舊唐書卷八十八 列傳第三十八 韋思謙

出自と生い立ち、官歴の始まり

  • 鄭州陽武の人。本名は仁約、字は思謙。則天の父の諱と音が通じるため字を用いて称した。先祖は京兆から南に移り襄陽に住んだ。進士に及第し応城令などを経て、久しく人事に恵まれなかったが、吏部尚書髙季輔の推挙で監察御史に抜擢され知られるようになった。
  • 「御史は都を出て山嶽を揺るがし州県を震撼させずば職務怠慢である」と語った。中書令褚遂良が中書省の訳語人の邸宅を安値で買い占めた不正を弾劾し、遂良は同州刺史に左遷された。遂良復権後は思謙は昇進できず淸水令に出されたが、「己の性分では権力を持てば身の災いとなる、大丈夫たるものは正しく国恩に報いる」と語った。左肅機皇甫公義が沛王府長史検校となった際、思謙を同府倉曹に招き重んじた。累進して右司郎中。

御史大夫・宰相として

  • 永淳初、尚書左丞・御史大夫を歴任。武候将軍田仁会が侍御史張仁禕と不和で誣告した事件で、高宗臨席の場で仁禕が弁明に窮した折、思謙が事情を弁護し高宗は深く納得した。思謙は憲司にあって王公にも拝礼せず、「耳目の官は独立すべきである」と語った。左丞拝命の際「陛下が官のために人を選ぶ以上、美錦を惜しまず臣に裁たせるのは陛下が臣を深く知る証」と奏上し、綱紀を振起して朝廷は粛然となった。
  • 則天臨朝後、宗正卿から官名改訂で司属卿、光宅元年の左右粛政台設置に伴い右粛政大夫。大夫は従来御史と対等の礼を交わしたが、思謙は独り座して拝を受けた。垂拱初、博昌県男の爵を賜り鳳閣鸞台三品に進む。二年、蘇良嗣に代わり納言。三年、老いを理由に致仕を願い出て許され太中大夫を加えられた。永昌元年九月、家で卒し幽州都督を贈られた。二子は承慶・嗣立。

韋承慶――諫言と文才、宰相への道

  • 字は延休。継母によく孝を尽くした。若くして進士に及第し雍王府参軍。文才に優れ府中の文翰を一手に担った。太子司議郎に進む。儀鳳四年五月、皇太子李賢の監国にあたり、太子が声色に近く宦官らと馴れ合うのを見て諫言の上書をした。趣旨は、太子は国の根本であるのに、近年の水旱による民の困窮を顧みず、宮中で不断の造作・伎楽の費えを重ね、宦官らが恩寵をかさに権勢を振るう危うさを説き、経書を博覧して声色を退け、倹約と非礼を為さぬことを求めるものであった。太子はこれを喜び厚く物を賜った。また『諭善箴』を著して太子に献じ、『霊台賦』も撰した。
  • 調露初、東宮廃止で烏程令に出て善政を行った。長寿中、鳳閣舎人を経て天官選事を兼掌。文章は速筆で、軍国の大事にも草稿なしに書き上げた。大臣の意に逆らい沂州刺史に出されたが、間もなく旧職に復し天官選事を掌った。病により太子諭德に改まり、豫・虢等州刺史を歴任し治績が制書で褒められた。長安初、司僕少卿から天官侍郎に転じ修国史を兼ねた。三度天官選事を掌り公正な人事で海内に知られた。鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に進み修国史を兼ねた。
  • 神龍初、張易之の弟昌宗への推薦が不実であった罪に連座し嶺表へ配流された。易之らが誅殺されると承慶は自ら罪を待ったが、赦免の詔書を起草する任にふさわしい者として召され、文辞優れた詔を書き上げ皆感服した。辰州刺史に起用されたが赴任せず秘書員外少監となり修国史を続けた。『則天実録』編纂の功で扶陽県子の爵と物五百段を賜り、『則天皇后紀聖文』を撰して中宗に称賛され銀青光禄大夫を加えられた。黄門侍郎を拝命したが赴任前に卒した。中宗は深く悼み、弟の相州刺史嗣立を召して葬儀を執り行わせ、黄門侍郎を継がせた。秘書監を贈られ諡は温。子の長裕は膳部員外郎。

韋嗣立――学校・刑法を諫める

  • 承慶の異母弟。母王氏は承慶に厳しく罰を与え、嗣立はそのたび身代わりを願い出て密かに自ら杖を受けたといい、晋の王祥・王覧の故事に比された。進士に及第、雙流令を経て蜀中随一の治績を挙げ、萊蕪令に三遷した。承慶が病で鳳閣舎人を退いた折、則天に召され「お前の父はかつて二人の息子が忠孝を兼ね備えると言った、兄弟で職を交代せよ」と鳳閣舎人に任じられた。
  • 学校の荒廃と刑罰の濫用を諫める上疏をした。趣旨は、永淳以来二十余年、国学が久しく廃れ人材選抜がおろそかとなり、酷吏来俊臣らの専横で正直な者が処刑され冤罪が横行し、これが天変地異を招くとし、学校の再興と儒学の尊重、冤罪者の名誉回復・恩赦、刺史・県令の人選重視を求めるものであった。
  • 秋官侍郎を経て三度鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事。長安中、州県官吏の人選改善について則天と宰臣の議論があり、納言李嶠・夏官尚書唐休璟らが刺史選抜の重要性を訴える中、嗣立は自ら外任を志願し検校汴州刺史となった。
  • その後成均祭酒・検校魏州刺史、洺州刺史を経て承慶の罪に連座し饒州長史に左遷。太僕少卿・吏部選事を経て神龍二年相州刺史。承慶の死後、代わって黄門侍郎、太府卿、修文館学士。
  • 景龍三年、兵部尚書・同中書門下三品。中宗が寺観造営に耽り食封が濫発され国用が窮乏する状況を諫める上疏をした。趣旨は、備蓄なくして国は成り立たない、寺観造営の浪費と過度な殺生、食封家への過大な支給と侵擾、官の濫授による員外置官の増加を批判し、刺史・県令の人選を重んじるよう求めるものであった。上疏は聞き入れられなかった。
  • 韋皇后とは遠縁ながら中宗の特命で属籍に編入され厚遇された。驪山に別業を営み中宗が訪れて詩序を賜り絹二千匹を与え、逍遙公に封じた。韋氏の変で乱兵に害されかけたが寧王李憲に救われた。睿宗即位後、中書令を拝命したがまもなく許州刺史に出た。睿宗擁立の功で実封百戸を賜り、開元初、国子祭酒。中宗の遺詔改竄への関与を憲司に弾劾され岳州別駕に左遷、のち陳州刺史。河南道巡察使工部尚書劉知柔の推挙が届く前、開元七年卒。兵部尚書を贈られ諡は孝。中書門下の上奏により物百段を追贈された。
  • 嗣立・承慶は学識・徳行で並び称され、鳳閣舎人・天官侍郎・黄門侍郎の職を四度交代し、父子三人が宰相となった例は唐に他にないとされる。嗣立の三子は孚・恒・済で皆知名であった。孚は左司員外郎まで。恒は開元初碭山令として善政を行い、御史中丞宇文融の推挙で殿中侍御史に抜擢され、度支員外郎・太常少卿・給事中を歴任した。開元二十九年、隴右道河西黜陟使となり、河西節度使蓋嘉運の不正を弾劾しようとしたが陳留太守に転出し赴任前に卒した。済は早くから文才で知られ、開元初鄄城令。県令の考試で応試二百余人中の首席となり醴泉令に抜擢された。簡素な政治で評判となり、庫部員外郎から尚書戸部侍郎、太原尹を経て『先徳詩』四章を作り祖父・父の行いを述べた。天宝七載、河南尹から尚書左丞。三代にわたり尚書省の要職を務めたことは一族の栄誉とされた。のち馮翊太守。