経歴
- 王質、字は華卿、太原祁の人。五代祖の通、字は仲淹、隋末の大儒で文中子と号した。通は福祚を生み、福祚は上蔡主簿で終わった。福祚は勉を生み、勉は進士に及第しさらに制策にも及第し宝鼎令で終わった。勉は怡を生み、怡は渝州司戸で終わった。怡は潜を生み、潜は揚州天長丞。質は潜の第五子。若くして志操を持ち、家柄は代々官位が低かったため世に名を立て一族を大きくしたいと願った。寿春に寓居し自ら耕して母を養い、専ら講学に励み門人が大いに集まった。四十歳を過ぎても仕官を求めず、親友が「華卿の才があれば名声地位を得ることは地面から芥子を拾うほど簡単なのに、なぜ苦しい農作業に甘んじているのか。名を揚げ親を顕彰することは耕作では成し遂げられない」と諭した。質はそこで母に相談し郷挙に応じることを願い出た。元和六年(811年)、進士甲科に及第した。嶺南管記に初任し、淮蔡・許昌・梓潼・興元の四府に度々仕え監察御史を兼ねた。朝廷に入り殿中侍御史となり侍御史・戸部員外郎に遷った。旧府の推薦により検校司封郎中を授けられ金紫を賜り興元節度副使を兼ねた。朝廷に入り戸部郎中となり諫議大夫に遷った。
- 太和中、王守澄が宰相宋申錫を陥れる事件があった。文宗は怒り極刑を加えようとした。質は常侍崔玄亮とともに涙を流して切実に諫め、外部の司に取り調べを委ねるよう請い、申錫はようやく軽い処罰となった。質は宦官に睨まれ執政に虢州刺史へ出された。質が策問に応じた際、深く李吉甫に評価され、徳裕が宰相になると大いに礼遇し必ず相談を経て決裁するほどであった。まもなく給事中・河南尹に召された。八年(834年)、宣州刺史・御史中丞・宣歙団練観察使となった。三年間政にあたった。開成元年十二月(836年)、病もなく急死した。享年六十八。左散騎常侍を追贈され諡は定。
- 質は清廉で端正優雅、政においては評判が良かった。権臣に厚遇されても常に自らの行いを持し朋党の議論に関与しなかった。宣城にあった折、崔珦・劉濩・裴夷直・趙丱を従事に招き、いずれも一代の名流であった。誰と交わったかを見れば、人々はこれを重んじた。子は慶存という。