舊唐書卷八十五 列傳第三十一 劉祥道

銓選六条の上疏

  • 魏州観城の人。父劉林甫は武徳初年内史舎人として兵機の繁忙な創業期の事務を高祖から専任され才幹で知られた。中書令蕭瑀らとともに律令を撰定する詔を受け、《律議》一万余言を著した。中書侍郎に抜擢され楽平男に封じられた。貞観初年、吏部侍郎に累進。
  • 隋代の選挙は十一月から始まり春には停止したため選司の審査が行き届かなかったが、林甫は四季選挙の随時受付を上奏し当時大いに便利とされた。天下平定直後、州府や詔使が赤牒で官を授けた例が多く、これを一斉に整理する際、林甫は一万余人を才により適切に銓擢した。当時林甫の選挙は隋の高孝基に比された。貞観三年、病没。臨終に上表して賢を推薦し、太宗は深く悼み絹二百五十匹を賜った。
  • 祥道は若くして父の爵を継いだ。永徽初年、中書舎人・御史中丞・吏部侍郎を歴任。顕慶二年、黄門侍郎となり吏部選事を知った。銓衡の制度になお欠陥があるとして上疏し得失を陳べた(要旨、六条)。
  • 選挙で毎年千四百人以上が官に入るのは多すぎ、雑色出身者を選別せず入流させるのは濫りである。経学に明るく行いの修まった者すら稀に正人があるだけで、多くは胥吏出身であり徳行を伴わない者が多い。曹司による判定で四等に分け吏部・兵部・主爵・司勲に配分し、私犯のある者は三司に配属するか放還すべきである。
  • 官の定員は限られるのに入流は無限であり、官員一万三千四百六十五人に対し三十年で自然に入れ替わる計算をすれば年別五百人の入流で足りるところ、実際は年千四百人を超え倍以上の過剰となっている。
  • 儒教は教化の根本だが、永徽以来八年、善政や一言の功で破格に昇進する者はいても儒生への恩恵は聞かない、儒生の登用の道を広げるべきである。
  • 建国四十年、秀才の挙が一件もないのは薦挙の道が至っていないためであり、六品以下・在野の者まで広く人材を探すべきである。
  • 唐虞の三載考績、両漢の久任の制に倣うべきで、今は四考ごとに遷任させるため官吏も百姓も腰を据えられない、四考で加階し八考で選に就かせるべきである。
  • 尚書省二十四司や門下中書の都事・主書・主事には旧来流外の胥吏出身者ばかりが任じられ士流が忌避する慣行が続いているが、王言や政務の要である以上、選任の見直しが必要である。
  • 翌年、中書令杜正倫も入流過多の弊を訴え、高宗は祥道と正倫に議論させたが公卿は改革を憚り実行されなかった。祥道は礼の編纂の功で陽城県侯に進み、顕慶四年刑部尚書に遷り、重大な裁判のたびに嘆息し裁決の日には食を断った。龍朔元年、権検校蒲州刺史。三年、検校雍州長史を兼ね右相に遷った。
  • 祥道は謹直な性格で宰相となってからも憂懼し、老病を理由にたびたび閑職への転出を願い出、司礼太常伯に転じ政事を退いた。麟徳二年、泰山封禅に際し有司が旧礼に従い太常卿を亜献、光禄卿を終献とする案に対し、祥道は「三代は六卿が重んじられ祭祀を佐けたが、漢魏以来権は台省に移り九卿は台省の属官に過ぎない、封禅の大礼を八座(尚書)でなく九卿に行わせるのは虚名を求め実を忘れることではないか」と反駁、高宗はこれに従い司徒徐王李元礼を亜献、祥道を終献とした。事後、広平郡公に進む。乾封元年、致仕を願い金紫光禄大夫を加えられ聴許された。その年没した。享年七十一。幽州都督を追贈、諡を宣とした。子の劉齊賢が爵を継いだ。
  • 子の劉齊賢は初め侍御史から晋州司馬に出た。高宗はその方正を聞き礼遇した。将軍史興宗が晋州の良鷂を捕らえるよう頼んだところ、高宗は「劉齊賢が鷂を求めるような人物ではない、なぜそのようなことを頼むのか」と止めた。後に章懐太子の名を避け景先と改名した。永淳中、黄門侍郎・同中書門下平章事に累進。則天臨朝に及び裴炎に代わり侍中となった。裴炎の下獄に際し、景先は鳳閣侍郎胡元範とともに裴炎の無実を強く弁じ、則天の怒りを買った。裴炎誅殺後、景先は普州刺史に左遷、さらに吉州長史に貶された。永昌年間、酷吏に陥れられ下獄し自縊して死し、家財も没籍された。景先の祖父・父ともに三代にわたり両省の侍郎・典選を務め、叔父の吏部郎中応道、従弟の礼部侍郎令植ら八人が前後して吏部郎中員外となり、唐建国以来これに比類する家はなかったという。