李説
- 説、淮安王神通の裔。父遇は天寶中の御史中丞。門蔭により出仕し、馬燧の河陽三城・太原節度の従事を歴任、御史郎官・御史中丞・太原少尹・汾州刺史を経て李自良のもとで太原少尹・檢校庶子・兼中丞となった。
- 貞元十一年五月、自良が病に倒れ六日で没した際、喪を秘し、都虞候張瑤の帰葬休暇の隙に大将毛朝陽を代役に立て、その後に自良の病を朝廷に告げた。中使第五国珍が太原を通過中に自良の死を知り急ぎ京師に戻ったが、説の使者が先んじており、朝廷は通王を河東節度大使に、説を行軍司馬・節度留後・北都副留守とした。
- 監軍王定遠は擁立の功を恃み軍政を専断、印章を求めて監軍として初めて印を得た後さらに横暴を極めた。虞候田宏を彭令茵に代えて列将に据えた際、令茵が抗議すると定遠は激怒して斬殺し馬糞に埋めた。三軍は怨んだが、徳宗は定遠の奉天扈従の功で死罪を免じ停任とした。しかし詔が届く前に、定遠は説の上奏を怒って府に押し入り説を斬ろうとしたが、説は逃れて難を免れた。定遠は敕牒・官告二十余軸を並べ「李景略が留後となり説は京師へ、諸君には恩命がある」と欺いたが、大将馬良輔が「箱の中は監軍の旧官告に過ぎず恩命ではない」と見破らせ、諸将は従わなかった。定遠は乾陽楼に立て籠もったが夜に転落して負傷、崖州へ流罪となり、共謀した高迪らは説によって斬られた。まもなく説は正式に河東節度使・檢校禮部尚書となった。
- 説は在鎮六年、初めは職務に励んだが後に病を得て言語・歩行が不自由になり軍政を執れず、監軍が代行するようになった。孔目吏宋季らに欺かれ軍政は乱れたまま数年が過ぎた。十六年十月、六十一歳で卒し廢朝一日、贈左僕射。同月、行軍司馬鄭儋が檢校工部尚書・兼太原尹・御史大夫・河東節度度支營田觀察等使・北都留守となったが、一年足らずで卒した。