酷吏政治への諫言と論説
- 字は少連、亳州永城の人。代々孝義で称えられ、周から唐まで三代にわたり表彰され門に六闕を標した。倜儻で節義を重んじ、早くから文才で知られた。三従兄と同居し財産を共有し、左史江融・左僕射魏元忠と特に親しかった。咸亨中、高宗に召見されて奇才とされ登用されかけたが、中書舎人李敬玄に讒言され洹水尉に留まった。
- 長寿中、右補闕に累進。則天臨朝当初の流言・異論が収まった今こそ告密・羅織の風を絶つべきとして上疏した。趣旨は、秦の李斯の厳法が統一を成し遂げながらも変化を知らず滅んだ故事、漢の陸賈・叔孫通が馬上で天下を得ても馬上で治めることはできないと高祖を諭し礼楽で天下を安定させた故事を引き、革命当初の告密の制は非常時の便法にすぎず、今は法制を改め、告密・羅織の源を塞ぎ朋党の跡を掃うべきだと説くものであった。則天はこれを高く評価した。
- 長安三年、正諫大夫を経て同鳳閣鸞台平章事。御史大夫魏元忠・鳳閣舎人張説が張易之兄弟に誣告され重刑に処せられようとした際、他の宰相が誰も口を挟まぬ中、敬則だけが「元忠・張説は忠正で知られ、無実の罪で処罰されれば天下の望みを失う」と抗疏し、両者は死一等を減じられた。長安四年、老病により知政事を辞し冬官侍郎・修国史。張易之・昌宗が武三思や李嶠・蘇味道ら十八人の肖像を描かせ『高士図』と称した際、敬則にも参加を求めたが固辞し、その高潔さが知られた。
- 神龍元年、鄭州刺史に出てまもなく致仕。神龍二年、侍御史冉祖雍に王同皎との親交を誣告され廬州刺史に貶されたが、数か月後の交代の折には家財もなく馬一匹のみで子姪を歩かせて帰郷したという。信義を重んじ人を助けて見返りを求めず、三従兄との四十余年の同居でも財産の区別をしなかった。人物眼に優れ、その評価は後にことごとく的中したという。景龍三年五月、家で卒した、年七十五。
- 敬則は魏晋以来の君臣の成敗を論じた『十代興亡論』を著した。また前代の文士が秦の五等爵廃止を過失としたことに異を唱え、『五等論』を著した。要旨は、秦が周礼の郡県制への転換を図ったのは功臣・骨肉を軽んじたためではなく、封建の弊害(春秋以来の礼義の頽廃、詐術・攻戦の横行)を踏まえた統治の必要からであったとし、漢の高祖が七国の乱を招いた例、後漢・魏の禅譲の経緯などを引きながら、封建と郡県それぞれの得失を論じるものであった。当時の識者はこれを是とした。
- 政事を執った際は人材登用を第一とし、桂州蛮の乱には裴懐古を、鳳閣舎人の欠員には魏知古を、右史の欠員には張思敬を推挙し、則天に人を知る者と評された。
- 睿宗即位後、神龍以来の功臣の名誉回復が話題になった際、吏部尚書劉幽求が敬則の忠貞義烈を挙げ、神龍時に宗楚客・冉祖雍に誣告され廬州刺史に左遷されたこと、長安年中に相王(睿宗)の即位を予見し尽力を誓っていたことを奏上した。睿宗はこれを是とし、敬則に秘書監を贈り諡を元とした。