舊唐書卷一百五十四 列傳第一百四 許孟容

京兆尹としての剛直と旱魃対策の上疏

  • 孟容、字は公範、京兆長安の人。父鳴謙は『易象』に通じ撫州刺史(贈禮部尚書)。文才で知られ進士甲科、『王氏易』でも登科し秘書省校書郎。趙贊の荊襄黜陟使判官、張建封の徐州従事を経て侍御史。李納が境上で侵寇を仄めかした際、諸将の説得が効かぬ中、孟容単身で赴き利害を説き李納を撤兵させ和好を求めさせた功で濠州刺史、まもなく徳宗に才を見出され禮部員外郎に召された。
  • 公主の子の弘文・崇文館入学の不当な請願を令式に基づき却下し、皇帝の直接介入にも屈せず正論を貫いて本曹郎中に転じた。徳宗の誕生日の麟徳殿での儒仏道講論にも招かれた。
  • 十七年夏、好畤縣の風雹被害の調査不備で京兆尹顧少連らが罰せられた際、孟容は「府県の報告不備は俸給停止程度が相応、さらに検証を重ねて明らかにすべき」と諫めたが聞かれなかったものの、公議はこれを是とした。
  • 十八年、浙江東道観察使裴肅の死後、副使齊総が過酷な取り立てで進奉を重ね恩寵を得て衢州刺史に抜擢された不当人事に対し、孟容は「戦乱でもない地で功もない齊総の異例の抜擢は天下の失望を招く」と強く諫奏、諫官の追随もあり詔は保留された。徳宗は延英殿で孟容を召し「皆が卿のようであれば朕に何の憂いもない」と称賛、袁高の盧杞批判以来久しくなかった諫言の聴許として四方の評判を呼んだ。
  • 十九年夏の旱害に際し、孟容は上疏で「京師の一年の税銭・地租百万貫の全免、または三分の二免除」を提言、また「戸部の緊急用資金百余万貫を京兆百姓一年分の差科(賦役)に充てれば、天が徳音に応じ災いを福に転じる」と論じ、加えて流刑・徭役・逋負・冤罪の見直しを求めた。この提言は実現しなかったが世評は高く、貞元末の裴延齡・李齊運らの讒言による長期流刑者の処遇改善を暗に求める意図もあったとされる(それでも貞元期を通じ移動を許された者は少なかった)。
  • 諷諭が過ぎるとして太常少卿に転じたが、元和初、刑部侍郎・尚書右丞。四年、京兆尹・紫衣。神策軍吏李昱の高利貸未払い事件で、孟容は容赦なく捕縛し「期限内に返済せねば死罪」と迫った。禁軍の横暴が野放しになっていた中、中使の介入にも屈せず「輦轂の職にある以上、豪強を抑えるのが務め」と主張し徳宗(原文ママ)の理解を得て豪右を震え上がらせた。兵部侍郎、権知禮部貢舉として浮華を抑え才芸を重視した選抜を行い、河南尹、吏部侍郎。
  • 元和十年六月、宰相武元衡暗殺・裴度負傷の事件後、罷兵を求める声が高まる中、孟容は中書で涙ながらに「昔漢の汲黯一人で奸臣が謀を控えたように、今の主上は英明で朝廷に過ちはない、賊が跋扈するのは国に人材がないと侮られているからだ、裴度を宰相に起用し兵権を委ね賊党を徹底追及すべき」と訴え、数日後に裴度は実際に宰相となり誅罰が断行された。大臣の風格を示したと評価され、尚書左丞・汴宋陳許河陽行营諸軍宣慰使を経て東都留守。元和十三年四月、七十六歳で卒し贈太子少保、諡は憲。剛直で学識深く、礼法・訓典の考証に厳正、人材登用にも積極的だったと評された。