太学生から兵論の上書へ
- 宋州宋城の人。本名は真宰、則天の母の号を避けて改名。太学生として倜儻な気概を持ち推挙を求めず不遇な年月を過ごした。左史江融の『九州設険図』(古今の用兵成敗を記した書)をその術ごと伝授された。儀鳳中、吐蕃の頻繁な侵犯に対し洛陽で封事を上呈し、用兵の巧拙を論じた。
- 第一の上書は、文武の道は帰するところ一つであり、弓馬のみを重んじ権略を問わない武人や、篇章のみを重んじ経綸を問わない文人の風潮を批判し、魏晋の清談(何晏・王衍)が国事に益さなかった例、陸機の『弁亡論』が河橋の敗を救えなかった例を挙げた。才は時代が求めれば必ず生まれるものだとし、班超・祖逖の故事、韓信・魏延が当初侮られた例、漢文帝が魏尚・李広の才を活かしきれなかった例、晋の羊祜が呉平定の策を賈充・荀勗に阻まれた例を引き、内外の文武五品以上を歴訪し埋もれた人材を登用するよう求めるものであった。
- 第二の上書は、経略の術は英才に頼るとし、李靖・侯君集・蘇定方・李勣ら唐の名将の功業を挙げ、良将の可否が辺境の安否を決めることを、趙充国・馬援らの例、北斉段孝玄の「大兵を持つのは盤の水を捧げるようなもの」との言、周亜夫・司馬懿が戦わずして勝った例で説いた。当時の朝廷が将門の子弟のみを登用する慣行を批判し、後漢の馬賢・宋の王玄謨の失敗を予見した皇甫規・沈慶之の例、陳湯・呂蒙ら貧賤から身を起こした名将の例を挙げ、身分によらず人材を抜擢すべきと説くものであった。
- 第三の上書は、賞罰は軍国の綱紀であるとし、薛仁貴・郭待封が吐蕃討伐に失敗しながら罰せられず、むしろ財貨を貪っている実態を批判し、賞罰の不信が士気を損なうことを、商鞅の移木・曹操の割髪の故事や貞観年間の司馬玄景・張君乂の厳正な処断の例を引いて説くものであった。
- 高宗はこれらを高く評価し秘書省正字・直中書省・仗内供奉を授け、まもなく監察御史に任じた。
徐敬業討伐の功と酷吏の獄
- 文明年、殿中侍御史。徐敬業が揚州で挙兵した際、左玉鈐衛大将軍李孝逸の討伐軍を監督する任を受けた。孝逸が敬業の勢いを恐れ進軍をためらった際、元忠は「朝廷が公に閫外の任を委ねたのは天下の安危がこの一戦にかかっているからだ、進軍しなければ他将に代わられ逗撓の罪を問われる」と説き、孝逸は進軍を決意した。
- 敬業の弟敬猷を先に討つべきか本隊を討つべきかの議論では、諸将が敬業本隊先攻を主張する中、元忠は敬猷軍の弱兵から各個撃破すべきと説き、これが功を奏して敬猷を破った。敬業との対陣で前軍が敗れ孝逸が退却を考えた際、烏の群れが陣上で騒ぐのを吉兆とし、風向きに乗じた火攻めを進言して敬業討伐を果たした。この功で司刑正、洛陽令に累進。
- 周興の獄に連座し刑場に引かれたが、敬業討伐の功により死一等を減じ貴州配流とする勅が届いた。刑場に赴いた際、勅の真偽を確かめるまで動じなかった態度が称賛された。聖暦元年、侍御史・御史中丞に累進したが来俊臣・侯思止に再び陥れられ嶺表に流された。復帰後、御史中丞に戻り、前後三度流刑に遭いながらも人々はその無実を称えた。則天が「なぜたびたび讒言を受けるのか」と問うと、元忠は「臣は鹿のようなもの、羅織する者は猟師で臣の肉を欲しがるだけだ、彼らは臣を殺して出世を図る、臣に何の罪があろうか」と答えた。
宰相として張易之と対立
- 聖暦二年、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事・検校并州長史。まもなく銀青光禄大夫・左粛政台御史大夫・検校洛州長史となり、清厳な政で知られた。奉宸令張易之の家奴が百姓を凌虐した際、これを笞殺し権豪から畏憚された。突厥・吐蕃の侵犯にはたびたび大総管として拒み、重厚に守りを固め敗れることはなかった。
- 中宗が東宮にあった頃、元忠は検校太子左庶子。張易之・昌宗の権勢が増す中、元忠は則天に「小人が君側にいるのを許すのは臣の罪」と奏し、易之らの怒りを買った。則天の病中、易之らは元忠と司礼丞高戩が「主上は老いた、太子を擁して天下に令すべき」と謀反を企てていると讒言し、則天は元忠を投獄して太子・相王・宰相を集め対質させた。易之が鳳閣舎人張説に元忠を陥れる証言を求めたが、説は当初偽って承諾したものの則天の前で元忠の無実を証言した。則天は元忠が誣告されたことを悟りつつも易之への配慮から端州高要尉に貶した。
- 中宗即位当日、元忠は駅伝で召され衛尉卿・同中書門下三品、旬日で兵部尚書。まもなく侍中・検校兵部尚書。則天崩御後、中宗の諒闇中、数日にわたり軍国の大政を独りで委ねられた。まもなく中書令・光禄大夫・斉国公・監修国史。神龍二年、武三思・祝欽明・徐彦伯・柳沖・韋承慶・崔融・岑羲・徐堅らと『則天皇后実録』二十巻を撰し、あわせて文集百二十巻を編纂して奏上、中宗は称賛し物千段を賜り子の升に任城県男を封じた。しかし再び宰相となってからは権豪に阿り寒門の俊才を退けるようになり、善悪を明らかにせず政事に励まなかったことを世に軽んじられた。四年秋、唐休璟に代わり尚書右僕射・中書令・兵部尚書事・監修国史。帰郷し墓参する際、中宗から錦袍・銀千両・千騎四人を賜ったが、元忠は銀を私蔵し施しをせず、それでも帰還時には白馬寺への出迎えを受けるなど厚遇された。
晩年、非業の最期
- 安楽公主が節愍太子を廃し自らを皇太女に立てるよう私かに求めた際、中宗が元忠に問うと元忠は固く不可と答えこれを止めさせた。まもなく左僕射。元忠は武三思の専権を憎み誅殺を企てていたが、景龍三年秋、節愍太子が兵を挙げて三思を誅した際、元忠と左羽林大将軍李多祚らも密かに関与した。太子が三思を斬った後、韋皇后廃立を求めて宮闕に迫った際、元忠の子太僕少卿升が永安門で太子軍に協力したが、玄武楼下で多祚らが逡巡し元忠も態度を明確にしなかったため事は成らず、升は乱兵に殺された。中宗は元忠の討逆の功と高宗・則天からの厚遇を鑑み升の連座を問わず処遇を変えなかった。
- 三思の残党兵部尚書宗楚客・侍中紀処訥らが元忠と升の謀反関与を訴え三族誅滅を求めたが中宗は許さなかった。元忠は不安から致仕を願い出て特進・斉国公として家に致仕し朔望のみ朝することとなった。楚客らは右衛郎将姚庭筠を御史中丞に仕立てて元忠を弾劾させ渠州員外司馬に貶した。侍中楊再思・中書令李嶠は楚客に迎合したが、中書侍郎蕭至忠のみが寛宥を主張した。楚客はさらに給事中冉祖雍・楊再思を通じて内地官不可を奏させ思州務川尉に左遷、御史袁守一には則天の三陽宮病臥時に元忠が中宗の監国に反対したとの旧事を持ち出させて厳誅を求めたが、中宗は「狄仁傑が私恩を樹てただけで元忠に落ち度はない、袁守一が旧事を捏ね上げるのは道理に合わない」として退けた。元忠は流謫の途上、涪陵で卒した、年七十余。
- 景龍四年、尚書左僕射・斉国公・本州刺史を追贈され霊輿で郷里に送られた。睿宗即位後、定陵への陪葬が命じられ、景雲三年の詔で晩年の左遷が不当であったことを認め子の著作郎晃に実封百戸を還した。開元六年、諡は貞。二子は升・晃。