舊唐書卷八十七 郭孝恪・張儉・蘇定方・薛仁貴・程務挺・張士貴・趙道興

郭孝恪・張儉・蘇定方・薛仁貴・程務挺・張士貴・趙道興の七将の合伝。隋末の動乱で身を起こし、唐の統一戦争や対突厥・対高麗・対百済・対西域の征討で数々の武功を立てた将帥たちの事跡を記す。郭孝恪は西域経略の途上で戦死し、薛仁貴は大非川で大敗しながらも晩年に功を回復した。張儉・蘇定方の一族は功名を全うし、程務挺は宮廷の政変に巻き込まれて非業の死を遂げるなど、栄達と悲運の対照が描かれる。

年表(30件)
  • 隋末数百人を率い李密に帰属、汝潁の奇士と喜ばれた
  • 李密敗北後唐に帰順し陽翟郡公・宋州刺史となる
  • 竇建德来援時青城宮で太宗に武牢固守の策を献じ採用された
  • 王世充平定後洛陽で太宗に竇建德捕獲策の功を称えられた
  • 高昌滅亡後焉耆王討伐を上奏し夜襲で王を捕虜とした
  • 焉耆討伐後昆丘道副大総管として亀茲を討ち都城を落とすが夜襲を受け戦死、子の待詔も戦死
  • 高宗即位後安西都護・陽翟郡公を追贈された
  • 貞観16年642年金紫光禄大夫・安西都護・西州刺史となる
  • 咸亨年間(頃)670年次子待封は薛仁貴と吐蕃を討つが大非川で敗れ除名された
  • 大業末父とともに郷里数千人を率い賊将張金称らを討った
  • 竇建德敗死後劉黒闥・高雅賢没後、郷里に帰った
  • 貞観初李靖に従い磧口で頡利可汗の牙帳を急襲し降伏させた
  • 永徽中程知節の前軍総管として鷹娑川で突厥を破るが王文度に功を妬まれた
  • 翌年行軍大総管として金山北で処木昆部落を破り懶独禄を降した
  • 同年賀魯の10万を大破し伊麗水で追撃、蕭嗣業が賀魯を捕らえた
  • 功により左驍衛大将軍・刑国公に封じられた
  • 都曼反乱時1日1夜300里を急行し馬頭川で都曼を降伏させた
  • 顕慶5年660年熊津道大総管として百済を平定し義慈王らを捕らえた
  • 乾封2年667年76歳で没し幽州都督・諡莊を贈られた
  • 貞観末太宗の遼東親征に従軍し安地で活躍し名を知られた
  • 同時期安地城で先陣を切り太宗に召見され遊撃将軍に抜擢された
  • 蘇定方の討伐時泥熟の妻子救出を上疏し高宗に容れられた
  • 永徽5年654年万年宮の洪水急報で高宗を避難させ御馬を賜った
  • 翌年横山で高麗の温沙門を破り黒山で契丹王阿卜固を捕らえ河東県男に封ぜられた
  • 九姓突厥討伐時「将軍三箭定天山」と歌われるほど九姓突厥を平定した
  • 顕慶2年657年程名振の副として遼東で高麗を破り3000級を斬った
  • 同時期2000人で扶余城を攻略し李勣と平壌で合流、劉仁軌と平壌に駐留した
  • 乾封初年666年泉男生を後援し金山の戦いで5万余級を斬った
  • 咸亨元年670年邏娑道行軍大総管として吐蕃を討つが大非川で大敗し除名された
  • 開耀元年681年再起用され雲州で突厥元珍らを撃ち、その年70歳で病没した

郭孝恪――出自と李密への帰属

  • 郭孝恪は許州陽翟の人で、若くして志節を持っていた。隋末、郷里の数百人を率いて李密に帰属し、李密に「汝潁の地に多く奇士がいるというのは誤りではなかった」と喜ばれ、徐勣とともに黎陽を守らせられた。
  • 李密が敗れると徐勣の勧めで唐に帰順し、陽翟郡公に封じられ、宋州刺史を拝命した。徐勣とともに武牢以東を経営し、獲得した州県の人材選任を任された。

郭孝恪――洛陽平定への献策

  • 竇建德が王世充を救援に来た際、青城宮で李世民(太宗)に「王世充は日々窮迫し、竇建德は遠来で兵站が絶たれている。武牢を固め汜水に駐屯し機を見て応変すれば容易に平定できる」と献策し、採用された。
  • 竇建德を破り王世充を平定した後、太宗は洛陽で諸将を労い、郭孝恪の竇建德捕獲策と王長先の功を「他に抜きん出ている」と称えた。
  • その後、貝州・趙州・江州・涇州の四州刺史を歴任し、いずれも有能で名を知られた。中央に入り太府少卿、左驍衛将軍を歴任。

郭孝恪――安西都護としての治績と焉耆・亀茲討伐

  • 貞観16年(642年)、金紫光禄大夫、安西都護・西州刺史となる。高昌旧都の地は士人・流刑者・鎮兵が雑居し、砂漠に隔てられて中原と疎遠であったが、孝恪は誠意をもって撫育し人心を得た。
  • 唐が高昌を滅ぼした際、捕虜とした焉耆の人質700人余を還したが、焉耆王はまもなく突厥の欲穀可汗に叛いて朝貢を怠った。孝恪は好機をうかがって出兵を上奏し、安西道行軍総管として歩騎3000で銀山道より焉耆を討ち、夜襲でその王・龍突騎支を捕虜とした。太宗は璽書で「遠く沙漠を越えて罰を行い、一朝にして堅城を陥れた」と労った。
  • 続いて昆丘道副大総管として亀茲を討ち、都城を破って自ら留守し、他軍は分進して亀茲国相の那利は敗走した。城外に出て陣を張ったが、那利らが1万余の兵を率い城内の降胡と内通して夜襲をかけ、孝恪は油断していたため不意を突かれた。千余人を率いて奮戦し、城中に入って王のいた場所まで進んだが、城門で流矢に当たり戦死した。子の待詔も同じ戦で死んだ。将軍曹継叔が再び城を奪還した。
  • 太宗は当初、孝恪が警戒を怠ったことを責めたが、後に哀れんで喪を挙げた。高宗即位後、安西都護・陽翟郡公を追贈、待詔にも遊撃将軍を追贈し賻物300段を賜った。
  • 孝恪は奢侈を好み従者や道具を華美にし、軍中でも寝具は完備していた。かつて行軍大総管の阿史那社爾に贈り物をしたが社爾は一切受け取らなかった。太宗はこれを聞き「三将の優劣の差だ。郭孝恪は今回、賊に討たれたが、自ら招いた咎と言うべきだ」と述べた。
  • 次子の待封は高宗の時、左豹韜衛将軍まで昇ったが、咸亨年間(670年頃)薛仁貴とともに吐蕃を討ち大非川で敗戦し、死罪を減じられ除名となった。少子の待聘は長安年間、宋州刺史に至った。

張儉――朔州刺史としての施策

  • 張儉は雍州新豊の人、隋の相州刺史・皖城公張威の孫。父の張植は車騎将軍・連城県公。儉は高祖の従甥にあたる。
  • 貞観初年、軍功により朔州刺史となる。突厥の頡利可汗が強盛を恃み勅と称する書を諸州に送っていたが、儉に至って初めて拒否され、太宗はこれを称賛した。
  • 屯田を広く営み年間穀10万斛をもたらし辺境の食糧を潤し、霜害・干魃の際も互助を勧めて飢餓を免れさせ、州境だけが安定した。母の喪により検校勝州都督を辞した。
  • 以前、李靖の突厥平定後に離散した思結部落を招撫していたが、遠方に住む者を強いて追及せず緩やかに管理していたところ、州司が謀反と誤解して朝廷に上奏。儉は単騎で誠意を示して部落に入り首領たちを説得し、代州に移させ、代州都督を検校した。
  • 屯田を勧め毎年豊作となったが、蓄えが多くなると驕りが生じるのを懸念し、和糴(買い上げ備蓄)を上奏して蕃人に喜ばれ、辺境軍もその利を得た。営州都督・護東夷校尉に転じる。
  • 太宗の遼東親征の際、蕃兵を率いて先行して敵情偵察を行うよう命じられたが、遼水の増水で渡河できず、太宗に臆病と見なされ召還された。洛陽で謁見し、水草の良し悪しや山川の険易を具申すると太宗は大いに喜び、行軍総管として諸蕃騎を統率し六軍の先鋒とした。莫離支の来襲情報があると新城路から迎撃させ、莫離支は出撃を断念した。儉は遼水を渡り建安城に進み賊を大破し数千級を斬った。
  • 功により皖城郡公に累封され厚く賞賜された。後、東夷校尉は東夷都護に改められ儉がこれに任じられた。永徽初年(650年頃)、金紫光禄大夫を加えられ、4年(653年)60歳で没し、諡は密。

張儉一族

  • 兄の大師は軍功により太僕卿・華州刺史・武功県男に至った。
  • 弟の延師は永徽初年、左衛大将軍・范陽郡公に累任され、廉直謹慎で30年以上羽林の兵を統率し過失なく、朝廷に称えられた。竜朔3年(663年)没し荊州都督を贈られ諡は敬、昭陵に陪葬された。
  • 唐制では三品以上の門に棨戟を立てるが、張儉兄弟三家いずれもこれを立てたため、時人はこれを「三戟張家」と称え栄誉とした。

蘇定方――隋末の武勇

  • 蘇定方は冀州武邑の人。父の邕は大業末、郷里数千人を率いて本郡のために賊を討った。定方は驍悍で膂力に優れ、10余歳で父に従い戦い先陣を切った。父の死後、郡守が兵を任せ、賊将張金称を郡南で破りみずから斬り、また楊公卿を郡西で破り20余里追撃して多くを殺獲し、郷党から頼りにされた。
  • のち竇建德に仕え、その将高雅賢に愛されて養子となった。雅賢が劉黒闥に城を攻略された際も定方は戦功を重ねたが、黒闥・雅賢が死ぬと郷里に帰った。

蘇定方――突厥頡利可汗討伐

  • 貞観初、匡道府折衝となり李靖に従って磧口で突厥の頡利可汗を襲撃。定方は騎兵200の先鋒として霧に紛れて進み、霧が晴れると牙帳を望見して馳せ突入し数十百人を殺傷。頡利と隋の公主は狼狽して逃走し、残余は降伏した。軍が還ると左武候中郎将を授けられた。

蘇定方――西突厥賀魯の討伐

  • 永徽中、左衛勲一府中郎将となり、程知節に従い賀魯征討の前軍総管を務めた。鷹娑川で突厥2万騎と交戦中の総管蘇海政の苦戦を見て、定方は500騎で急襲し賊を大破、20里追撃して1500余人を殺し馬2000匹を獲得した。
  • 副大総管王文度はこの功を妬み、程知節に「これ以上の深入りは避け方陣を組んで守るべき」と進言し、聖旨と偽って知節の指揮権を奪った。そのため終日甲冑を着けたまま守備し、馬が多く痩せ死に士気も低下した。定方は知節に文度の詐称を糺すよう進言したが聞き入れられなかった。恒篤城では文度が降胡の皆殺しを主張したが、定方は「それでは自ら賊となるだけだ」と反対し、財の分配でも定方だけは一切受け取らなかった。師が還ると文度は死罪に処せられ、のち除名となった。
  • 翌年、定方は行軍大総管に抜擢され任雅相・回紇の婆潤を副として再び賀魯を討った。金山の北から処木昆部落を大破。俟斤の懶独禄は1万余帳を率いて降伏し、定方はこれを撫育した。
  • 賀魯は胡禄屋闕啜らの兵約10万を率いて官軍に対抗したが、定方は歩兵を原に配して槊を外向きに構えさせ、自らは漢騎を率いて北原に布陣。賊の三度の突撃を防いだのち反撃して大破し、30里追撃して数万を殺した。翌日、胡禄屋等五努失畢がことごとく降伏し、賀魯は数百騎で西走した。
  • 定方は追撃を続け伊麗水上で再び大戦し、賀魯とその一党をほぼ殲滅した。賀魯は夜逃走したが副将蕭嗣業が石国まで追い捕らえて連れ帰った。高宗は臨軒し、定方が戎服で賀魯を献上する様を見た。その地は州県に編入され西海に及んだ。
  • 功により左驍衛大将軍・刑国公に封じられ、子の慶節も武邑県公に封じられた。

蘇定方――都曼の乱平定

  • 思結の闕俟斤都曼が疏勒・朱俱般・葱嶺三国とともに叛いた際、定方は安撫大使として1日1夜300里を行軍し不意を突いて馬頭川で撃破、さらに囲んで攻具を並べると都曼は自ら縛につき降伏。葱嶺以西がことごとく平定され、邢州鉅鹿の食邑500戸を加えられた。

蘇定方――百済平定

  • 顕慶5年(660年)、熊津道大総管として百済討伐に赴く。海路から熊津江口に至り江を挟んだ敵を撃破、真都に迫って百済王の義慈と太子隆は北境に逃亡。義慈の次子泰が自立して王を称したが、嫡孫文思が父子の存命を理由に城を開いて降伏し、百姓もこれに従った。大将禰植も義慈を伴って降り、太子隆も諸城主とともに帰順して百済は平定され、6州に分けられた。義慈・隆・泰らは捕虜として東都に献じられた。
  • 定方は前後3国を滅ぼしいずれもその主を生け捕りにした功により厚く賞賜され、慶節は尚輦奉御を拝命、定方は左武衛大将軍に転じた。乾封2年(667年)76歳で没し、幽州都督・諡莊を贈られた。高宗は「功があるのに褒贈が遅れた」と嘆いた。

薛仁貴――遼東従軍と抜擢

  • 薛仁貴は絳州竜門の人。貞観末、太宗の遼東親征の際、張士貴の募兵に応じ従軍。安地で味方を救い、賊将を斬って首を馬鞍に懸けたことで名を知られた。
  • 安地城攻めで高麗の莫離支が25万の兵を率いて対抗した際、仁貴は白衣に戟を持ち馬上で先陣を切り、これを見た太宗が特に召見し馬2匹・絹40匹を賜り遊撃将軍・雲泉府果毅に抜擢、生口10人も賜った。太宗は「朕は遼東を得たことより卿を得たことを喜ぶ」と述べた。右領軍郎将に転じ北門長上を続けた。

薛仁貴――洪水急報と賀魯討伐建言

  • 永徽5年(654年)、高宗が万年宮に行幸中、夜に洪水が玄武門に迫り宿衛が散り散りになったが、仁貴は門に登り叫んで宮内に急を知らせ、高宗を避難させた。高宗は「卿の呼びかけのおかげで溺れずに済んだ」と御馬を賜った。
  • 蘇定方の賀魯討伐に際し、仁貴は泥熟の妻子が賀魯諸部落に捕らわれていることを上疏し、これを取り戻して賜与するよう進言。高宗はこれを聞き入れ、泥熟らは感激して従軍を願い出た。

薛仁貴――高麗・契丹・九姓討伐

  • 顕慶2年(657年)、程名振の副として遼東で高麗を破り3000級を斬る。翌年、梁建方・契苾何力とともに横山で高麗の温沙門と戦い活躍。石城下の名射手をも単騎で捕らえた。辛文陵とともに黒山で契丹を破り王阿卜固らを捕らえた功で河東県男に封じられる。
  • 九姓突厥討伐に際し、高宗自ら甲を出して仁貴に試させると5重の鎧を射抜き高宗を驚かせた。九姓10余万に対し驍勇な挑戦者3人を射殺すると残りは降伏。仁貴は後患を恐れ降兵を坑殺し、磧北の残党を安撫して偽葉護兄弟を捕らえた。軍中で「将軍三箭定天山」の歌がうたわれ、九姓突厥は以後衰えて辺患とならなくなった。

薛仁貴――扶余城攻略と平壌駐留

  • 乾封初年(666年)、高麗の泉男生が内附した際、弟の男建が迎えの軍を襲撃したため、仁貴は後援として出撃し金山の戦いで5万余級を斬り、南蘇・木底・蒼岩の3城を落として男生と合流した。
  • わずか2000人で扶余城を攻略し、周辺40余城を降した。李勣と平壌城で合流し高麗が降ると2万の兵で劉仁軌とともに平壌に留守。安東都護を兼ね、新城に治所を移し孤老を撫恤し高麗の人心を得た。

薛仁貴――大非川の敗戦

  • 咸亨元年(670年)、吐蕃入寇に対し邏娑道行軍大総管として出撃。副将の郭待封は仁貴の下風に立つことを恥じ命令に従わなかった。仁貴は輜重を大非嶺の柵に残し軽装で急襲する策を進言したが、待封は輜重とともに進軍し、烏海で吐蕃20余万に襲われ大敗、軍糧輜重を失った。仁貴は大非川に退いたが吐蕃はさらに40余万を増派し官軍は大敗、仁貴は吐蕃の論欽陵と和議を結んだ。仁貴は「今年は庚午で軍を動かすには逆年、鄧艾が蜀で死んだのもこの理か」と嘆き、除名処分を受けた。

薛仁貴――晩年

  • のち高麗の叛乱鎮圧のため雞林道総管に起用されるが、事件に連座して象州に流され、赦免で帰る。開耀元年(681年)高宗は「烏海城下で自ら賊を撃たなかったとの噂だけが心残りだ」と述べつつ功を惜しみ、瓜州長史・右領軍衛将軍・検校代州都督として再起用。雲州で突厥元珍らを撃ち1万余級を斬り、駝馬牛羊3万余頭を獲得した。その年、70歳で病没し左驍衛将軍を贈られた。子の訥は別に伝がある。

程務挺――父・程名振の事績

  • 程務挺は洺州平恩の人。父の名振は大業末、竇建德に仕えて普楽令となり善政で知られた。竇建德を離れて唐に帰順し永年令を任され河北を経略。鄴県を夜襲し1000余人を捕虜としたが、母乳のある婦人90余人を放免し、鄴の人々に感謝された。
  • 竇建德の敗北後、劉黒闥が洺州を陥落させると、母の潘氏・妻の李氏が賊に捕らわれた。名振は太宗の黒闥討伐に従い、その水陸運糧路を断ったため黒闥が怒って母・妻を殺した。黒闥平定後、名振は自ら黒闥を斬りその首で母を祭ることを願い出た。
  • 功により営州都督府長史・東郡公。太宗の遼東遠征に際して問われた際、当初は要領を得なかったが弁舌を尽くして太宗の意を解いた。右驍衛将軍・平壌道行軍総管を拝命し、少数で多数を破る戦を重ね名将と称された。永徽6年(655年)営州都督・東夷都護を兼ね高麗を破る。竜朔2年(662年)没し、右衛大将軍・諡烈を贈られた。

程務挺――突厥・稽胡討伐と非業の死

  • 務挺は少年から父に従軍し勇力で知られ、右領軍衛中郎将に至る。永隆中、突厥の阿史徳温傅が反乱し、諸将が敗れる中、裴行儼の副将として豊州都督を検校。伏念を金牙山に追い詰め降伏させたが、中書令裴炎はこの功を行儼のものではないとし、伏念は処刑された。務挺は功により右衛将軍・平原郡公。
  • 永淳2年(683年)、綏州の白鉄余の反乱を平定し左驍衛大将軍・検校左羽林軍。嗣聖初、張虔勗とともに則天の密旨で中宗を廃し豫王を立てる政変に加担、加封を受けたが弟に譲った。
  • のち左武衛大将軍・単于道安撫大使として突厥への備えを担い威信を高めたが、裴炎の獄事に際し弁護の密表を上げたことが逆鱗に触れ、裴炎・徐敬業らとの内通を讒言され、則天の命で斬られ家財は没収された。突厥はこれを聞いて祝宴を開き、その死後には祠を立て出師のたびに祈願したという。

張士貴

  • 張士貴は虢州盧氏の人、本名忽聿。騎射に優れ膂力があり、大業末に群盗を率いて「忽聿賊」と恐れられたが、高祖の招撫に応じて帰順し右光禄大夫を拝命。戦功により新野県公に封じられ、東都平定後は虢州刺史。右武候将軍を経て、貞観7年(633年)反獠討伐から帰った際に太宗から「古の名将にも劣らない」と労われた。左領軍大将軍・虢国公。顕慶初年に没し荊州都督を贈られ昭陵に陪葬。

趙道興

  • 趙道興は甘州酒泉の人、隋の右武候大将軍趙才の子。貞観初、左武候中郎将を歴任し宿衛に明るく職務に称されたため右武候将軍・天水県子に封じられた。父の官署をそのまま用いたことから「趙才将軍の庁を、今も趙才将軍の子が使う」と自ら誇り、世に笑い草となった。儀鳳中、左金吾衛大将軍に至り、文明年間老病により致仕。子の交も金吾将軍となり、三代にわたり金吾の任に就いたことが称えられた。

史論

  • 史臣は評す。郭孝恪は謀略に果断で、隋末の混乱期に功を建てたが、奢侈を常とし軍紀を失って命を落としたのは惑いであった。張儉は経略に天賦の才があり農事を勧めたが、志半ばで没したのは惜しい。刑国公蘇定方は謀略雄大で辺境平定に始終功を成したが、その封爵は功に十分報いられなかった。薛仁貴は勇壮で忠義に厚かったが、郭待封の不協力で大敗を招いた。それでも高宗の明命により再び功を立てたのは、孔子の言う「立つべきとともに立てても、権(臨機応変)とともにはできぬ」場合の教訓を体現している。程務挺は父の風を継ぎ勇力があったが、宮廷の廃立に関与して讒言に陥った。張士貴・趙道興は時に応じて義勇を尽くし、三代にわたり金吾を務めたことは称賛に値する。

讚曰:五将は雄々しく、ともに辺功を立てた。張儉・蘇定方の一族は、功名を全うした。郭孝恪・薛仁貴・程務挺は、功を求めて命を賭した。辺境に垂範を残したが、戦には常勝はなかった。