楊憑
- 憑、字は虛受、弘農の人。進士及第後、使府佐官から監察御史となったが束縛を嫌い辞任、起居舍人・左司員外郎・禮部兵部郎中・太常少卿・湖南江西觀察使を経て左散騎常侍・刑部侍郎・京兆尹。文才と気骨で知られ、弟の凝・凌と友愛深く、穆質・許孟容・李鄘・王仲舒と親交を結び「楊穆許李の交わり」と称された。傲慢な性格で人望を欠く一面もあり、二鎮を歴任するうちに奢侈が甚だしくなった。
- 元和四年、京兆尹在任中、御史中丞李夷簡が江西観察使時代の贓罪その他不法を弾劾、御史台・大理寺の共同審理となった。憲宗は「近年の弾劾で暴かれた累万銭の不正、豪奢な邸宅の造営は倹徳を損なう」として賀州臨賀縣尉同正に左遷した。李夷簡は憑が江西観察使時代に部下として疎かに扱われた恨みを持ち、憑が永寧里に豪邸を築き永樂里の別宅に妓妾を多く蓄えたことを衆議に乗じて弾劾、殺害まで図ったが決め手を欠く中、憲宗の即位後の厳格な法治方針もあり左遷に落ち着いた。貞元以来の藩鎮の驕奢を憲宗が是正しようとする中での事件で、世論はこれを時宜に適うとしつつも夷簡の追及の苛烈さも批判した。