舊唐書卷一百六十二 列傳第一百十二 高霞寓

経歴

  • 高霞寓、范陽の人。祖父の仙、父の棲鶴はいずれも孝行で知られた。五代にわたり同居していた。徳宗朝、采訪使洪経綸がその一族の門を旌表することを上奏し、郷里はその事跡を称えた。霞寓は若くして『左氏春秋』と孫子・呉子の兵法を読み、大言壮語を好み節操と気概を自負した。
  • 貞元中、徒歩で長武城使高崇文のもとを訪れ、甥のような扱いを受け軍職に抜擢され、たびたび憲宗に推挙され深く信任された。元和初、詔で御史大夫を兼ね崇文に従い劉辟を撃ち連戦連勝し鹿頭城を陥落させ李文悦・仇良輔を降伏させた。蜀平定後、功により彭州刺史を拝命、まもなく崇文の後任として長武城使となり感義郡王に封じられた。元和五年(810年)、左威衛将軍として吐突承璀に従い王承宗を討ち、左散騎常侍を加えられた。翌年、豊州刺史・三城都団練防禦使に改まった。六度昇進し検校工部尚書に至った。
  • 元和十年(815年)、朝廷が呉元済を討伐する際、霞寓が歴戦の将であることから山南東道を二鎮に分割し霞寓を唐鄧隋節度使とした。
  • 霞寓は勇敢と称されたが元来機略に疎く、統率にはとりわけ不向きであった。任地に着くと兵を率いて蕭陂に赴き賊と決戦した。小勝を得るとさらに文城柵まで進んだ。賊軍は偽って敗走し、霞寓が追撃をやめなかったところ伏兵に襲われ、朝廷軍は大敗し霞寓はかろうじて身一つで逃れた。これに連座して帰州刺史に貶された。後に恩例により右衛大将軍に召された。
  • 十三年(818年)、振武節度使に出て左武衛大将軍として朝廷に入った。長慶元年(821年)、邠寧節度使を授けられた。三年(823年)、検校右僕射を加えられた。四年(824年)、検校司空を加えられ、さらに司徒を加えられた。
  • 宝暦二年(826年)、頭に癰疽ができ政務を執れず京師への帰還を願い出た。その夏、右金吾衛大将軍・検校司徒を授けられたが、道中奉天で没した。享年五十五。太保を追贈された。
  • 霞寓は元来軍卒出身の凡庸な人材で、初め宦官の後押しで登用され節度使の位まで昇った。地位と名望が高くなると言葉に不遜が多かった。朝廷がこれを知り異動を検討していると、霞寓は大いに恐れ私邸を仏寺に寄進し「懐恩」の額を求めて聖福を祈ろうとした。おおむねこのように奸悪で狡猾であった。また朝廷の官人を非難し僚属を侮り、下品な言葉が常に世に聞こえた。