邠寧の防衛と方渠築城
- 朝晟、字は叔明、夏州朔方の人。朔方軍前鋒として功をたて甘泉果毅、李懷光の劉文喜討伐にも従軍、右先鋒兵馬使、李納討伐でも功をたて開府儀同三司・檢校太子賔客。
- 奉天在陣時、李懷光の赴難軍で右廂兵馬使として咸陽を攻め朱泚を挫き実封百五十戶を得た。懷光の河中反乱で朝晟は軍に留め置かれたが、邠寧の張昕が懷光に呼応しようとした際、父の懷賓が数十騎で夜襲し昕とその一味を斬った。朝晟は懷光に自分の処刑を父の功への報いとして訴えたが懷光は逆に朝晟を拘束、河中平定後に渾瑊のとりなしで赦され、韓遊瑰の都虞候となった。父子は共に開府・賓客・御史中丞・異姓王として軍中で栄誉を得た。
- 韓遊瑰が宿衛に召され張獻甫が代わった際、裴滿という者の煽動で朝晟を劫かしたが、朝晟は表向き応じつつ三百余人を密かに処刑して鎮圧、獻甫の下で御史大夫に進んだ。九年の鹽州築城では木波堡を鎮守、獻甫の死後は後任となり母の喪に服し起復左金吾大將軍同正・邠州刺史・兼御史大夫。
- 十三年春、方渠・合道・木波の要路への築城を上奏、必要兵力を問われ「自軍のみで足り外助不要」と答え、鹽州築城時七万動員に比べ容易な理由を「秘密裏に十日以内に完工させれば蕃戎が知る前に終わる」と説明、徳宗は許可し実際に事は成功、吐蕃は数日後に至ったが既に手遅れであった。
- 方渠で水源に窮した際、青蛇が現れその跡に水が流れたため防を築いて泉とした逸話が朝廷に上奏され祠が置かれた。免喪後、檢校工部尚書、寧州への移軍中に病を得て旬余で卒した。