舊唐書卷117 列傳 嚴武・郭英乂・崔寧・嚴震・嚴礪

代宗期の剣南・山南方面を舞台にした武人たちの列伝。嚴武の苛政と早世、後任の郭英乂の暴政とその横死、これに乗じて挙兵し節度使に成り上がった崔寧(旰)の栄達と非業の死、山南西道で徳宗の興元奉迎に功をあげた嚴震の清廉な治績、その一族の嚴礪の貪虐という対照的な生涯が描かれる。あわせて崔寧の一族である崔密・崔繪父子とその子孫(蠡・蕘・黯ら)が科挙官僚として続いた経緯も付される。

年表(10件)

嚴武――出自と生い立ち

  • 嚴武は中書侍郎嚴挺之の子。気性は俊敏爽快で見聞に敏かった。幼くして大人びた風があり、読書は精密な意義を極めるよりも広く渉猟する程度であった。二十歳で門蔭により仕官の籍に入り、隴右節度使哥舒翰が判官として奏用し侍御史に遷った。
  • 至德初年、粛宗が兵を興し難を鎮めるにあたり才傑を大いに集めると、武は節を杖に行在へ赴いた。宰相房琯は武が名臣の子であることをもとより重んじ、この機に才略を称える推薦を第一にし、累進して給事中となった。長安が収復されると武は京兆少尹・兼御史中丞となった。時に三十二歳。史思明が兵を構えたため任地に赴かず、京師で悠々自適に過ごし大いに自負していた。
  • 綿州刺史として出て剣南東川節度使に遷り、召されて太子賓客・兼御史中丞となった。

剣南節度使としての治績と苛政

  • 上皇の詔で剣南両川を合わせて一道とされ、武は成都尹・兼御史大夫を拝命し剣南節度使を兼ねた。召されて太子賓客となり京兆尹・兼御史大夫に遷った。二聖(玄宗・粛宗)の山陵の際、武は橋道使とされた。まもなく御史大夫の兼職を罷免され吏部侍郎に改まり、まもなく黄門侍郎に遷った。
  • 宰臣元載と深く結び同僚に引き立ててもらうことを望んだが実現せず、方面の任を求めて再び成都尹・剣南節度等使を拝命した。廣德二年(764年)、吐蕃七万余の軍を破り当狗城を抜いた。十月、塩川城を取り、検校吏部尚書を加えられ鄭國公に封じられた。
  • 前後蜀に在ること数年、思うままに欲を放縦し猛烈な政を敷いた。梓州刺史章彜は初め武の判官であったが、この頃わずかに意に沿わないことがあると成都へ呼び寄せ杖で打ち殺した。これにより威は一方に轟いた。蜀の地は珍しい産物が豊かで、武は奢侈を極め賞賜に度がなく、一言で百万を賞することもあった。蜀の民は徴税により困窮を極めたが、それでも蕃虜(吐蕃)は敢えて境を犯すことがなかった。
  • しかし性はもとより奔放で、事に臨んでは自分の胸中の思いだけで判断し、慈母の言葉さえ顧みなかった。初めて剣南節度使となったとき、旧宰相房琯が管内の刺史として出仕していた。琯には武を推挙し導いた恩があったが、武は驕り高ぶり琯に会っても朝礼をほとんど尽くさず、当時の議論に強く貶められた。永泰元年(765年)四月、病により没した。時に四十歳であった。

郭英乂――出自

  • 郭英乂は先朝の隴右節度使・左羽林軍将軍郭知運の末子。若くして父の業を継ぎ武芸に習熟し、河隴の間で仕官の籍に入り、軍功により累進して諸衛員外将軍に至った。至德初年、粛宗が朔野で兵を興すと、英乂は将門の子として特に登用され隴右節度使・兼御史中丞に遷った。両京が収復されると召還され禁兵を掌り羽林軍大将軍に遷り特進を加えられた。家の喪により官を去った。

東都留守での掠奪

  • 朝廷が史思明討伐のため将帥を選任する際、英乂は陝州刺史として起用され陝西節度・潼関防禦等使を兼ね、まもなく御史大夫を加えられ神策軍節度を兼ねた。代宗が即位すると検校戸部尚書・兼御史大夫を加えられた。元帥雍王が陝州から諸軍を統べて洛陽の賊を討伐した際、英乂は陝州に留められ後殿とされた。東都が平定されると英乂は権知東都留守とされた。
  • 東都に至ると暴挙を禁じることができず、麾下の兵を朔方・回紇の軍とともに都城で大掠奪させ、鄭・汝などの州にまで及び、家々は徹底的に略奪された。廣德元年(763年)、論功で実封二百戸を加えられ、召されて尚書右僕射を拝命し定襄郡王に封じられた。富を恃んで驕り、京城に豪邸を新築し奢侈を極めた。宰臣元載と結んでその権勢を保とうとした。

成都尹としての暴政

  • 折しも剣南節度使厳武が卒すると、載は英乂をこれに代えさせ成都尹を兼ね剣南節度使とした。成都に至ると不法な振る舞いをほしいままにし何ら憚ることがなかった。玄宗が蜀へ行幸した際の旧宮は道士観とされ、内には玄宗の鋳造した真容像と乗輿侍衛の図画が置かれていた。これより先、節度使は着任するたび必ず先に拝礼してから政務に就いていた。
  • 英乂はこの観の地形が優れていることから中に入って居住し、玄宗の真容像と図画はことごとく破壊された。見た者は皆憤ったが、軍政が過酷であったため敢えて口にする者はなかった。また甚だ奔放で、女たちを集めて驢馬に乗せ打毬をさせ、螺鈿の驢鞍や種々の装身具を作らせいずれも贅を尽くした装飾で、日々の費用は数万にのぼり、これを楽しみとした。百姓の間の事情を問うことは一度もなく、人々はこれを大いに怨んだ。
  • また西山兵馬使崔旰が人心を得ていることをたびたび抑圧した。旰は蜀人の怨みに乗じ、西山から麾下五千余を率いて成都を襲った。英乂は軍を出してこれを防いだが、その兵は皆叛き反って英乂を攻めた。英乂は簡州へ逃げたが、普州刺史韓澄がその首を斬って旰に送り、妻子もともに滅ぼされた。

崔寧(旰)――出自と初期の経歴

  • 崔寧は衛州の人、もとの名は旰。儒者の家の子であったが縦横の術を好んだ。衛州刺史茹璋が旰に符離令を授けたが、これを罷免された後久しく官が定まらず、劍南に遊学し従軍して歩卒となり鮮于仲通に仕えた。また李宓に従って雲南を討伐したが、宓が戦に敗れると旰は成都へ帰った。
  • 行軍司馬崔論は旰に会うとその姿を気に入り、また同族であることから厚遇し衙将に推薦した。崔圓・裴冕に仕えた。冕が讒言を受け朝廷が使者を派遣して糾問しようとした際、旰の部下は耳を切って冤を訴え、中使がこれを奏上した。旰も京師へ赴き司戈を授けられ司階・折衝郎将軍などを歴任した。

西山での戦功

  • 寶應初年、蜀中が乱れ山賊が県道を塞ぐと、代宗はこれを憂えた。厳武は旰を利州刺史に推薦し、着任すると山賊は逃げ散り、これより名を知られた。厳武が剣南節度使として赴任する際、利州を通り旰を部将に招きたいと思ったが、利州はその管轄外であったため旰は容易に離れることができず、旰に考えさせた。
  • 旰は「節度使張献誠は忌まれており、しかも利を好む人物です。もし厚く賄賂を贈れば、私は大夫(厳武)に従うことができるでしょう」と述べた。武は剣南に至ると献誠に珍しい錦や宝貝を贈り、その価値は百金に及んだため献誠は大いに喜んだ。武は献誠に書を送り旰を求めると、献誠はこれに応じ旰に病と称して郡を離れさせた。旰は剣南へ赴き、武は漢州刺史に奏挙した。
  • 久しくして吐蕃と諸雑羌戎が西山の柘・静などの州を陥落させると、詔で厳武にこれを収復させた。武は旰に兵を統べさせて西山へ赴かせ、旰は士卒を善く撫し皆死力を尽くすことを願った。初め賊の城に至ると周囲は石礫ばかりで攻城の道具が使えなかったが、東南の角の一丈四方の地だけは土質が柔らかく穴を掘れることを間諜が知って報告した。旰は昼夜地道を掘って攻め、二晩でその城を陥落させた。これにより地を数百里拓き城砦を数か所落とした。蕃人は「崔旰は神兵だ」と語り合った。さらに前進しようとしたが糧が尽きたため軍を還した。武は大いに喜び七宝の輿を飾って旰を成都に迎え、士衆に誇り、賞賜も過分であった。

郭英乂との対立

  • 永泰元年(765年)五月、厳武が卒すると杜済が西川行軍司馬として軍府の事を権知した。当時郭英幹が都知兵馬使、郭嘉琳が都虞候となり、いずれも英幹の兄英乂を節度使にすることを求めた。旰は当時西山都知兵馬使であり、軍衆とともに大将王崇俊を節度使にすることを求めた。二つの上奏が京師に届いたが、朝廷はすでに英乂を任命しており、旰の使者は英乂に会いその事情を陳べた。
  • 英乂は成都に至ると数日で王崇俊を誣告して殺し、旰を成都へ召し戻した。英乂は将兵の糧と賜与を削減し人心は怨み怒った。旰は西山でこれを聞いて大いに恐れ、吐蕃への備えを口実に成都へ赴かなかった。英乂は怒り、旰を助けて吐蕃を討つと称して兵を出したが、実は旰を襲うためであった。
  • 旰の家は漢州にあったが、英乂はこれを成都へ移し旰の妾を犯した。旰はこれを知り深山へ逃げ込んだ。英乂は自ら軍を率いて旰を攻めたが、折しも大寒で雪は数尺も積もり、英乂の士馬で凍死する者が数百人に及び軍心は離反した。旰はそこで兵を出して迎え撃ち、英乂と交戦するとその軍は大敗して戻った。残兵をまとめてわずか千人で成都へ帰ると、将卒は多く逃亡した。

郭英乂の最期

  • 初め天寶中、剣南節度使鮮于仲通が使院を一つ建てその建物は甚だ華麗であった。玄宗が蜀へ行幸した際そこに住んだことから道観とされ、玄宗の真容像を写して正室に安置していた。英乂は観に入って行香した際、その竹林を気に入り、仲通の旧院を軍営とすることを奏請し、真容像を移してそこに自ら住んだ。
  • 旰はこれを聞き将士に「英乂は反逆したのだ。そうでなければ、なぜ玄宗の真容像を破壊してそこに自ら住むことができようか」と告げ、兵を率いて成都を攻めた。英乂は城の西門に兵を出し、柏茂琳を前軍、郭英幹を左軍、郭嘉琳を後軍として旰と戦わせた。茂琳らの軍はたびたび敗れ、軍人の多くは旰に投降した。旰は降将に兵を統べさせ英乂と転戦し、大いに破った。
  • 兵が子城に至ると英乂は単騎で簡州へ逃げたが、普州刺史韓澄に殺された。当時邛州・剣州各地で兵が起こり互いに攻め合い、剣南は大いに乱れた。

杜鴻漸の懐柔と崔寧への改名

  • 永泰二年(766年)二月、黄門侍郎平章事杜鴻漸が兼成都尹・山南西道剣南東川西川邛南等道副元帥・剣南西川節度使とされた。鴻漸が駱谷を出た際、ある謀臣が「相公(鴻漸)は閬州に留まり遠くから剣南を統制し、たびたび牒を出して英乂の過失を述べ旰に方略があることを言い、旰の腹心で諸州刺史を摂している者たちを表上して正式に任じ、旰と将校たちに疑いや怨みを抱かせないようにする。そうしてから東川節度使張献誠と諸賊帥と合議し、しばしば兵を出して旰を攻めれば、数道の連合軍で一年も経たぬうちに旰の兵勢は減耗し、窮した旰は必ず身を束ねて朝廷に帰るでしょう。これが上策です」と述べた。鴻漸は臆病でこの計を疑い決断しなかった。
  • 折しも旰の使者が至り、卑屈な言葉と厚い礼を尽くし絹錦数千匹を送った。鴻漸はその利を貪り成都に至ると、日々判官の杜亜・楊炎らと宴を開き見物にふけり、軍州の政事はすべて旰に委ね、しきりに表を連ねて旰を推薦した。
  • これより先、張献誠がしばしば旰と戦ったが献誠は敗れ続け旌節(節度使の印綬)はすべて旰に奪われた。朝廷は鴻漸の求めにより成都尹・兼西山防禦使・西川節度行軍司馬を加え、「寧」の名を賜った。大歴二年(767年)、鴻漸が朝廷に帰ると、寧は西川節度使を授けられた。

崔寧の蜀での治世

  • 寧は地の険しさと人の富に恃み、財貨を厚く集め権貴に結び、弟の寛を京師に留めた。元載とその子らが何かを求めればほしいままに与えたため、寛はしきりに御史知雑事・御史中丞を歴任した。寛の兄の審も郎中・諫議大夫・給事中を務めた。寧は蜀に在ること十余年、地の険しさと兵の強さを恃み奢侈を極め欲をほしいままにし、将吏の妻妾で犯された者も多く、朝廷はこれを憂えても糾すことができなかった。累進して尚書左僕射を加えられた。

楊炎との確執

  • 大歴十四年(779年)、入朝して司空・平章事・兼山陵使に遷り、まもなく喬琳に代わって御史大夫・平章事となった。寧は御史の選定は大夫から出すべきで宰相に相談すべきではないと考え、李衡・於頎ら数人を御史とすることを奏請した。楊炎は大いに怒り、その表は取りやめとなった。炎はまたしばしば劉晏を讒言し、寧はこれを解こうとした。寧は元載と長く厚く結んでいたが、楊炎もまた載の門から出た人物で、寧は初め炎に近づいたものの、この事により炎は大いに怒った。

南蛮の侵攻と西川節度使の解任

  • その年十月、南蛮が大挙して来襲し吐蕃と三道から合流して進んだ。一つは茂州から文川・灌口を経、一つは扶州・文州から方維・白壩を経、一つは黎州・雅州から邛州・郲州を経るものであった。戎の酋長は部下に「蜀川を東府とし、あらゆる技巧の職人はすべて逻娑(吐蕃の都)へ送らせ、毎年一縑(絹一巻)の税を課すだけにする」と告げていた。この蛮の侵入で郡邑は次々陥落し、士庶は山谷へ逃げ惑った。
  • 当時寧は朝廷にあり軍中に帥がなかったため、徳宗は寧に鎮へ戻るよう促した。炎は寧が自分を恨み蜀に入れば制しがたくなることを恐れ、徳宗に「蜀川は天下の奥地です。寧がここに勝手に居座って以来、朝廷は十四年もの間外府を失ってきました。今、寧は朝廷に来ており、まだ全軍で蜀を守らせることができます。その利益の厚さは供給に釣り合うだけで、貢賦の実収はないも同然です。もとより寧は諸将と同列でしたが、独り叛乱に乗じて地位を得たため、自らその富を有することを憚らず、恩恵をもって懐柔するばかりで威令が行われていません。今、寧を戻したとしても功を立てられなければ無駄な派遣になりますし、もし功を立てればその義を奪うことはできません。つまり西川の奥地は、敗れれば当然失われ、勝っても国家のものとはならないのです。陛下はよくよくお考えください」と述べた。
  • 帝が「では卿の策はどうか」と問うと、炎は「寧を戻さないことです。今、朱泚配下の范陽の精兵が近郊に駐屯しています。これを禁兵とともに派遣すれば必ず勝利するでしょう。この機に乗じて親兵を蜀の内側に配置すれば、蜀の将は必ず動けなくなります。その後、別の将帥に交代させ権を回収すれば、千里の肥沃な地を得ることになり、小さな禍を機に大きな福を受けることになります」と述べた。帝は「よかろう」と言い、寧を蜀へ戻すことを止めた。
  • そこで禁兵四千・范陽兵五千を発して東川救援に赴かせた。江油から白壩へ進軍し山南の兵と合流して撃つと、蛮兵は敗走した。范陽軍はさらに七盤で撃破し新城を抜き、戎・蛮は大敗した。斬首・捕虜は六千、生け捕り六百、負傷者はほぼ半数に及び、飢えと寒さで崖谷に落ちて死んだ者は八九万に達した。

朔方節度使への転任と死

  • 寧はこうして西川節度使を罷免され、制で検校司空・同中書門下平章事・御史大夫・京畿観察使を授けられ霊州大都督・単于鎮北大都護・朔方節度等使を兼ね鄜坊丹延都団練観察使を兼ねた。重臣として北辺を鎮めるという名目であったが、実際は鄜州に留め置くだけであった。寧を節度使としたが実際にはそれぞれの道に留後が置かれ自ら朝廷に上奏できたため、炎はしきりに寧の過失を伺わせた。杜希全が霊州、王翃が振武、李建徽が鄜州、戴休顔・杜従政・呂希倩らはいずれも炎が配置した者たちであった。
  • 寧が辺境を巡視して夏州に至った際、刺史呂希倩が寧と力を合わせ党項を招撫し帰順する者が多く出た。炎はこれを嫌い、希倩の撫綏の功が任に堪えると奏上し朝廷に召還させ、右僕射知省事とし、神武将軍の時常春をこれに代えさせた。

朱泚の乱と死

  • 朱泚の乱では上(徳宗)は急遽行幸させられ、百僚諸王でこれを知る者はほとんどなかった。寧は数日後に賊中から戻ると上は初め大いに喜んだ。寧は私かに親しい者に「聖上は聡明で英邁であり善に従うことは規則を転がすように容易であるが、盧杞に惑わされてこのような事態に至っただけだ」と語った。杞はこれを聞き、密かに王翃と謀って寧を陥れようとした。
  • 初め涇原の兵が乱を起こした夜、寧は翃と御史大夫於頎とともに延平門を出て西へ向かったが、たびたび馬を下りて用を足し、そのたびに長くかかった。翃らは急がせたが敢えて先には進まなかった。また賊兵が追ってくることを恐れ、翃は大声で「もうここまで来た、これ以上遅れる必要はない」と述べた。奉天に至ると翃はこの事の次第を上に伝えた。
  • 折しも朱泚が離間の計を用い、柳渾を偽宰相に任じ寧を中書令に署した。寧の朔方掌書記康湛が当時盩厔尉であったが、翃は湛を脅して寧が朱泚に送ったとする偽の書を書かせ、寧が自ら弁明できないようにして献上した。杞はこれによって「崔寧は初めから太陽に向かう葵の花のような忠誠心を持っておらず、城中で朱泚と固く盟約を結んでいたと聞きます。だからこそ百官より後れて到着したのです。今その証拠が現れました。もし凶悪な首魁が外から迫り奸臣が内で謀れば、大事は去ってしまいます」と誣告した。
  • そして地に伏して涙にむせびながら「臣は宰相の位にありながら、危機にあってこれを支えられず、傾く国を扶けることもできませんでした。万死に値します、斧鉞の刑を伏して待ちます」と述べた。上は左右に命じて助け起こさせた。寧が退出すると、まもなく中官が寧を幕の後ろへ導き、二人の力士が背後から絞め殺した。時に六十一歳であった。
  • 初め寧を誅すにあたり、朝堂に召し「江淮へ宣慰に赴かせる」と言っていた。まもなく翰林学士陸贄に寧を誅する制を起草させたが、贄は寧が朱泚に送ったとされる書状を求めその内容を根拠に寧を生かそうとした。しかし再びその書はすでに失われたと乱れた話が伝えられた。寧が罪を得るとその家は没収されたが、内外の人々はその冤罪を語り、後にその家は赦され資産も返還された。貞元十二年(796年)六月、寧の旧将で夏・綏・銀節度使韓潭は新たに礼部尚書を加える恩制をもって寧の罪を雪ぐことを奏請し、詔でこれに従い、その家に喪を収葬させた。

崔寧の家族――弟の寛と楊子琳の襲撃

  • 初め寧が朝廷に入る際、弟の寛を成都に残して守らせた。瀘州の楊子琳が隙に乗じ精鋭騎兵数千を率いて成都に突入し城を占拠して守った。寛はたびたび戦ったが力尽き、子琳の威勢は大いに盛んになった。寧の妾任氏は体格逞しく果断な人物で、家財十万を出して勇士を募り一晩二晩のうちに千人を得て、隊伍と将校を編成し自ら兵を指揮して子琳に迫った。子琳は恐れ、城内の糧も尽きたため城を放棄して自ら潰走した。子琳はもとより妖術を心得ており、その夜大雨を降らせ舟を庭先まで引き込みそれに乗って逃げたという。

崔密・崔繪とその子孫

  • 寧の末弟の密、密の子の繪は父子ともに文雅で称され、いずれも使府の従事を歴任した。繪には四人の子、蠡・黯・確・顏がいて、いずれも進士に及第した。

崔蠡

  • 蠡、字は越卿、元和五年(810年)に及第し、しばしば使府に招かれた。宝暦中、召されて監察御史となった。大和初年、侍御史となり三たび遷って戸部郎中となり、汝州刺史として出た。開成初年、司勲郎中として召され、まもなく本官のまま知制誥となった。翌年、正式に舎人を拝命した。三年、権知礼部貢挙となった。四年、礼部侍郎を拝命し戸部に転じた。
  • 上疏して国忌日(先帝の忌日)に僧の斎会を設け百官が行香することは経典に根拠がないと論じた。詔があり「朕は郊廟の礼をもって厳かに祖宗を奉じ、物を備え誠を尽くし昭かに神明に届くことを願っている。忌日への感慨は、まさに終身の憂いと言うべきものである。しかし近代以来、仏教・道教に帰依し二教を用いて食を設け、百官を集めて行香させるようになった。これは聖霊の助けとし冥福を資するためというが、皇王の道とは異なり教義の本旨からも外れている。先に崔蠡の上奏を得て、その本末を調べさせたところ、礼文や令式に明確な根拠はなく、ただ習俗が惰性で続いてきただけであった。これはまさに改めるべきである。両京および天下の州府において国忌日に寺観で斎を設け香を焚くことは、今後すべて停止せよ」とされた。
  • 蠡はまもなく華州刺史・鎮国軍等使となり、再び方鎮を歴任した。子に蕘がいる。

崔蕘

  • 蕘、字は野夫。大中二年(848年)に進士に及第し、累進して尚書郎・知制誥に至った。正式に中書舎人・戸部侍郎を拝命した。乾符中、尚書右丞から吏部侍郎に遷った。蕘は美しい文辞に優れ談論に長けていたが、事務の処理は簡略に過ぎ、銓衡(人事)を管理する才には欠けていた。
  • 陝州観察使として出ると、器量や風韻の高さを自負して細事を顧みず、権限は部下に移った。当時河南で盗賊が蜂起し、王仙芝が漢南で乱を起こし朝綱は振るわなかったが、蕘は自らの清貴な身分を恃み人々の苦しみを顧みなかった。百姓が旱害を訴えると、蕘は庭の木を指して「まだ葉があるではないか、どこに旱魃があるというのか」と言い鞭打ったため、吏民の恨みを買った。
  • まもなく軍人に追放され、飢えと渇きに苦しみ民家に水を求めたところ、民は小便を飲ませたという。初め軍人に捕えられた際、髭と髪を切られ、拝礼してようやく難を免れた。守備を失った罪で端州司馬に貶され、再び召されて左散騎常侍となり卒した。
  • 子に居敬・居儉がいる。居敬は尚書郎で終わり、居儉は戸部尚書に至った。

崔黯

  • 黯、字は直卿、大和二年(828年)に進士に及第した。開成初年、青州の従事となった。召されて監察御史となり、郊廟の祭器が不敬な扱いを受けていることを奏上し有司に勅を出すことを求めた。文宗は宰臣に「宗廟の事は、朕が自らその礼を奉じるべきものである。ただ千乗万騎が動けば国用を費やすため、有司が事を行う日は衣冠を着けたまま座って夜明けを待っている。近頃、担当者が不敬で祭器が粗雑になっていると聞くが、これは神を敬い身を清める道ではない。卿はよろしく有司に厳しく勅し、この意を伝えよ」と述べた。黯はこの旨を具に条上して奏聞した。まもなく員外郎に遷った。会昌中、諫議大夫となった。

崔確・崔顏

  • 確、字は嶽卿、顏、字は希卿、いずれも位は尚書郎に至った。

嚴震――出自と生い立ち

  • 厳震、字は遐聞、梓州塩亭の人。代々農家であり財力で郷里に雄をなした。至德・乾元以後、震はしばしば家財を出して辺境の軍を助け、州長史・王府諮議参軍を授けられた。東川節度判官韋収は震の才用を節度使厳武に推薦し、合州長史を授けられた。厳武が西川に移ると押衙とされ、恒王府司馬に改まった。厳武は同姓の縁から軍府の事を多く彼に委ね、また衛尉・太常少卿を歴任した。
  • 厳武が卒すると罷免されて帰った。東川節度使がまた渝州刺史に奏挙したが病により免じた。山南西道節度使がまた鳳州刺史に奏挙し侍御史を加えられたが、母の喪により罷免された。喪中を起こして本官に復し興州・鳳州両州団練使を兼ね、累進して開府儀同三司・兼御史中丞を加えられた。政は清廉厳格で利を興し害を除き、遠近から称賛された。建中初年、司勲郎中韋楨が山南・剣南の黜陟使となり震の治績を山南第一と推薦し、特に上上の考課を賜り鄖國公に封じられた。鳳州に在ること十四年、良政は変わることがなかった。

山南西道での興元奉迎の功

  • 建中三年(782年)、賈耽に代わり梁州刺史・兼御史大夫・山南西道節度観察等使となった。朱泚が京城を占拠すると李懐光は咸陽に駐屯しこれと結んだ。泚は腹心の穆庭光・宋瑗らに白書を持たせ震を誘って共に叛くよう求めたが、震は衆を集めて庭光らを斬った。
  • 当時李懐光が賊と結んでいたため、徳宗は山南への行幸を望んでいた。震は帝が動座を望んでいると聞くと、吏を馳せて奉天へ表を送り駕を迎え、さらに大将張用誠に兵五千を率いさせ盩厔以東で迎護させたところ、上はこれを聞いて喜んだ。しかしまもなく用誠は賊に誘われ叛逆を企てようとし、朝廷はこれを憂えた。折しも震はまた牙将馬勛を遣わし表を奉じて迎候させたが、上は御殿の欄干に立って勛を召し語らせた。勛は「臣は日を計って山南へ至り節度使の符を取って用誠を召し、もし召しに応じなければ、その首を斬って復命いたします」と答えた。上は喜び「卿はいつ着くか」と問うと、勛は日限を計って奏し、帝はこれを労った。
  • 勛は震の符を得ると、屈強な者五人を求め連れて行った。駱谷を出ると、用誠は勛がまだその陰謀を知らないと思い数百騎で勛を出迎え、勛と共に伝舎へ向かうと用誠の左右は物々しく並んでいた。勛は先に駅の外で草に火を放ち、軍士が争って火の元に集まると、勛は落ち着いて懐中の符を取り出して見せ「大夫(震)がお前を召している」と告げた。用誠は恐れて逃げようとしたが、壮士が背後から縛り上げて捕えた。
  • 予期せず用誠の子が背後にいて刀で勛に斬りかかったが、勛の左右がその腕を掴み、刀は深く入らず勛の頭にわずかに傷がついただけであった。壮士たちはその子を斬り殺し、用誠は地に押し倒された。壮士はその腹の上に馬乗りになり刃をその喉に当てて「声を出せば死ぬぞ」と告げた。勛はその陣営へ行くと、軍士たちはすでに甲を着け武器を持っていた。勛は大声で「お前たちの父母妻子は皆梁州にいる。一朝にしてこれを捨て用誠に従って反逆すれば、何の利益があろうか。ただお前たちの一族を滅ぼすだけだ。大夫は私に張用誠を捕えるよう命じただけで、お前たちのことは問わない。何をしようというのか」と告げると、皆恐れ入って服従した。
  • こうして用誠を縛って州へ送り、震は杖で打ち殺し、その副将を抜擢して部下を率い駕を迎えさせた。勛は薬で頭の傷を包み急ぎ行在へ馳せた。予定より半日遅れたため上は大いに心配したが、勛が到着すると上は喜びの色を浮かべた。翌日、車駕は奉天を発ち駱谷に入ったところ、李懐光が数百騎を遣わして襲ってきたが、山南の兵がこれを撃退したため輿駕には危急の患いがなかった。まもなく震は検校戸部尚書を加えられ実封二百戸を賜った。

興元府への昇格

  • 三月、徳宗は梁州に至った。山南の地は貧しく糧食の供給が難しく、宰臣は成都府への行幸を議した。震は「山南は京畿に接し、李晟がまさに収復を図っており六軍の後援を頼みにしています。もし西川へ行幸されれば、晟には収復の見通しが立たなくなります。陛下にはゆっくりとよろしきをお考えいただきたく存じます」と奏上した。議論が決しないうちに李晟の表が届き、車駕が梁州・洋州に駐蹕して収復を図ることを求めたため、議論はやんだ。
  • 梁・漢の間は刀耕火耨(焼畑農業)の地で、民は野生の穀物を採ることを生業とし、十五郡を統轄していても賦額は中原の三、四県に及ばなかった。安史の乱以後、多くは山賊に掠奪され戸口は大半が流散していた。六師(帝の軍勢)が駐蹕するに及び、震は方策を立てて勧農に努め財賦を集めて行在に供給し、民を煩わせることなく供給に欠けることがなかった。
  • その年六月、京城が収復され車駕が京師へ帰還する際、検校尚書左僕射に進められた。詔で「朕は寇難に遭い梁・岷の地へ移り、民は供給に煩わされ武士は防衛に勤めた。あらゆる職務にある者はそれぞれの任を尽くし、この地の恩に感謝し我が興運を回復した。よろしく崇め大いにし将来の模範とすべきである。梁州を興元府と改め、官名品制は京兆府・河南府と同じくする。鄭県を赤県に昇格させ、諸県を畿県に昇格させる。現任の州県官は任期満了の日に選から放免し、百姓には一年間の免税を与える。洋州は望州に昇格させ、現任の州県官は任期満了の際二選を減じる。山南西道の将士はいずれも表彰する」とされた。震は興元尹とされ実封二百戸を賜った。

晩年

  • 貞元元年(785年)十一月、徳宗が南郊で昊天上帝を親祀した際、震は入朝して陪祭した。十一年二月、同平章事を加えられた。貞元十五年(799年)六月に卒した。時に七十六歳。三日間政務を停め、太保を冊贈し布帛米粟を等差により賻贈した。喪柩が到着する際、百官に順に邸宅へ赴いて弔問し哭泣させる令が下った。

嚴礪――出自と苛政

  • 厳礪は震の同族。性は軽率で謀略が多く、口先の巧みさで軍にあり、山南東道節度都虞候・興州刺史・兼監察御史に至った。貞元十五年(799年)、厳震が卒すると礪は権知留府事とされ、震の遺表でもその才が任に堪えると推薦された。七月、超えて興元尹・兼御史大夫・山南西道節度・支度営田・観察使を授けられた。
  • 詔が下ると、諫官・御史はこの任命が不当と考えた。この日、諫議・給事・補闕・拾遺がそろって門下省に集まり議論した。礪の資歴は浅く人望ももとより軽く、いきなり節旄(節度使の印綬)を領させるのは妥当でないというものであった。議論は喧しくなり、拾遺李繁が独り「先日厳礪の任命があり、皆はこれを不当と考えていました。諫議大夫苗拯は『すでに三度上表して論じたが、まだ聞き入れられていない』と言い、給事中許孟容も『まことにその通りであれば、職務怠慢とは言えない』と言いました」と奏上し、さらに「李元素・陳京・王舒も皆苗拯・孟容の議論に立ち会っています」と述べた。
  • 上は三司使を遣わし問い質させた。苗拯は「実際に人々の中でかつて論奏したことがあると言ったが、三度とは言っていない」と述べた。李繁はこれに反論し続けたが、孟容らは「拯は実際には二度と言った」と述べた。拯は皆の証言に従うことを求めた。翌日、拯は万州刺史に、李繁は播州参軍に貶され、いずれも同正とされた。
  • 礪は在位中に貪欲で残虐、士民はその苦しみに堪えなかった。もとより鳳州刺史馬勛を憎み、誣告して賀州司戸に貶した。思うままに欲をほしいままにしたのは皆このような類であった。元和四年(809年)三月に卒した。卒後、御史元稹が両川へ使いして按察を行い、礪が在任中に不正蓄財した数十万を糾弾した。詔でその贓罪を追及したが、すでに死んでいたためその罪は許された。

史論

  • 史臣は言う。人に爵を朝廷で授けるのは民衆と共にするためであり、市中で人を刑するのは民衆と共に棄てるためである。崔寧を絞殺し厳礪を除いたことを見れば、当時の政治のありさまが分かり、輔弼の才もまた見て取れる。厳武は父の風を継がず母の教えにも背いた、すべて人の子たる者は戒めとすべきではないか。たとえ周公・孔子の才があってもそれだけでは称するに足りないのに、まして放埓な者ならなおさらである。郭英乂が政を失いその死を招いたのは当然であり、厳震が功を立てその道が顕彰されたのはもっともなことである。

  • 賛して言う。郭英乂は政を失い、崔寧は身を廃した。嚴武は士人の子でありながら道を誤り、嚴震は純臣として身を全うした。