舊唐書卷一百六十二 列傳第一百十二 潘孟陽

経歴

  • 潘孟陽、礼部侍郎潘炎の子。父の蔭位で進み博学宏詞科に及第した。殿中侍御史に累進したが司議郎に降格された。孟陽の母は劉晏の娘。公卿の多くが父の友人や外祖父の縁故であったため推薦を受け兵部郎中に累進した。
  • 徳宗末、王紹が寵愛を受け度々孟陽の才を称えたため権知戸部侍郎に抜擢された。まだ四十歳前であった。順宗即位後、永貞の内禅で王叔文が誅され、杜佑が初めて度支を専判すると孟陽を叔文に代わる副使に推挙した。憲宗即位当初、孟陽に江淮を巡って財賦を視察させ塩鉄転運副使を兼ねさせ、東南の鎮の政をも監察させた。孟陽は気概が高く権勢を頼み、行従三、四百人を率い赴任先の鎮府では遊興と婦女との夜宴にふけった。塩鉄転運院では広く賄賂を集め役人の任免を行うのみであった。帰還すると人望を大いに失い大理卿に罷免された。三年(808年)、華州刺史に出て梓州刺史・剣南東川節度使に遷った。武元衡と旧知の間柄で、元衡が宰相になると再び戸部侍郎・判度支に召され京北五城営田使を兼ね、和糴使韓重華を副とした。太府卿王遂と孟陽は不和で、営田策が不便であると議論が対立して決着がつかず、孟陽の憤懣が言葉に表れた。二人はともに対問を願い出たが帝は怒って許さず、孟陽は左散騎常侍に罷免された。翌年、再び戸部侍郎を拝命した。
  • 孟陽は気概が豪放で小事にこだわらなかった。邸宅は華美を極めた。憲宗が微行で楽遊原に至った際、その壮麗さを見て未だ工事が終わっていないことを問うと、左右の者が孟陽の邸だと答え、孟陽は恐れて工事を止めた。宴を好み公卿朝士の多くと交わったが、その言動を怒る者も一様ではなかった。まもなく中風で歩けなくなり左散騎常侍に改まった。元和十年八月(815年)に没し兵部尚書を追贈された。憲宗は常に道理を求め、江淮宣慰使をしばしば派遣したが、左司郎中鄭敬が使命を受けた際、辞去にあたり帝は「朕の宮中の用度は一匹以上すべて帳簿に記されているが、貧民の救済だけは計算しない。卿は経学に明るく行いも正しい、今出発して命を伝えるにあたり私の心を体し、潘孟陽のように使命を帯びながら赴任先で酒に耽り山寺に遊ぶだけということのないようにせよ」と戒めた。孟陽が君主にこれほど軽んじられていたのはこの通りである。