剛直な諫言
- 韓休は京兆長安の人。伯父の大敏は則天初に鳳閣舎人となった。梁州都督李行褒が部下に謀反を誣告された際、則天は大敏に州へ赴いて糾明させた。ある者が「行褒は皇族の近親、太后は除きたいと考えている、旨に逆らえば禍が及ぶ」と忠告したが、大敏は「自分の安全のために罪なき者を陥れられようか」と述べ冤罪を晴らして奏上した。則天はのち御史に再調査を命じ罪を捏造させ、大敏は反逆を知りながら告発しなかった罪に問われ自宅で賜死された。父の大智は洛州司功に至った。
- 休は早くから文才があり、初め制挙に応じ桃林丞を授かり、さらに賢良に挙げられた。玄宗が東宮にあった頃、国政について親問した際、休は校書郎趙冬曦と共に対策で乙第となり左補闕に抜擢された。まもなく主爵員外郎を判じ、中書舎人・礼部侍郎・知制誥を歴任、虢州刺史に出た。虢州は両京の間にあり天子の往来に際し支税草を近廐に納めさせられていたが、休はこれを他州に均等配分するよう奏請、中書令張説は「虢州だけを免ずれば負担が他郡に移る、刺史が私恩を施すべきではない」と反対したが、休は僚吏の「再度奏すれば執政の意に逆らう」との忠告に対し「刺史として百姓の弊を救えなければ何のための政か、逆らって罪を得ても構わない」と述べ、再度奏上して免除を勝ち取った。母の喪により職を退き、喪明けの後、工部侍郎・知制誥、尚書右丞に遷った。
宰相拝命と剛直な諫諍
- 開元二十一年、侍中裴光庭が卒去した際、玄宗は蕭嵩に光庭の代わりとなる人材を推挙させ、嵩は休の志行を高く評価し、休は黄門侍郎・同中書門下平章事を拝した。休は性質剛直で出世を求めない人柄で、その任官は当時の期待に叶うものだった。
- ある時、万年尉李美玉が罪を得て嶺外への流罪となった際、休は「美玉は微官で罪も大したものではない、朝廷には大姦がいてなお除けずにいる、小を取って大を捨ててよいのか。金吾大将軍程伯献は恩寵を頼みに至る所で貪欲な振る舞いをし、邸宅・車馬も分を超えている。伯献を先に処分してから美玉の罪を問うべき」と進言、玄宗は初め許さなかったが休は「美玉のような微細な罪すら容れないのに伯献のような巨悪を問わないのか、伯献を処分しなければ美玉の流罪の詔を奉じない」と強く争い、玄宗はその率直さに従った。
- もともと蕭嵩は休が柔和で御しやすいと考え推薦したが、休は知政事となると嵩の判断を多く正し、両者は不和となった。宋璟はこれを聞き「韓休がここまでやるとは思わなかった、仁者の勇である」と評した。
- その年の夏、銀青光禄大夫を加えられ、十二月、工部尚書に転じ知政事を罷免された。二十四年、太子少師に遷り宜陽子に封じられた。二十七年、病没、享年六十八、揚州大都督を追贈され諡は文忠。宝応元年、太子太師を重ねて追贈された。
韓休の子ら
- 子の洽・洪・汯・滉はいずれも学問を尊び品格高雅であった。洽は天宝初、殿中侍御史として卒去。洪は司庫員外郎。洽の弟渾は大理司直に除された。御史大夫王鉷が法を犯し家財を没収された際、洽の兄浩は万年主簿としてその資財を捕収する中で一部を見逃したことが京兆尹鮮于仲通に発覚し循州に流された。洪・汯も連座して降格されたが、のち恩赦で洪は華州長史に量移された。
- 安禄山の乱で西京が陥落した際、洪は賊に捕らわれ賊の官を授けられそうになったが、浩・汯・滉・渾と共に山谷に逃れ行在(玄宗の避難先)に赴こうとした。谷口で洪・浩・渾と洪の子四人が賊に捕らえられ通衢で処刑された。洪は交友を重んじ当時名声高く、見る者は皆涙した。粛宗はこれを聞き重臣の子が忠義に殉じたとして太常卿を追贈、浩には吏部郎中、渾には太常少卿が追贈された。汯は上元中に諫議大夫。滉・洄には別に伝がある。