厳正な人事管理
- 盧従願は相州臨漳の人、後魏の度支尚書盧昶の六代孫。范陽から移り住み代々山東の名族であった。明経に及第し絳州夏県尉を授かり、さらに制挙に応じ右拾遺を拝した。まもなく右粛政監察御史に遷り山南道黜陟巡撫使を兼ね、使命が旨に適い殿中侍御史を拝した。中書舎人に累進した。
- 睿宗即位後、吏部侍郎を拝した。中宗の後、選司の綱紀が乱れていたのを従願が精密に整理し、大いに公平と称された。名前を偽って選に応じたり功績を水増ししたりする不正を悉く見抜いた。選事を六年司り、これほどの実績を上げた者は前後になかった。玄宗はこれを嘉し、子一人を太子通事舍人に任じた。従願は上疏して父への恩贈を願い、父の吉陽丞敬一に鄭州長史が追贈された。かつて高宗の時、裴行倹・馬載が吏部を司り最も称職とされたが、従願はこの頃李朝隠と共に選事を司り美誉を得た、時人は「吏部は前に馬・裴あり、後に盧・李あり」と称した。
- 開元四年、玄宗が新任の県令を悉く召し殿庭で策試させ、成績下位の者を悉く帰農させた際、従願は人材を誤ったとして豫州刺史に左遷された。政は厳格簡潔で按察使の奏課で天下第一等となり、璽書で労われ絹百匹を賜った。まもなく工部侍郎として入朝、尚書左丞に転じた。楊瑒・吏部侍郎裴漼・礼部侍郎王丘・中書舎人劉令植と共に『開元後格』の刪定にあたり、中書侍郎に遷った。十一年、工部尚書を拝し銀青光禄大夫を加えられ東都留守を命じられた。十三年、泰山への従駕に加わり金紫光禄大夫を加えられ韋抗に代わり刑部尚書。しばしば京外官の考課使を兼ね、いずれも公正と評された。
- 御史中丞宇文融が恩寵を頼みに、田戸の検括の功で自らの考課を上上とするよう求めた際、従願はこれを抑えて与えなかった。融はこれを深く恨み、従願が良田を百余頃も広く占有していると密奏した。のち玄宗が宰相にふさわしい人材を選ぶ際、従願を推す者があったが、玄宗は「従願は田園を広く占有している、清廉とは言えない」と述べ登用を止めた。従願はまた早朝の途中で何者かに矢を射かけられ従者に当たったが、犯人は捕らえられなかった。当時、従願が長く選司にあったため恨みを買ったのだろうと噂された。
- 十六年、東都留守。子の起居郎が官への米売却で不正利益を得た事件に連座して憲司に糾弾され絳州刺史に出、太子賓客に再遷した。二十年、河北で穀物が高騰した際、宣撫処置使として倉を開き飢民を救った。使命を終えると老齢を理由に致仕を願い出、吏部尚書を拝し致仕を許され全俸禄を給された。二十五年卒去、享年七十余、益州大都督を追贈され諡は文。