舊唐書卷一百〇九 列傳第五十九 李嗣業

安西での武功

  • 李嗣業は京兆高陵の人。身長七尺、壮勇比類なかった。天宝初、募集に応じ安西に至り度々戦闘を経験した。当時諸軍が初めて陌刀(長刀)を用い始めていたが、嗣業がこれを最も巧みに用いると称された。常に隊頭として臨むと必ず敵陣を陥落させた。節度使馬霊察はその勇健さを知り出師のたびに嗣業を用いた。中郎将に累進した。
  • 天宝七載、安西都知兵馬使高仙芝が詔を奉じ全軍を統率し勃律を征討する際、嗣業と郎将田珍が左右の陌刀将に選ばれた。当時吐蕃は十万の衆を娑勒城に集め山を背に水を頼み崖谷を塹壕とし木を編んで城を築いていた。仙芝は夜、軍を率いて信図河を渡り城下に迫った。仙芝は嗣業と田珍に「正午までにこの賊を破らねばならない」と告げた。嗣業は歩兵に長刀を持たせ進ませ、山頂から雷石が空を覆って降り注ぐ中、嗣業は独り一旗を掲げ絶険の地を先登し、諸将もこれに続いて一斉に登った。賊は漢軍の突然の到来に備えがなく大潰走、渓谷を埋め投身して溺死する者が十のうち八九に及んだ。長駆して勃律城に至り勃律王と吐蕃の公主を捕らえ、藤橋を切って三千の兵で守った。これにより払菻・大食など諸胡七十二国が唐に帰順し辺境で朝貢を捧げるようになった、これも嗣業の功であった。この功により右威衛将軍を拝した。

西域遠征と怛羅斯の戦い

  • 十載、石国平定にも従い、九国の胡と背反した突騎施を破った際、跳蕩(決死の突撃隊)の功により特進を加えられ本官も兼ねた。以前、仙芝は石国王に和好を約束すると偽り兵を率いて急襲・撃破し老弱を殺し壮丁を捕虜とし金宝・瑟瑟・駝馬などを奪った、国人は号泣し、石国王を捕らえ闕下に献上した。その子は難を逃れ諸胡国に訴えた。諸胡はこれに憤り大食(アッバース朝)と結んで四鎮への攻撃を図った。仙芝は恐れ二万の兵を率いて胡地深く進み大食と交戦、仙芝は大敗した。折しも夜になり両軍が引くと、仙芝の軍は大食に殺され残ったのは数千に過ぎなかった。
  • 事態が窮まると嗣業は仙芝に「将軍は胡地深く入り後方の救援も絶たれています、今大食は戦勝し諸胡もこれを知り必ず勝ちに乗じて漢に対抗する勢力を結集するでしょう、もし全軍が没すれば嗣業と将軍も共に賊に捕らわれ、誰が主上に報告するのですか、白石嶺を急ぎ守り早く脱出を図るべきです」と述べた。仙芝は「お前は戦将だ、私は残兵を集めて明日再び戦い一勝を期したい」と答えたが、嗣業は「愚者の千慮にも一得はある、これほど危険な状況では固執すべきではない」と強く進言し、仙芝はこれに従った。
  • 道は狭く人馬は数珠つなぎになって逃げた。折しも跋汗那の兵が先に逃げ、人と駝馬が道を塞いで前進できずにいた。嗣業は大棒を持って先頭に立ちこれを打ち払い、人馬は次々と倒れた。胡兵が逃げ道が開けたことで仙芝は難を逃れた。仙芝はこの功を上表し、嗣業は驃騎左金吾大将軍を加えられた。

安禄山の乱での戦功

  • 禄山が反し両京が陥落した際、皇帝は霊武にあり嗣業を行在所へ召した。嗣業は安西から万里の道を統率し軍紀は厳粛で通過した郡県では一切略奪しなかった。鳳翔で謁見した際、皇帝は「今日卿を得たことは数万の兵に勝る、事の成否は真に卿にかかっている」と述べた。嗣業は郭子儀・仆固懐恩らと常に協力し前軍の将として先鋒を務め、大棒を持って突撃するたびに賊軍は総崩れとなり向かうところ敵なしであった。
  • 至徳二年九月、嗣業は広平王に従い京城を回復し、香積寺の北で賊と大戦、西は灃水に拠り東は大川に臨む十里にわたり軍容は途切れなかった。嗣業は鎮西・北庭支度行営節度使として前軍を、朔方右行営節度使郭子儀が中軍を、関内行営節度王思礼が後軍を務めた。戈と鼓の音が山野に轟き、賊軍数里手前で長陣を敷いて待ち構えた。賊将李帰仁が初め精鋭で挑発を繰り返し、我が軍は矢を集中させて追ったが、賊の大軍が到来し追撃した我が騎兵が営に突入され軍中は混乱した。
  • 嗣業は郭子儀に「今日の事、身をもって賊を防ぎ陣で決戦しなければ、万死の中に一生を望むしかない、さもなければ我が軍は一人も残らないだろう」と述べ、衣を脱いで肌を露わにし長刀を執って陣前に立ち大声で叫んだ。嗣業の刀を受けた者は人馬ともに砕け、十数人を斬ると陣容がようやく落ち着いた。前軍の兵士も皆長刀を執って出撃し壁のように進んだ。嗣業が先陣を切って奮戦し向かうところ皆倒れた。この時、賊は既に営の東に伏兵を置いていたが偵察でこれを知った元帥広平王は回紇の精鋭を分けて伏兵を撃たせ、賊将は大敗した。嗣業は賊営の背後に出て回紇と合流、表裏から挟撃し、午から酉の刻まで戦って六万の首級を挙げ溝壑に落ちて死んだ者は十のうち二三に及んだ。
  • 賊将張通儒・安守忠・李帰仁らは残兵を収め東へ逃げ陝郡を守った。安慶緒はさらに厳荘に数万の兵を率いさせ陝で通儒らを助け官軍を防がせた。広平王・郭子儀・王思礼らの大軍は陝西に陣を構えた。嗣業は子儀と共に新店で賊と遭遇し力戦、数合戦ったが我が軍は初め勝ちながら後に敗れ、嗣業は急ぎ応援に駆けつけた。回紇が南山からこの敗戦を望み白旗を掲げて下り賊の背後に回り込み陣を貫いたところ、賊陣の西北角がまず崩れた。嗣業もさらに精騎を率いて前撃、表裏から一斉に進み賊軍は大敗し河北へ逃げた。子儀はこれにより東都を回復した。嗣業は功により開府儀同三司・衛尉卿を加えられ虢国公に封じられ実封二百戸を賜った。

相州での戦死

  • 乾元二年、諸将が共に相州を包囲した。この時、堤を築いて漳水を引き城を水攻めにしたが、一月余り経っても陥落しなかった。当時軍には統帥がなく諸将はそれぞれ自らの保身を図り兵に闘志がなかった。賊が出撃するたびに嗣業は堅牢な鎧を纏い突撃し刃を冒して戦ったが、流矢を受けた。数日後、傷が癒えかけ帳中に横たわっていたところ、突然鐘鼓の音を聞き大声で叫んだところ、傷口から数升の血が地に流れ出て卒去した。
  • 皇帝はこれを聞き震え悼み長く嘆惜し、詔で「危難に臨んで身を忘れることは臣たる者の大節、功を思い贈位を加えることは経国の常典である、故衛尉卿・兼懐州刺史・充北庭行営節度使・虢国公李嗣業は、操を堅く沈着に保ち忠烈な心を秉り、時を助ける勇略と難を戡定する遠謀を備えていた、長く辺境に仕え様々な任務を担った、凶徒が乱を起こし中夏が不安になって以来、感激の誠を持って驍果の衆を率い自ら矢石に当たり度々勲功を立てた、その壮節は嘉すべく、百勝を謀ろうとしていたのに忠誠を果たせず九泉の下で恨むのみである、その功を思うに深く憫悼する、王事に死んだ以上、礼として加えるべきものがある、裂土の封を贈り終わりを飾る義を広めるべきである、武威郡王を追贈する、賻贈および葬儀は所司に常式の倍で処理させ、官が霊柩を給し出身地へ送らせよ」との詔が下り、子の佐国がその官爵を継ぎ実封二百戸を食んだ。