舊唐書卷八十八 劉仁軌・郝處俊・裴行儉
劉仁軌・郝処俊・裴行儉の三名の合伝。劉仁軌は百済・高麗経略に功を立て晩年に宰相まで至った文武兼備の将、郝処俊は高宗に直言を重ねた剛直の臣、裴行儉は西域・突厥討伐で大功を立てながらも裴炎の讒言で降将処刑の責を負わされ不遇をかこった名将として描かれる。三者とも儒者の風格を備えた将・臣として史臣に高く評価される。
年表(24件)
- 武徳初任瑰の上表を添削し才を認められ息州参軍となった
- 貞観14年640年太宗の行猟を諫めた上表が容れられ新安令・給事中に昇進した
- 王文度没後帯方州刺史検校として新羅兵と百済の劉仁願包囲を解いた
- 高宗裁可後百済に留まり周留城攻略を主張し容れられた
- 顕慶4年659年青州刺史となる
- 白江口の戦い倭の水軍と4戦し舟400艘を焼いて大勝した
- 任存城陥落後黒歯常之らに糧仗を与え百済の残党を平定した
- 帰還後高宗に文才を評価され六階特進、帯方州刺史に正授された
- 麟徳2年665年泰山封禅に諸国使者を率いて参列し大司憲に抜擢された
- 乾封元年666年右相・太子左中護を兼ね楽城県男に封じられた
- 総章2年669年致仕を願い金紫光禄大夫となった
- 咸亨5年674年雞林道大総管として新羅を討ち公爵に進んだ
- 上元2年675年尚書左僕射・同中書門下三品となった
- 儀鳳2年677年李敬玄と不和になり洮河道行軍鎮守大使の起用を勧め失脚させた
- 永隆2年681年太子太傅を兼ね致仕を願い出て許された
- 垂拱元年685年文昌左相・同鳳閣鸞台三品となりまもなく84歳で薨去した
- 垂拱2年686年子の浚が酷吏に陥れられ処刑された
- 顕慶2年657年長安令となるが王皇后廃立に反対し西州都督府長史に左遷された
- 咸亨初吏部侍郎として李敬玄と選挙を主宰し長名姓暦榜等の法を定めた
- 麟徳2年665年安西大都護となり西域諸国を帰順させた
- 儀鳳2年677年波斯王子冊立を名目に西域へ赴き阿史那都支・李遮匐を降した
- その後反間の計で阿史那伏念を投降させたが裴炎の讒言で伏念は処刑された
- 調露元年679年定襄道行軍大総管として30余万を率い突厥阿史徳温傅の乱を討った
- 永淳元年682年金牙道大総管に任じられるが出発前に64歳で病没した
劉仁軌――出自と直言の士
- 劉仁軌は汴州尉氏の人。若くして恭謹で学を好み、隋末の混乱で師につけず、歩きながらも地面に字を書いて学び、文史に広く通じた。
- 武徳初、河南道大使任瑰の上表の草稿を勝手に添削し、瑰に才を認められ息州参軍に補任された。陳倉尉のとき、横暴な折衝都尉魯寧を戒めたが従わず、ついに杖殺した。太宗は当初怒ったが、対面してその剛正さに感心し櫟陽丞に抜擢した。
- 貞観14年(640年)、太宗の同州行猟に際し、収穫期であることを理由に諫めた上表が容れられ、璽書で「職は卑くとも誠を尽くす姿勢を嘉する」と労われ、新安令、給事中へと昇進した。
劉仁軌――百済再叛と籠城救援
- 顕慶4年(659年)青州刺史。5年、遼東出征で水軍統率が遅参し免官となるが白衣従軍を許される。蘇定方が百済を平定した後、統治にあたった王文度が病没し、百済の残党僧道琛・福信が扶余豊を王に擁立し劉仁願を包囲。仁軌は帯方州刺史検校として文度に代わり、新羅兵を合わせ救援に向かい包囲を解かせた。
- 福信が道琛を殺し勢力を伸ばす中、蘇定方の平壌攻めが失敗に終わり、高宗は仁軌に軍を新羅に引き上げさせるか判断を委ねた。仁軌は「大夫が国境を出た以上、社稷の安寧のために専断してよい」との『春秋』の義を引き、百済に留まり機を見て攻めるべきと主張し、これが容れられた。
- 真峴城を新羅兵とともに夜襲で落として糧道を確保。福信が扶余豊に殺されると、豊は高麗・倭国に援軍を求めた。孫仁師の援軍と合流後、諸将は加林城攻略を主張したが、仁軌は「賊の本拠である周留城をまず攻めるべき」と説き、これが採られた。
劉仁軌――白江口の戦いと百済平定
- 仁軌は杜爽・扶余隆とともに水軍と糧船を率い、白江口で倭の水軍と4戦し、その舟400艘を焼き払った。海水が赤く染まるほどの大勝で、扶余豊は逃走し宝剣を得た。偽王子扶余忠勝・忠志らと士女・倭兵・耽羅国使は一斉に降伏し、百済諸城も帰順。任存城に籠る遅受信のみ抵抗を続けた。
- 百済の旧首領沙吒相如・黒歯常之が福信に呼応していたが投降。孫仁師は彼らを信用せず武装を与えることに反対したが、仁軌は「彼らは忠勇の士で、機に応じて功を立てさせるべき」と主張し、糧仗を与えて任存城を陥落させた。遅受信は妻子を捨て高麗へ逃げ、百済の残党は平定された。
- 戦乱で荒廃した百済で、仁軌は遺骨の収拾埋葬、戸口の整理、官長の設置、道路・橋梁の整備、堤堰の修復、耕作の奨励、孤老の慰問を行い、屯田を営んで高麗経略に備えた。
- 京師に戻った劉仁願が高宗に「海東からの奏請はいずれも文理に優れる」と評されると、「これは劉仁軌の文である」と答え、高宗は仁軌を六階特進させ帯方州刺史に正授、京城の宅と厚い賜与を与えた。
劉仁軌――上表による軍制の改革要求
- 仁軌はさらに上表し、当時の兵募が老弱ばかりで士気が低い実情を訴えた。以前は自弁で従軍を望む者が多かったが、顕慶5年以降は戦死者への弔慰や勲位の記録が滞り、有力者は徴発を逃れる一方、無力な者だけが徴発され、勲功に対する褒賞も履行されないため、民が従軍を嫌うようになったと述べた。
- 晋の呉平定を例に、司令官の功を疑い罪に問おうとした賈充・王渾に対し武帝が張華を庇った故事を引き、高宗が百済・高麗経略を成し遂げるには内外一致した信賞が必要と説いた。この上表は聞き入れられた。
劉仁軌――西還後の栄達と晩年
- 劉仁願が交代のため渡海し、扶余隆が熊津都督として招撫にあたる中、仁軌は西へ帰還。出発前「天は自分を富貴にしようとしている」と語り、暦や七廟の諱を求めて「遼海を平定し朝廷の正朔を夷俗に示すため」と述べ、実際その通りとなった。
- 麟徳2年(665年)泰山封禅に新羅・百済・耽羅・倭の使者を率いて参列し大司憲に抜擢。乾封元年(666年)右相、太子左中護を兼ね、楽城県男に封じられる。3年、熊津道安撫大使兼浿江道総管として李勣とともに高麗を討ち、平定。総章2年(669年)病を理由に致仕を願い金紫光禄大夫。
- 咸亨元年(670年)隴州刺史、3年太子左庶子・同中書門下三品・監修国史。5年、雞林道大総管として新羅を討ち北方の七重城を破り、公爵に進み子姪3人も上柱国となった。
- 上元2年(675年)尚書左僕射・同中書門下三品。儀鳳2年(677年)吐蕃対策で洮河道行軍鎮守大使となるが、中書令李敬玄との不和から、敬玄の西蕃鎮守起用を勧めて失脚させようとし、敬玄は実際に吐蕃に敗れた。
- 永隆2年(681年)太子太傅を兼ね、致仕を願い出て許される。永淳元年(682年)高宗東都行幸に伴い皇太子輔佐、翌年皇太孫の副となる。則天臨朝後は特進・尚書左僕射・同中書門下三品として留守を専任するが、老衰を理由に呂后の禍を引いて諫め辞任を願うも慰留され、垂拱元年(685年)文昌左相・同鳳閣鸞台三品と改称、まもなく84歳で薨去。開府儀同三司・并州大都督を追贈され乾陵に陪葬、家に実封300戸を賜った。
- 仁軌は高位にあっても驕らず、貧賤時の旧友への態度を変えなかった。かつて陳倉尉であった頃、相人袁天綱に「終には台輔に位し年は90近くになるだろう」と言われ、後にその通りとなった。隋末の見聞を記した『行年記』を著した。
劉仁軌――子孫
- 子の浚は太子中舎人まで至ったが、垂拱2年(686年)酷吏に陥れられ処刑され妻子は没官された。中宗即位後、東宮の旧臣として太尉を追贈された。浚の子の冕は開元中、秘書省少監として仁軌のために碑を立てることを願い、諡を文献とされた。
- 史臣韋述は評す。世は劉仁軌(樂城)と戴至徳をともに「端揆(宰相)」と称したが、劉は甘言で人心を得、戴は正色で下を退け功を君に帰した。そのため劉の名声は今も残るが戴の功績は伝わりにくい。高名と深仁は必ずしも一致せず、劉が私憤で人を陥れたことは忠恕の道に反すると評した。
郝處俊――出自と剛毅な性格
- 郝処俊は安州安陸の人。父の相貴は隋末、妻の父許紹とともに硤州を挙げて唐に帰し滁州刺史・甑山県公となった。処俊は10余歳で父を喪ったが、故吏からの多額の贈物をすべて辞退した。長じて『漢書』を愛読しほぼ暗誦した。
- 貞観中、本州の進士挙で吏部尚書高士廉に才を認められ著作佐郎、甑山県公を襲爵。兄弟の仲は篤く、伯父叔父にも謹んだ。滕王友の職を恥じて辞し帰農するが、後に太子司議郎に召され吏部侍郎まで昇進、乾封2年(667年)李勣の浿江道大総管の副として遼東に赴き、危急の際も泰然と乾糧を食し将士の信頼を得た。総章2年(669年)東台侍郎、同東西台三品。
郝處俊――高宗への諫言
- 咸亨初、高宗の東都行幸に伴い皇太子の輔佐に留められた中、処俊のみ随行した。高宗が高麗僧の災異発言を誅殺しようとした際、処俊は「天の異変で君を戒めるもの、言った者を罪すべきでない」と諫め赦免させた。
- 高宗が秦法の寛厳を問うた際、処俊は魏の王修の故事を引き、「法が急なほど人は困窮し法を犯す。政は寛猛相済すべし」と説いた。胡僧の長生薬を高宗が服用しようとした際も、太宗が同様の薬で崩じた先例を挙げ諫止させた。
- 上元元年(674年)高宗が雍王賢と周王を東西二朋に分けて競わせる催しを企てた際、処俊は「童子に誇り合わせるのは義に反する」と諫め止めさせた。中書令に昇進し太子賓客・検校兵部尚書を兼ねた。
郝處俊――天后への摂政反対
- 高宗が風疹により譲位し天后に国事を摂知させようとした際、処俊は「天子は陽道、后は陰徳を治める」との礼経を引き、魏文帝の遺令や呂后の故事を挙げ、天下は高祖・太宗の天下であって私に外戚へ渡すべきでないと強く諫め、これを止めさせた。
- 儀鳳2年(677年)金紫光禄大夫・太子左庶子、4年侍中。倹素を旨とし、経籍を引いて朝政を論じ大臣の風格を備えた。舅の許圉師とともに「貴きは許・郝の如く、富めるは田・彭の如し」と江淮の人々に称された。
- 太子少保に転じ、開耀元年(681年)75歳で薨去。開府儀同三司・荊州大都督を贈られ、高宗は「学識ある一方、質素を貫いた」と深く惜しんだ。子の北叟は贈賜を辞退したが許されなかった。孫の象賢は垂拱中、太子通事舎人となるが事件に連座し処刑され、処俊も棺を斫られる刑に処せられた。
裴行儉――出自と長安令
- 裴行儉は絳州聞喜の人。曾祖伯鳳は周の驃騎大将軍・汾州刺史・琅邪郡公。祖父定高、父仁基は隋の左光禄大夫で王世充のもとで帰順を図り露見して害された。行儉は門蔭で弘文生となり明経挙で左屯衛倉曹参軍を拝命。蘇定方に用兵の奇術を伝授された。
- 顕慶2年(657年)長安令。高宗が王皇后を廃し武昭儀を立てようとした際、行儉は国家の憂患になると長孫無忌・褚遂良と私議したことが露見し、西州都督府長史に左遷された。
裴行儉――西域経略と選挙制度
- 麟徳2年(665年)安西大都護、西域諸国が帰順した功で司文少卿。総章中、司列少常伯。咸亨初、吏部侍郎として李敬玄とともに10余年選挙を主宰し「裴・李」と並称された。長名姓暦榜や銓注等の法を定め、州県の升降・官資高下の基準を作り故事となった。
- 書に優れ、高宗に絹百巻に『文選』を草書させ賞賛された。褚遂良を除けば自分と虞世南だけが筆墨を選ばず書けると語った。
裴行儉――波斯冊立と西域平定
- 儀鳳2年(677年)十姓可汗の阿史那匐延都支と李遮匐が吐蕃と結んで西域を脅かした際、行儉は「波斯王の子泥涅師を冊立するための使者を装って途中で対処すべき」と建議し採用された。莫賀延磧で嵐に迷った際、致祭すると水草の地が現れ全軍が悦服し貳師将軍に例えられた。
- 西州で豪傑の子弟千余人を募り、涼秋まで動かぬと偽って都支を油断させ、狩猟と称し数日で軍を整え倍道進撃。都支は500余騎で自ら降伏し、諸部酋長も次々降伏、遮匐も投降した。碎葉城で碑を立てて功を記した。
- 高宗は「西方を任せ、孤軍深入りしたが凶党を滅ぼした」と労い禮部尚書兼検校右衛大将軍を授けた。
裴行儉――突厥討伐の大功と冤罪
- 調露元年(679年)突厥阿史徳温傅の反乱に対し、定襄道行軍大総管として太仆少卿李思文ら合計30余万を率いる唐世最大規模の出師となった。蕭嗣業の糧車が略奪された故事を踏まえ、糧車に精兵を伏せる計で賊を大破し以後糧道を安全にした。夜、営地を高地に移させた直後の豪雨で全軍が感服した。黒山の戦いでも連戦連勝し偽可汗泥熟匐は部下に殺されその首が届けられた。
- 阿史那伏念が再び反乱するも、行儉は反間の計で伏念と温傅を仲違いさせ、伏念は密かに投降を申し出た。伏念は温傅を縛って軍門に降伏し突厥の残党を平定。しかし侍中裴炎が行儉の功を妬み、程務挺・張虔勗に「伏念は圧迫されて仕方なく降っただけ」と証言させ、行儉の功は認められず伏念・温傅は処刑された。行儉は「これは古今の恥、これでは今後降る者がいなくなる」と嘆き、病と称して出仕しなくなった。勲封として聞喜県公。
- 永淳元年(682年)十姓の偽可汗車薄の反乱に対し金牙道大総管に任じられるが出発前に64歳で病没。幽州都督・諡献を贈られ、中宗即位後さらに揚州大都督を追贈された。
裴行儉――著作と識人の才
- 『草字雑体』数万言を撰し、『選譜』10巻及び軍営配置・行陣統括・勝敗判断・器能識別の四十六訣を著したが、則天は秘書監武承嗣に命じてこれを密かに収めさせた。陰陽・算術に通じ人物鑑識に優れ、選挙を主宰する中で多くの人材を抜擢した。
- 楊炯・王勃・盧照鄰・駱賓王の四人を見て「才名はあるが官運は薄い、楊のみ令長までは至るだろう」と評し、蘇味道・王劇には「十数年で銓衡の任に就くだろう」と評したが、いずれも的中した。
- 引き立てた程務挺・張虔勗・崔智辯・王方翼・党金毗・劉敬同・郭待封・李多祚・黒歯常之らは皆名将となり、刺史・将軍に至る者数十人に及んだ。過失を犯した部下にも寛容で「お前たちが自分を軽んじたわけではない、皆過失に過ぎない」と咎めなかった。
- 都支・遮匐平定で得た珍宝を宴で披露した際、盤を落として割った軍吏を「わざとではない」と咎めなかった。少子の光庭は開元中、侍中となり恩例で行儉に太尉を追贈させた。
裴行儉――子光庭(附)
- 光庭は幼くして父を失い、母庫狄氏が則天に厚遇され太常丞に累遷。武三思の婿の縁座で左遷ののち開元初に右率府中郎将、司門郎中、兵部郎中と昇進。寡黙で交遊少なく、当初評価は低かったが、実務で信頼を得た。
- 開元13年(725年)泰山封禅に際し、張説が辺境警備強化を諮ると、光庭は「封禅の目的に反する。突厥への使者派遣で諸蕃を招くべき」と提案し採用され、鴻臚少卿、兵部侍郎、中書侍郎・同中書門下平章事、御史大夫、黄門侍郎、侍中兼吏部尚書、弘文館学士を歴任した。
- 『瑤山往則』『維城前軌』を撰上し、また『続春秋伝』の編纂を主導したが、李融に筆削を委ねたため完成しなかった。皇室を「金徳」とする改元論には反対し、旧来の説を守るよう上奏し議論を止めさせた。開元20年(732年)58歳で没し太師を追贈された。
- 光庭は蕭嵩と権を争って不和であり、吏部で循資格を定めて選限を厳格化したが、死後蕭嵩がこれを廃止し光庭が引き立てた人材は皆外職に出された。太常博士孫琬が循資格を理由に諡「克」を提案したが、皇帝は蕭嵩の意を汲んだものとして退け、諡を忠献とし張九齢に碑文を書かせた。
- 史官韋述はこの改諡を批判し、『春秋』の義や漢魏の贈号の例を引き、光庭が守法の吏に過ぎず宰相位を得たのに師範の号まで贈られたのは過分であると論じた。
史論
- 史臣は評す。晋侯が将帥を選ぶのに礼楽詩書を重んじたのには理由がある。権謀方略は国家存亡に関わるため、粗暴な力自慢に軽々しく任せられない。王猛・諸葛亮が窮巷から身を起こして覇業を成したのも智力の権変が用に適ったからである。劉仁軌(樂城)・裴行儉(聞喜)は文雅な方略を備え、儒将の雄というべきである。則天の摂政期、酷薄な世相の中で二人は諂わず正しい言を発した。裴光庭(正平)も吏能と学識に優れたが、旧史が「循資格」を理由に貶めたのは陳寿が諸葛亮の応変を短所とした論と似て公平を欠く。
讚曰:殷の伊尹、周の呂尚のように、王者の兵は儒者の将による。劉仁軌・裴行儉は当仁不譲、管仲・諸葛の議論こそ我が心の規範である。