒、仕官を好まなかった。若くして詩酒琴書を楽しみ科挙を受けなかった。京城光福里の邸は起の兄弟が同居し壮大であった。亀は世俗を離れることを望み友人との交際を面倒がり、永達里の園林の奥まった場所に書斎を築き吟詠にふけり「半隠亭」と名付けた。叔父の起が河中にあった頃、中条山の山中に草堂を建て山人・道士と交わり、朔望(一日と十五日)に一度だけ府邸に戻ったため、後人はこれを「郎君谷」と呼んだ。起が東周(洛陽)を治めた際、亀は龍門の西谷に松斎を構え往来して過ごし世事から離れて心を解き放った。起が興元を鎮した際も漢陽の龍山に隠居所を立て舟で往来し、これほどに閑逸であった。武宗はこれを知り左拾遺として召した。しばらくして殿廷に赴いて謝意を述べ「臣は才が疎放で世に用いられず、加えて病を患い官俸に堪えられません。臣の父は九十に近い年でありながら遠方の藩鎮を治めており、喜びと恐れの入り混じるこの年頃に側で仕えることができておりません。今の職を辞して朝夕父に仕えることを願います」と陳情した。帝は優れた詔でこれを許した。翌年、父の喪に服した。喪が明けると右補闕に召され侍御史・尚書郎に遷った。
- 大中末、宣歙団練観察副使に出て緋を賜った。朝廷に入り祠部郎中・史館修撰となった。以前崔玙が宣歙の副使であった際に従い、玙が河中を鎮すると再び副使に奏請された。朝廷に入り兵部郎中となり金紫を賜り、まもなく知制誥となった。
- 咸通末、弟の鐸が中書にあったため禁中の職を避け太常少卿に改まり、まもなく検校右散騎常侍・同州刺史となった。牙将白約という者がとりわけ狡猾で悪辣で、前後の防禦使も制御できなかった。亀は事を発覚させ杖刑で殺し見せしめとし、人々は皆その威に畏敬し従った。十四年(873年)、越州刺史・御史大夫・浙東団練観察使に転じた。以前、亀の兄の式がこの郡を治めた際に恵政を敷いており、亀が再び来ることを聞いて人々は喜び舞い迎えた。折しも徐州・泗州の乱が起こり江淮に盗賊が興り山越が乱れ郡を攻め、亀は賊に殺害された。工部尚書を追贈された。子は蕘。
亀の子・王蕘
- 蕘は苦学し文章に優れた。叔父が宰相になった際、嫌疑を避けて科挙を受けなかった。乾符初、崔瑾が湖南を廉察した際、崔涓が江陵を鎮した際、いずれも従事に招かれた。蕭遘が宰相になると藍田尉・直史館を奏授され、左拾遺・右補闕に遷り、中丞盧渙が侍御史に奏請した。僖宗の山南行幸に随行し右司員外郎を拝命して没した。子の権は唐末の中興期に兵部尚書に至った。
播の子・王式
- 式は蔭位により監察御史に累進し殿中侍御史に転じ、これも巧みな仕官であった。太和中、鄭注に依存し王守澄を訪ねたため中丞帰融に弾劾され江陵少尹に出された。大中後、省署を歴任した。咸通初、浙東観察使となった。賊の仇甫が明州に拠って反乱し会稽に来攻すると、式はこれを討伐し平定した。式は威勢と謀略があった。三年(862年)、徐州の銀刀軍が反乱すると式が徐州節度使とされた。式は着任すると銀刀等七軍をすべて誅し徐方は平定された。天子はこれを嘉した。後に方鎮を度々歴任して没した。
播の子・王鐸
- 鐸、字は昭範。会昌初、進士に及第し二度幕府に招かれた。大中初、監察御史として朝廷に入った。咸通初、駕部郎中知制誥から中書舎人を拝命した。五年(864年)、礼部侍郎に転じ二年間貢士を掌り、当時人を得たと評された。七年(866年)、戸部侍郎・判度支となり礼部尚書に遷った。十二年(871年)、本官のまま同平章事となった。当時宰相韋保衡は自分を抜擢した恩から鐸に特に謹んで仕え、鐸は刑部・吏部尚書を兼任した。僖宗即位後、右僕射を加えられた。保衡が罪を得ると鐸は検校右僕射として汴州刺史・宣武軍節度使に出された。
- 鐸は経世の大志を持ち安邦を己の使命とし士友に推された。乾符二年(875年)、河南・江左で相次いで盗賊が集結した。宦官田令孜は日頃から鐸の名を聞いており再び鐸を召し右僕射・門下侍郎・同平章事を拝命させた。四年(877年)、賊が江陵を陥落させ楊知温が守りを失い、宋威が賊を破る策を誤った。朝議で統率者を選ぶ際、宰相盧携は高駢がしばしば戦功を挙げたことから軍権を委ねるべきと述べたが世論は納得しなかった。鐸は「臣は宰相の首座を汚しているが朝廷にあっても陛下の憂いを十分に分かち合えていない。臣自ら諸軍を率いて群盗を掃討することを願う」と朝廷で奏上し、朝議はこれを是とした。五年(878年)、鐸は守司徒・門下侍郎・同平章事となり江陵尹・荊南節度使を兼ね諸道行営兵馬都統を拝命した。鐸は鎮に着任すると流散した民を安んじ軍備を整え、一年のうちに武備は厳整となった。
- 当時兗州節度使李系という者があり、西平王李晟の孫で家系に将才があるとして都統都押衙・湘南団練使に用いられていた。当時黄巣が嶺南にあり、鐸は精鋭をすべて系に委ね兵を分けて嶺路を扼させた。系は将としての謀略がなくわずかな弁舌があるだけで軍政は治まらなかった。広明初、賊は嶺南から湖南の諸郡を侵し、系は城を守るだけで戦おうとしなかった。賊は木を編んで筏を作り湘水を下り潭州を急襲し陥落させた。系の甲兵五万は皆賊に殺され江に投げ込まれた。鐸は系の敗報を聞くと部将董漢宏に江陵を守らせ、自らは兵一万余りを率いて襄陽の軍と合流した。しかし江陵は結局賊に陥落した。天子はこれを咎めず、鐸は宰相を罷免され太子太師を守った。宰相盧携が権を握ると結局淮南の高駢が鐸に代わって都統となった。
- この年秋、賊が淮南を焼き略奪し高駢は敗れた。賊が両京を陥落させると盧携は罪を得、天子は鄭畋を兵馬都統に用いた。翌年、畋が病で行在に帰ると、朝議は再び鐸を侍中・滑州刺史・義成軍節度使とし諸道行営都統を兼ねさせた。禁軍・山南・東蜀の軍三万を率い盩厔の東に陣を敷き霊感寺に進んだ。
- 翌年春、兗・鄆・徐・許・鄭・滑・邠・寧・鳳翔十鎮の軍が関内に大集結した。当時賊は既に僭号しており、以前の浙東観察使崔璆・尚讓を宰相として偽の命を伝えていた。天下の藩帥の多くは両属の態度をとっていた。鐸が檄を四方に伝えると諸侯は一斉にこれになびいた。賊の号令が及ぶ範囲は東西では岐州・華州、南北では山・河の内に限られた。精鋭の兵と驍勇な将が日々国門に馳せ突撃し、群賊はこれにより離心した。この年秋、賊将朱温が降伏し同州を回収した。十一月、賊の華州の戍卒七千が投降してきた。三年二月(883年)、沙陀の軍が到着し華州を回収した。四月、良田坡で賊を破り京城を回収した。鐸は晋国公に封じられた。鐸は中書令を加えられ、城を回復した諸将の功の高下を量りその爵賞を承制して上聞した。この時国運は綴じ紐が切れそうな旗のように危うく、天子は蛮地に流離し大事は既に去るかと思われた。もし鄭畋の奮起と鐸の忠義がなければ、国運の隆替はどうなっていたか分からない。
- 黄巣・秦宗権の乱以来、関東の方鎮の牙将は皆主帥を追放し自ら藩臣を称した。時溥は徐州に拠り、朱瑄は鄆州に拠り、朱瑾は兗州に拠り、王敬武は青州に拠り、周岌は許州に拠り、王重栄は河中に拠り、諸葛爽は河陽に拠り、いずれも自ら藩鎮を専有し朝貢もせず賞罰も自ら決めていた。賊を関外に追い出すとますますその功を頼み、朝廷は姑息な対応に追われた。黄巣が関東に出ると蔡州の帥秦宗権と合従した。時溥は徐州で挙兵し自ら討伐を願い出て都統の命を授けられた。十軍軍容使田令孜は宦官楊復光が用兵の監護に功があったことから儒臣が功を立てることをとりわけ忌み嫌い、そのため時溥への任命が行われたのであった。
- 以前、鐸が軍を出した際、鄭滑節度使を兼ね供給の便に充てていた。この頃鐸の都統の権が罷免され節を持って鎮に戻るよう命じられた。鐸は朱全忠が自分に恩義があるとしてこれを頼りにした。以前、全忠は言葉遣いも礼儀も恭順であったが、まもなく全忠の軍が集まってくるとその態度は次第に横柄になった。鐸は頼れないと悟り上表して朝廷への帰還を求めた。
- この年冬、僖宗が蜀から戻ろうとしていた頃、鐸は滄景節度使とされた。当時楊全玫が滄州におり鐸の到来を聞くと魏州の楽彦貞に訴えた。鐸は命を受けて鎮に赴く途中、魏州に十日ほど至ると彦貞が出迎えて手厚くもてなした。鐸は上台の元老として功が諸侯に勝ることから、行くときは輿に乗り妓女を左右に侍らせ、賓客・従僕の装いはこの上なく華美であった。彦貞の子の従訓は凶悪で品行がなく密かにこれを羨望し、甘陵州の兵数百人を漳南の高鶏泊に伏せさせた。鐸の行装がそこに至るとすべて略奪され、鐸と賓客十余人は皆殺害された。光啓四年十二月(888年)のことであった。
- 鐸の弟の鐐は官が汝州刺史に至った。王仙芝が郡城を陥落させた際、殺害された。