則天武后の史書上の位置づけ論
- 傳師、字は子言、呉の人。父沈既濟は博学で史筆に優れ吏部侍郎楊炎に称賛された。建中初、炎の宰相就任に伴い左拾遺・史館修撰に召された既濟は、吳兢が『国史』で則天武后の治世を本紀に立てたことに異論を唱えた。
- 既濟は「史は懲勧を旨とし君臣の別を正すもの、則天は聡明で内政を輔けた功があるが、中宗の廃位・幽閉を経て自ら帝位を簒奪した経緯があり、五王の擁立で唐が復興した以上、名分の上で降格が必要」と論じ、「則天は太后として、中宗は本来の君として『皇帝』と記すべき、睿宗は景龍以前は『相王』とすべき」と主張した。班固・司馬遷が呂后を『漢書』本紀に立てた先例への反論として「呂后は劉氏の血統簒奪こそなかった、則天は国号すら周に改めた点で全く異なる」とし、「則天紀を孝和(中宗)紀に統合し、年次の記述は中宗を軸にしつつ事績は則天を記す」形式を提案、姓名・入宮の経緯等は皇后伝に別立てし「則天順聖武后」と題すべきとした。この提案は実現しなかったが史家に評価された。
- 徳宗即位初、両省への待詔官三十員新設という冗費策に対し、既濟は「今日の患いは官の煩雑さであり員数の不足ではない、現有の四十員の常参官で十分足り得る、新設の利息運用の財政負担はかえって民を圧迫する、財政の主要負担は兵資と官俸であり倹約こそ肝要」と論じ実現を阻んだ。楊炎失脚に連座し処州司戸に貶され、後に禮部員外郎で終えた。
史官としての実務と地方統治
- 傳師は進士・制科乙第に登り、太子校書郎・鄠縣尉・直史館から左拾遺・左補闕(史職兼任)、司門員外郎・知制誥・翰林学士、司勛・兵部郎中・中書舍人を歴任。翰林承旨への昇進を病と称して固辞し謙譲を貫いた。兼御史中丞・潭州刺史・湖南觀察使、尚書右丞、洪州刺史・江南西道觀察使、宣州刺史・宣歙池觀察使、吏部侍郎。太和元年、五十九歳で卒し贈吏部尚書。
- 父既濟の『建中実録』十巻を継ぎ、史館で『憲宗実録』の編纂中に湖南観察使として赴任した際も特別に史稿を持たせ現地で完成させた。子の樞・詢は共に進士及第。
沈傳師子 沈詢
- 詢は中書舍人・翰林学士・禮部侍郎を歴任、咸通中に檢校戸部尚書・潞州長史・昭義節度使。簡素で恬淡な政風であったが、奴の帰秦(詢の侍者と通じていた)を処罰しようとした矢先、その奴が牙将と結んで夜襲を起こし詢一族は皆殺害された。
史論
- 史臣曰く――前代、史を学とした者は世に容れられず放逐される例が多かった。褒貶と是非を筆に握り賢愚軽重を言葉に託すため、正道を貫けば世の忌諱に触れやすく、一言が身に迫れば恨みを買う。令狐峘・張薦が仕途で困難に遭い、沈氏・柳氏が顕職に登れなかったのはこのためである。後世の史筆を執る者はこれを痛惜すべきであろう。とはいえ道は必ず伸び、物事は最後まで塞がることはない。子孫がその余慶を受け公卿に至った例が多いのは、天道の存在を示すものであろう。
- 贊に曰く――褒貶を言葉に託すのは孔子の道に倣うもの。乱を筆で誅するのは董狐の遺風でもある。国家の大典を編むことに、班固・司馬遷に何の咎があろうか。悪を懲らし善を勧める――史書は欠くことができないものである。