淮西の自立と朝廷との攻防
- 少誠、幽州潞縣の人。父は魏博節度都虞候。父の勲で戸曹の官に就いた後、荊南節度使庾準に見出され衙門将となり、入覲した準に従い襄漢で梁崇義の異志を見抜き自ら献策の機を窺った。李希烈が節度使就任時にこの計略を採用し朝廷に上奏、通義郡王に封じられた。崇義平定後は実封五千戶。希烈の叛乱にも従ったが、希烈の死後は陳仙奇を推戴、まもなく仙奇を殺し留務を執り、朝廷は申光蔡等州節度觀察兵馬留後、のち正授節度とした。
- 統治は勤倹で私を挟まなかったが朝廷には従わなかった。貞元三年、判官鄭常と大将楊冀が少誠を逐い朝廷帰順を図る密謀(偽詔を用いた計画)が発覚し常・冀は殺害された。将李嘉節らは自首したが少誠は皆赦し、大将宋炅・曹齊は京師に出奔した。
- 十五年、陳許節度曲環の死後、少誠が臨潁縣を攻めた際、鎮使韋清の内通で救援兵三千余が捕えられ、九月に許州を包囲、朝廷は官爵剥奪と十六道の兵による討伐を命じたが十二月に小溵河で敗北。翌年、夏州節度使韓全義が招討処置使として進めたが溵水で敗れ、五樓行営でも大敗し夜逃げする有様で、諸軍もまとまりを欠いたまま王師は敗れ続けた。少誠は蔡州に退き、朝廷は結局赦して官爵を復し、檢校僕射を累加、順宗即位で同中書門下平章事、元和初に檢校司空。元和四年十一月、六十歳で卒し廢朝三日、贈司徒。