舊唐書卷一百四十一 列傳第九十一 田弘正

帰順とその功績

  • 弘正は節鉞拝受にあたり上表し、代々唐人としての忠孝の志と、乱世に功を立てることの逡巡を述べ、和気を導き偽風を洗い流した後は田園に退きたいとの決意を表明した。
  • 府舎に書楼を建て万余巻を蔵し、賓佐と古今の言行を論じた。魏州の奢侈な旧館宇を破却し、正庁の華美を避け採訪使庁で政務を執った。左傳・国史などに通じた。
  • 幽・恒・鄆・蔡が離間を図るも節を変えず、裴度と深く結んだ。元和十年、呉元濟討伐に子の布を将として三千の兵で参陣させ功をたてた。李師道は弘正の忠を憚り元濟への公然たる援助を控えた。王承宗が叛くと弘正が全軍で圧すると承宗は二子を人質に出し德・棣二州を献じた。
  • 元和十三年、鄆州(李師道)討伐に宣武・義成・武寧・橫海と共に参軍。楊劉から渡河して鄆に迫り、劉悟の軍と激戦の末、翌年三月に劉悟が師道を斬って降伏、淄青十二州が平定された。功により檢校司徒・同中書門下平章事、八月には入朝して麟德殿で厚遇され、檢校司徒・兼侍中・実封三百戶を加えられ、兄融は太子賔客・東都留司となった。三度留京を願うも憲宗は魏の統治を頼み帰藩を命じた。

成徳軍転任と横死

  • 元和十五年十月、王承宗の死に伴い弘正は檢校司徒・兼中書令・鎮州大都督府長史・成德軍節度使に転じ、旧怨ある鎮人に備え魏兵二千を衛とした。着任後、鎮州三軍への賞銭百万貫の支給が滞り軍情が動揺、弘正は自ら撫慰したが度支使崔倰が魏兵駐留の請いを四度上表しても許さなかった。
  • 翌年七月、卒(帰葬のため魏州にあり)の月末、鎮州で軍乱が起き、弘正とその家属・参佐・将吏ら三百余人が殺害された。穆宗は震悼し太尉を追贈、賻賻を加えた。弘正は骨肉に篤く、両京にいた兄弟子姪数十人は日費約二十万に及ぶ奢侈を競い、魏・鎮の財がこれに費やされたことが河北の将卒の不満を招き、乱の一因となった。子は布・群・牟。

田弘正子 田布――父の仇討ちと自刃

  • 布は弘正の第三子。父が田季安の裨将として臨清に鎮していた頃、幼くして季安の危機を察し帰朝を勧めた。淮西討伐で唐州に従軍、十八戦して凌雲柵を破り郾城を陥すなど功を重ね御史中丞。裴度の観兵に際し賊将董重質の急襲を二百騎で退けた。淮西平定後、左金吾衛將軍・兼御史大夫。母の喪に服し起復、弘正が成徳軍に移ると布は河陽三城懷節度使となり父子同日に節旄を受けた。
  • 長慶元年、涇原に転任。同年秋、鎮州で軍乱により弘正が殺され王廷湊が留後となると、布は起復魏博節度使・檢校工部尚書となり喪服のまま赴任、祿俸や旧産(十余万貫)をすべて軍に頒った。牙将史憲誠を先鋒兵馬使に抜擢し精鋭を委ねた。
  • 十月、魏軍三万七千で南宮に布陣、十二月に二柵を陥したが、朱克融が幽州で張弘靖を幽閉し廷湊と呼応、河朔三鎮の連衡と厳寒・糧欠のため軍は戦意を失い、史憲誠の離間もあり自潰、布の軍八千は憲誠に奪われた。将卒が河朔慣行(世襲自立)でなければ従わぬと言うに及び、布は密表で光顏・元翼の救援を朝廷に求めたのち父の霊前で自刃した。時に「功成らず」と嘆きつつも忠烈と評された。
  • 穆宗は駭嘆し廃朝三日、詔で布の忠孝を称え檢校尚書右僕射を贈った。子の在宥は大中年間安南都護として辺功をたてた。

田弘正子 田群・田牟

  • 群は大和八年少府少監・入吐蕃使を経て棣州刺史・安南都護を歴任。
  • 牟は會昌初に豐州刺史・天德軍使、のち武寧軍節度使、大中朝に兗海節度使から天平軍に転じた。田氏の子孫は辺功を重ね忠義をもって称された。