経歴
- 陸亙、字は景山、呉郡の人。祖父の元明は睦州司馬。父の持詮は恵陵台令。亙は書判で集賢殿正字・華原県尉を授けられた。制挙に応じ万年県丞を授けられた。京兆府兵曹参軍から太常博士を拝命した。太常寺には孟真という礼生がおり長年この職にあり、吉凶の大礼で礼官が判断できない時は皆真に相談していた。真もこれによって権勢をふるっていた。元和七年(812年)、皇太子を冊立する際の儀礼を撰する折、真も参与しようとしたが、亙は真を鞭打ち、以後礼儀が下級役人の専断にならなくなった。虞部員外郎から鄧州刺史に出た。その後戸部郎中・秘書少監・太常少卿として朝廷に入り、兗・蔡・虢・蘇の四郡の刺史を歴任した。越州刺史・浙東団練観察等使に遷り、宣歙観察使に移り御史大夫を加えられた。太和八年九月(834年)に七十一歳で没した。礼部尚書を追贈された。
- 亙は強直で厳格な性格で、赴任地では常に治まった。初め兗州に赴いた際、延英殿で「およそ節度使が兵を握り管轄の郡に分屯させる場合、刺史がこれを制御できず一州の弊害となっています、対処すべきです」と面奏した。これにより天下の兵で管轄の郡に分屯するものは刺史に隷属させる詔が出された。越州の永嘉郡は海に面した城で常に賊の侵攻に遭い、官吏の俸禄の半分を集めて通常の賦税の代わりに充てる慣習が続き、役人がこれをかえって私腹を肥やす機会としていた。亙はその贓罪を摘発し郡守以下の俸給を増やすよう上表し、人々はこれに頼った。