舊唐書卷七十七 薛收・姚思廉・顏師古・令狐德棻・孔穎達

薛收――出自と太宗への出仕

  • 薛收、字は伯褒。蒲州汾陰の人、隋內史侍郎薛道衡の子。継父の従父孺に孝を尽くした。十二歳で文を作った。父が隋で非業の死を遂げたため、志を潔くし出仕しなかった。大業末、郡が秀才に挙げたが固辞。義旗(唐挙兵)が起こると首陽山に隠れ挙兵に協力しようとした。蒲州通守堯君素がその謀を知り、収の生母王氏を城内に迎え置いたため収は城に戻った。後に君素が王世充に応じようとしたため、収は城を越えて唐に帰順した。秦府記室房玄齡の推薦で太宗に召見され、経略を問われると縦横に弁じ悉く旨に合った。秦府主簿・陝東道大行台金部郎中を授かった。太宗が専ら征伐に当たった際、檄書・露布の多くは収の作で、言辞は敏速、馬上で即座に完成し添削の要もなかった。

薛收――王世充・竇建德討伐の献策

  • 太宗が王世充を討った際、竇建德が援軍に来て諸将は撤退して情勢を見るべきと主張したが、収は独り「世充は東都に拠り府庫は満ち江淮の精鋭を擁するが食糧に乏しく、我が方が持久すれば有利、建德も驍勇の軍を率いて来る、両寇が連合し河北の糧を融通すれば伊洛の戦いは長引く、今は分兵し守りを固め深く溝を掘り世充とは戦わず、大王自ら猛鋭を率い成皋の険を先に押さえ訓兵し待てば、疲弊した建德軍に対し我が堂々の勢で一戦して必ず克つ、建德が破れれば世充も自ずと下る、二旬を出でずして両国の君を面縛できる、退兵して守るのは下策」と献策、太宗はこれを容れ、ついに建德を擒にした。

薛收――東都平定後と最期

  • 東都平定後、太宗が隋の宮室を見て後主(煬帝)が人力を尽くし奢侈を極めたことを嘆くと、収は「峻宇雕牆で殷の紂王は滅び、土階茅棟で唐堯は栄えた、秦は阿房宮を飾り漢は露台の費を止めた、故に漢祚は延び秦禍は速かった、煬帝はこれを察せず万乗の尊で一夫の手に窮し土崩瓦解した、奢虐の致すところ」と答え、太宗はこれを喜んだ。軍が戻ると天策府記室參軍。太宗が天策上將・尚書令を授かった際、収と虞世南に第一の讓表を作らせ、収の作が用いられた。太宗が高祖に従い後園で白魚を得た際、収に献表を作らせると筆を執り即座に成し、当時の人は二表(讓表・献表)の贍にして速いことを推した。劉黑闥平定に従い汾陰縣男に封ぜられた。武德六(623)年、本官のまま文學館學士を兼ね、房玄齡・杜如晦と共に特別な礼遇を受け心腹の寄を受けた。狩猟を諫める上書をした際、太宗は手詔で「読んで実に心胆を悟った、今日私が成ったのは卿の力だ」と述べ黄金四十鋌を賜った。
  • 貞觀七(633)年、病臥、太宗は使者を送り見舞いが道に絶えなかった。輿に乗せて府に運ばせ太宗自ら衣袂で収を撫で生涯を語り涙を流した。まもなく卒去、享年三十三。太宗は自ら哭し左右も哀慟した。収の従父兄の子元敬への書に「私と卿の叔父は共に事をなし軍旅の多忙な折も文詠を交わす閑かな折も、経略に馳せ胸襟を語らぬことはなかった、近ごろ病んでいても快復を願っていたのに一朝にして万古の人となった、追念に痛惋するばかりだ、聞けば幼い子があり家は壁だけの貧しさという、安撫して私の心を慰めてほしい」と述べ、弔祭の使者を送り物三百段を贈った。後に學士らの像を図らせた際、太宗は「薛収はもう故人となった、早く肖像を図らなかったことが悔やまれる」と嘆いた。即位後、房玄齡に「薛収がもし生きていれば中書令にしただろう」と語り、夢に平生の収を見たこともあり、有司に命じその家に粟帛を賜った。貞觀七(633)年、定州刺史を追贈。永徽六(655)年、太常卿を追贈、昭陵に陪葬。文集十巻。

兄子 元敬

  • 元敬は隋選部侍郎薛邁の子。文学の才があり、若くして収及び収の族兄德音と斉名し「河東三鳳」と称された(収は長雛、德音は鸑鷟、元敬は年少で鹓雛)。武德中、秘書郎、太宗に天策府參軍・兼直記室として召された。収と共に文學館學士となった。房玄齡・杜如晦らが心腹として深く親交を結んだが、元敬は権勢を畏れ狎れなかったため、如晦は「小記室(元敬)は親しむこともできず疎んじることもできない」と評した。太宗が東宮に入ると太子舍人。軍国の務めが東宮に集中した際、元敬は文翰を専掌しよく職に称った。まもなく卒去。

收子 元超

  • 収の子元超は早くに父を失い、九歳で汾陰男の爵を継いだ。成長して学を好み文をよくした。太宗はこれを重んじ巢剌王の女和靜縣主を娶らせ、太子舍人に累進、《晉書》編纂に参与した。高宗即位後、給事中に抜擢、時に二十六歳。しばしば君臣の政体や時事の得失を上書し高宗は皆嘉納した。まもなく中書舍人に転じ弘文館學士を加え国史を修めた。中書省にある一つの盤石は、かつて父道衡が內史侍郎として腰掛けて制を起草した石で、元超はこの石を見るたびに涙を流した。
  • 永徽五(654)年、母の喪で解職。翌年、黃門侍郎・檢校太子左庶子に起用された。元超は文辞に長じ寒門の俊才を引き立てることを好み、任希古・高智周・郭正一・王義方・孟利貞ら十余人を推薦し評判を得た。後に病で饒州刺史に出た。三年後、東台侍郎。右相李義府が罪で巂州に配流された際、旧制で流人は乗馬を禁じられていたが元超は乗馬を許すよう奏請し、これに坐して簡州刺史に貶された。一年余り後、西台侍郎上官儀が誅殺された際、文章での親交を理由に連座し巂州に配流された。上元初、赦されて帰還し正諫大夫。三年後、中書侍郎、まもなく同中書門下三品。
  • 高宗が温泉で校猟した際、諸蕃の酋長が弓矢を持って従ったことに元超は「異族であり深く警戒すべき」と切諫し、帝はこれを容れた。元超は特に恩遇を受け諸王と共に私宴に召され、文学・政理の才を重んじられ、帝は「長く卿が中書にいてくれれば多くの人材は要らない」と語った。永隆二(681)年、中書令・太子左庶子。高宗が東都に行幸し太子が京師で監国した際、元超は留められ太子を輔佐した。帝は出立に際し「卿を留めるのは片腕を失うようなものだが、我が子はまだ庶務に慣れていない、関西の事はすべて卿に委ねる、寄せる期待が深いゆえ黙っていられない」と述べた。元超は鄭祖玄・鄧玄挺・崔融を崇文館學士に推薦、また太子にたびたび諫める上疏をし、高宗はこれを知り称賛し使者を遣わし慰め物百段を賜った。
  • 弘道元(683)年、病により骸骨を乞い金紫光祿大夫を加え致仕を許された。その年冬に卒去、享年六十二。光祿大夫・秦州都督を追贈、乾陵に陪葬。文集四十巻。子の曜も文学で名を知られ、聖歷中、《三教珠英》編纂に携わり正諫大夫に至った。元超の從子は稷。

元超從子 稷

  • 稷は進士に挙げられ、中書舍人に累進。従祖兄の曜が正諫大夫として辭學で名を知られていたのと同じく、稷も両省で評判を得た。景龍末、諫議大夫・昭文館學士。古を好み博雅で隷書に特に巧みだった。貞觀・永徽の頃、虞世南・褚遂良の書跡が世に尊ばれたが、その後継ぐ者は稀だった。稷の外祖父魏徵の家には図籍が豊富で虞・褚の旧跡も多くあり、稷は精力的に模倣し筆致は遒麗、当時これに及ぶ者はなかった。また画をよくし古蹟を博く探った。睿宗が藩王だった頃、小学(文字学)に留意し稷を特に招引、まもなくその子伯陽を仙源公主に娶らせた。
  • 睿宗即位後、中書侍郎に累進、蘇頲らと制誥を分掌。まもなく中書侍郎崔日用と共に参知政事。睿宗が鐘紹京を中書令に任じようとした際、稷は禮讓を勧め帝に「紹京はもとより才望なく胥吏の出身、功勲はあっても令德は聞かない、一朝にして元宰の位に上り百僚を率いるのは清濁が入り混じり聖朝の具瞻の美を損なう」と進言、帝はこれを容れ紹京は辞退して戶部尚書に転じた。稷はまた帝の前で崔日用を面折し互いに短長を言い合ったため参知政事を罷免され左散騎常侍に遷り、工部・禮部の二尚書を歴任。睿宗擁立の功で晉國公・実封三百戶、太子少保。睿宗は常に稷を宮中に召し庶政を参決させ恩遇は並ぶ者がなかった。竇懷貞誅殺の際、その謀を知っていたとして万年縣獄で賜死された。
  • 子の伯陽は公主に尚し右千牛衛將軍・駙馬都尉、功により安邑郡公・別に実封四百戶。父の死後、連座を免れたが晉州員外別駕に左遷され、まもなく嶺表に配流され道中で自殺した。伯陽の子談は開元十六(728)年、常山公主に尚し駙馬都尉・光祿員外卿を拝したが十日ほどで急死した。

姚思廉――出自と隋末の忠節

  • 姚思廉、字は簡之。雍州萬年の人。父察は陳吏部尚書、隋に入り太子內舍人・秘書丞・北絳公を歴任、儒史を兼ね三代に重んじられた。陳滅亡後、察は吳興から関中に移った。思廉は幼くして父から漢史を学び家業を伝え、勤学寡慾で家産のことを語らなかった。陳では揚州主簿、隋では漢王府參軍、父の喪で解職。かつて察は陳で梁・陳二史を修めたが未完で、臨終に思廉に続成を託した。継母の喪では墓側に廬し人以上に憔悴した。喪明け後、河間郡司法書佐。思廉は父の遺言を表し、詔により《梁》《陳史》の続成を許された。煬帝はまた起居舍人崔祖浚と《區宇圖志》を修めさせた。後に代王侑の侍読となった。
  • 義軍が京城を克した際、侑の府僚は皆逃げ散ったが思廉だけが王の側を離れなかった。兵が殿に上ろうとすると思廉は厳しく「唐公の挙義は本来王室を匡すためのもの、卿らは王に無礼を働くべきでない」と叱咤し、皆その言に服し階下に並んだ。高祖はこれを聞き義とし、思廉が侑を扶けて順陽閣まで送ることを許し、泣いて拝して去った。見た者は皆「忠烈の士だ、仁者に勇ありとはこのことか」と嘆じた。高祖の受禅後、秦王文學。
  • 太宗が徐圓朗を征した際、思廉は洛陽にいたが、太宗が隋滅亡のことに言及し「姚思廉は兵刃を恐れず大節を明らかにした、古人に求めてもこれに勝る者はない」と慨嘆し、物三百段を贈り「節義の風を慕いこれを贈る」と書いた。まもなく文學館學士に招かれた。太宗が春宮に入ると太子洗馬。貞觀初、著作郎・弘文館學士。その肖像を《十八學士圖》に列ね、褚亮が賛を作った(「志苦精勤、紀言実録、危に臨み義に殉ず、余風俗を励ます」)。
  • 貞觀三(629)年、秘書監魏徵と共に梁・陳二史を撰する詔を受けた。思廉は謝炅らの諸家梁史を採り父の遺業を続成、陳事も推究し顧野王の旧史を刪益博綜、《梁書》五十巻・《陳書》三十巻を撰した。魏徵は総論を裁したが編次・筆削は皆思廉の功であり、彩絹五百段を賜り通直散騎常侍を加えた。思廉は藩邸以来の旧臣として厚く礼遇され、政の得失を密奏することを命じられ、直言して隠さなかった。太宗が九成宮に行幸しようとした際、思廉は「離宮への遊幸は秦皇・漢武の事であり、堯舜禹湯のなすことではない」と切に諫めたが、太宗は「私には気の病があり暑さで頓に悪化する、遊興を好むのではない」と諭し帛五十匹を賜った。
  • 貞觀九(635)年、散騎常侍、豐城縣男。同十一(637)年卒。太宗は深く悼み一日廃朝、太常卿を追贈、諡は康、昭陵に葬地を賜った。子の處平は通事舍人に至る。處平の子璹・珽には別伝がある。

顏師古――出自と隋代の不遇

  • 顏籀、字は師古。雍州萬年の人、齊黃門侍郎顏之推の孫。もと琅邪に住み代々江左に仕えた。之推は周・齊に歴仕し齊滅亡後、関中に住んだ。父思魯は学芸で称され、武德初、秦王府記室參軍。師古は幼くして家業を伝え博く群書を読み、詁訓に精しく文をよくした。隋仁壽中、尚書左丞李綱の推薦で安養尉。尚書左僕射楊素が師古の若く痩身な姿を見て「安養は劇県、どう務まるのか」と問うと、師古は「鶏を割くのに牛刀を用いるまでもない」と答え、素はその返答を奇とした。赴任すると果たして政務に長けていると評判になった。襄州總管薛道衡は高祖と旧交があり師古の才を喜び、文章を作らせては欠点を指摘させ深く親しんだ。まもなく事に坐し免官、長安に帰り十年官に就けず、貧しさから教授を業とした。
  • 挙兵に際し長春宮に謁見し朝散大夫。京城平定に従い敦煌公府文學、起居舍人、中書舍人に再遷し機密を専掌した。軍国の事務が多忙な折、制誥は皆師古の手による。政理に通じ冊奏の巧みさは並ぶ者がなかった。太宗即位後、中書侍郎に抜擢、琅邪縣男。母の喪で去職、服喪後復職したが一年余りで事に坐し免官となった。
  • 太宗は経籍が聖代から遠く文字の誤りが多いことを憂い、師古に秘書省で《五經》を考定させ、師古は多くを釐正し完成させ奏上した。太宗が諸儒に重ねて詳議させると、伝習の久しい儒者たちは皆これに反発したが、師古は晉・宋以来の古今の本を引き即座に応答し根拠を詳明にし、諸儒はことごとく歎服した。通直郎・散騎常侍を兼ね、定めた書を天下に頒布し学者に習わせた。貞觀七(633)年、秘書少監、専ら刊正を掌った。奇書難字の疑義を随時解き明かし源を尽くした。
  • この頃、後進の士を多く校讎に用いる一方、師古は寒門を抑え貴勢を先んじ富商大賈まで引き入れたため賄賂を受けたと評判が立ち、郴州刺史に出された。赴任前、太宗はその才を惜しみ「卿の学識は称すべきものがあるが、事親・居官の点で清論に許されていない、この人事は卿自ら招いたもの、私は卿の旧功を忘れがたく見捨てられない、深く自ら誡め励むべきだ」と述べ、再び秘書少監に任じた。師古は才を恃みつつ早くから駆使され罪譴も頻繁で意気消沈し、以後門を閉ざし静を守り賓客を絶ち、葛巾野服で園亭に心を遊ばせたが、古蹟・古器の探求だけは怠らなかった。
  • まもなく詔により博士らと《五禮》を撰定、貞觀十一(637)年完成し子爵に進んだ。太子承乾の時、班固《漢書》の注を命じられ解釈詳明で学者に重んじられ、承乾がこれを上呈すると太宗は秘閣に編入させ物二百段・良馬一匹を賜った。同十五(641)年、太宗が泰山での封禪を計画し儀注の詳定を命じた際、太常卿韋挺・禮部侍郎令狐德棻が封禪使としてその儀を参考にしたが議論百出した。師古は「私が《封禪儀注書》を撰定したのは貞觀十一年、当時諸儒が参詳し適中とした」と奏し、公卿がその可否を定めると多くが師古の説に従ったが、結局封禪は行われなかった。師古はまもなく秘書監・弘文館學士に遷った。同十九(645)年、東征に従駕中に病没、享年六十五、諡は戴。文集六十巻。注した《漢書》及び《急就章》は世に広く行われた。永徽三(652)年、師古の子揚庭が符璽郎として師古撰《匡謬正俗》八巻を上表、高宗は秘書閣に付し揚庭に帛五十匹を賜った。

弟 相時

  • 師古の弟相時も学業があった。武德中、房玄齡らと秦府學士。貞觀中、諫議大夫に累進、拾遺補闕の任で諍臣の風があった。まもなく禮部侍郎。相時は病弱で太宗はしばしば医薬を賜った。仁愛の性で師古の死に哀慕に堪えず自らも没した。師古の叔父游秦は武德初、廉州刺史に累進、臨沂縣男。劉黑闥平定直後で人々が強暴で礼を欠く風潮だったが、游秦は境内を撫恤し敬讓の風を広めた。邑里の歌に「廉州の顏は道あり、性行は莊子・老子の如し、人を愛すること赤子の如く、時ならぬ草も殺さず」と歌われ、高祖は璽書で労った。まもなく鄆州刺史に拝し官にて卒去。《漢書決疑》十二巻を撰し学者に称された、後に師古が《漢書》を注する際にもその説を多く取り入れた。

令狐德棻――出自と隋唐初期の活動

  • 令狐德棻、宜州華原の人、隋鴻臚少卿令狐熙の子。もと燉煌に住み代々河西の名族だった。德棻は博く文史に渉り早くに名を知られた。大業末、藥城長だったが世の乱れを理由に赴任しなかった。義旗が建つと淮安王神通が太平宮に拠り総管を称し、德棻を記室參軍とした。高祖入関後、直大丞相府記室に引き入れられた。武德元(618)年、起居舍人に転じ深く親任された。同五(622)年、秘書丞、侍中陳叔達らと《藝文類聚》を撰する詔を受けた。
  • 高祖が「近ごろ男の冠、女の髻が競って高大になっているのはなぜか」と問うと、德棻は「冠は上を飾るもので古人は君上に喩えた、東晉末は君弱く臣強かったため江左の士女は衣を小さく裳を大きくした、宋武帝が即位すると君の威厳が高まり衣服の制も改まった、これは近時の徴である」と答え、高祖は納得した。喪乱の後で経籍が散逸していたため、德棻は遺書の購募を奏請し、銭帛を加え楷書を増置し繕写させ、数年で群書がほぼ備わった。
  • 德棻はかつて高祖に「近代以来、正史のない王朝が多い、梁・陳・齊はまだ文籍があるが、周・隋は大業の乱で多く欠けている、今は耳目が及ぶが十数年後には事跡が湮没するだろう、陛下は隋から受禅し周の暦数も承け、国家二祖の功業は周代にある、文史がなければ今古を鑑みる術がない」と献策、高祖はこれに従い詔を下した。詔の要旨は、魏史を蕭瑀・王敬業・殷聞禮に、周史を陳叔達・令狐德棻・庾儉に、隋史を封德彝・顏師古に、梁史を崔善為・孔紹安・蕭德言に、齊史を裴矩・祖孝孫・魏徵に、陳史を竇璡・歐陽詢・姚思廉に命ずるというものだった。しかし蕭瑀らは数年かけても完成できず終わった。
  • 貞觀三(629)年、太宗は改めて修撰を命じ、德棻と岑文本に周史を、李百藥に齊史を、姚思廉に梁・陳史を、魏徵に隋史を修めさせ、房玄齡が総監した。魏史は既に魏收・魏彥の二家があり詳備とされ改めて修めなかった。德棻は殿中侍御史崔仁師を周史編纂に引き入れ、梁・陳・齊・隋諸史の総括も担った。武德以来の修撰の源はここから始まった。
  • 貞觀六(632)年、禮部侍郎に累進、国史を兼修、彭陽男。同十(636)年、周史撰述の功で絹四百匹。同十一(637)年、《新禮》完成の功で子爵、《氏族志》完成の功で帛二百匹。同十五(641)年、太子右庶子。承乾の廃立に伴い除名。同十八(644)年、雅州刺史に起用されたが公事で免官。まもなく《晉書》改撰の詔があり房玄齡が德棻を推し、当時同修十八人の首に推され体制の多くが德棻の判断に依った。完成後、秘書少監。

令狐德棻――高宗への進言と晩年

  • 永徽元(650)年、律令の撰定を受詔、再び禮部侍郎、弘文館學士を兼ね国史及び《五代史志》を監修。まもなく太常卿、弘文館學士を兼ねた。高宗即位初、政道に留意し宰臣・弘文館學士を中華殿に召し「王道と霸道はどちらが先か」と問うと、德棻は「王道は徳に、霸道は刑に任じる、三王以上は皆王道を行い秦だけが霸術に任じ、漢はこれを混用した、魏晉以降は王霸ともに失われた、用いるなら王道が最善だが行うのは難しい」と答えた。高宗が「今行うべき政は何が要か」と問うと、「古の為政は心を清め事を簡にすることを本とする、今は天下無事で豊作が続く、賦斂を薄くし征役を少なくすることが古道に合う、これに勝る要はない」と答え、高宗は「政道は無為に勝るものはない」と述べた。さらに「禹・湯はなぜ興り桀・紂はなぜ亡んだか」と問うと、德棻は「《傳》に『禹湯は己を罪し興ること勃焉、桀紂は人を罪し亡ぶこと忽焉』とある、二主は妹喜・妲己に惑い諫者を誅し炮烙の刑を作った、これが滅亡の理由」と答え、高宗は大いに喜び皆に繒彩を賜った。
  • 永徽四(653)年、国子祭酒、貞觀十三年以降の実録編纂の功で物四百段・崇賢館學士。まもなく《高宗實錄》三十巻を撰し公爵に進む。龍朔二(662)年、致仕を願い許され金紫光祿大夫を加えられた。乾封元(666)年、家で卒去、享年八十四、諡は憲。德棻は晩年ますます著述に勤め、国家の修撰事業には必ず参与した。

修史に携わった人々

  • 武德以降、鄧世隆・顧胤・李延壽・李仁實が前後して国史を修撰し当時称賛された。

鄧世隆

  • 鄧世隆は相州の人。大業末、王世充の兄の子太が河陽を守った際、賓客として引き入れられ厚く遇された。太宗が洛陽を攻め太に諭書を送った際、世隆が返書を書き言辞が不遜だった。洛陽平定後、罪を恐れ姓名を変え「隱玄先生」と号し白鹿山に隠れた。貞觀初、召されて国子主簿、崔仁師・慕容善行・劉顗・庾安禮・敬播らと共に修史學士となった。旧罪を負い不安であったが、太宗は房玄齡を遣わし「お前が王太のために書いたことは重罪にあたるが、それぞれ主のためにしたこと、私に何の恨みがあろうか、私は今天子であり匹夫の過ちを追及する必要はない、安心せよ」と諭した。著作佐郎に抜擢、衛尉丞を歴任。太宗は武功で天下を定め詩書に暇がなかったが、即位後は忠良を進め政に励み、数年で治世が安定すると文史に心を留めるようになった。貞觀十三(639)年、世隆が御集の編纂を上疏したが太宗はついに許さなかった。世隆はまた隋代の旧事を採り《東都記》三十巻を撰した。著作郎に遷り、まもなく卒去。

顧胤

  • 顧胤は蘇州吳の人。祖越は陳給事黃門侍郎、父覽は隋秘書學士。胤は永徽中、起居郎に累進し国史を兼修。《太宗實錄》二十巻を撰し朝散大夫を加え弘文館學士。武德・貞觀両朝の国史八十巻の撰述の功で朝請大夫、餘杭縣男、帛五百段を賜った。龍朔三(663)年、司文郎中に遷り、まもなく卒去。《漢書古今集》二十巻を撰し世に行われた。子の琮は長安中、天官侍郎・同鳳閣鸞台平章事。

李延壽

  • 李延壽はもと隴西の著姓で世々相州に住んだ。貞觀中、太子典膳丞・崇賢館學士を歴任、著作佐郎敬播と共に《五代史志》を修め、《晉書》編纂にも参与、御史台主簿に転じ国史を兼修した。延壽は《太宗政典》三十巻を撰し上表、符璽郎に遷り国史を兼修、まもなく卒去。調露中、高宗はその《政典》を見て久しく嘆美し秘閣に蔵させ、その家に帛五十段を賜った。延壽はまた宋・齊・梁・陳及び魏・齊・周・隋の八代史を刪補し《南北史》百八十巻としてまとめ、世に広く行われた。

李仁實

  • 李仁實は魏州頓丘の人。左史に至った。《格論》三巻・《通歷》八巻・《戎州記》を著し、いずれも当時流布した。

孔穎達――出自と隋末の学識

  • 孔穎達、字は仲達。冀州衡水の人。祖碩は後魏南台丞、父安は齊青州法曹參軍。穎達は八歳で学に就き日に千余言を誦した。長じて《左氏傳》《鄭氏尚書》《王氏易》《毛詩》《禮記》に特に明るく算暦も善くし文を作った。同郡の劉焯は海内に名高く、穎達はその門を訪ねた。焯は初め礼を尽くさなかったが、穎達が疑滞を質すと焯の意表を突く答えが多く、焯は改めて敬意を払った。穎達が固辞して帰ろうとしても焯は固く留めた。帰郷後は教授を業とした。隋大業初、明経で高第に挙げられ河内郡博士。煬帝が諸郡の儒官を東都に集め国子秘書學士と論難させた際、穎達が最も優れていた。若年の穎達に先輩の宿儒が恥じて刺客を送ろうとしたが、禮部尚書楊玄感が自邸に匿い難を逃れた。太學助教に補された。隋の乱に武牢に避難、太宗が王世充を平定すると秦府文學館學士に召された。
  • 武德九(626)年、国子博士に抜擢。貞觀初、曲阜縣男、給事中に転じた。太宗即位初、庶政に留意し穎達はしばしば忠言を進め親任された。太宗が「《論語》の『能を以て不能に問い、多きを以て寡きに問い、有れども無きが若く実あれども虚しきが若し』とはどういう意味か」と問うと、穎達は「聖人の教えは人に謙光を求める、己に能があっても矜らず不能の人に求め、己の才芸が多くても少ないとして寡少の人に求める、これは匹庶のみならず帝王の徳も同様であるべき、帝王が内に神明を蘊え外に玄黙を保てば深く測りがたく、聡明を誇り才で人を凌ぎ非を飾り諫を拒めば上下の情が隔たり君臣の道が乖離する、古来の滅亡はすべてこれによる」と答え、太宗は深くこれを善しとした。
  • 貞觀六(632)年、国子司業に累進。一年余り後、太子右庶子、国子司業を兼ねた。暦法・明堂の議論では諸儒が皆穎達の説に従った。魏徵と《隋史》を撰し散騎常侍を加えた。同十一(637)年、朝賢と《五禮》を修定し疑滞はすべて穎達に諮った。完成後、子爵に進み物三百段を賜った。庶人承乾が《孝經義疏》の撰述を命じた際、穎達は文により意を見て規諷の道を広げ学者に称された。太宗は穎達が東宮でしばしば匡諫したことを賞し、左庶子於志寧と共に黃金一斤・絹百匹を賜った。
  • 貞觀十二(638)年、国子祭酒、東宮で侍講を続けた。同十四(640)年、太宗が国学に行幸し釈奠を観た際、穎達に《孝經》を講じさせ、講義後《釋奠頌》を上呈すると手詔で褒美された。後に承乾が法度に従わなくなると穎達はしばしば顔を犯して諫めた。承乾の乳母遂安夫人が「太子も成長したのに何度も面折してよいものか」と言うと、穎達は「国の厚恩を蒙り死んでも恨みはない」と答え、諫諍は一層切実になったが承乾は聞き入れなかった。
  • 先に顏師古・司馬才章・王恭・王琰ら諸儒と共に《五經》の義訓を撰定する詔を受け、百八十巻にまとめ《五經正義》と名付けた。太宗は「卿らは古今を博く綜合し義理に該洽、前儒の異説を考え聖人の幽旨に符する、実に不朽の業」と詔し、国子監に付し施行、穎達に物三百段を賜った。この頃、太學博士馬嘉運が穎達の《正義》を批判し、詔で詳定させたが完成には至らなかった。貞觀十七(643)年、老齢で致仕。同十八(644)年、凌煙閣に肖像を図らせた(賛「道は列第に光り、風は闕里に伝わる、精義霞の如く開き、辞を掞(かかげ)て飈の如く起こる」)。貞觀二十二(648)年卒、昭陵に陪葬、太常卿を追贈、諡は憲。

司馬才章

  • 司馬才章は魏州貴鄉の人。父烜は《五經》に博く緯候を善くし、才章は幼くしてその業を伝えた。隋末、郡博士。貞觀六(632)年、左僕射房玄齡の推薦でしばしば召問を受け国子助教に抜擢、その論議は該洽で学者に称された。

王恭

  • 王恭は滑州白馬の人。若くして篤学、《六經》に博く通じた。郷閭で教授すると遠方から数百人の弟子が集まった。貞觀初、太學博士に召され、その《三禮》講義は独自の義証を立て精博であった。蓋文懿・文達ら当時の大儒も推借することは稀だったが、《三禮》を講じる際は先達の義を挙げつつ王恭の説も取り入れた。

馬嘉運

  • 馬嘉運は魏州繁水の人。若くして出家し沙門となり《三論》に明るかったが、後に還俗し儒学に専念し論難を得意とした。貞觀初、越王東閣祭酒に累進。まもなく罷免され白鹿山に隠棲。同十一(637)年、太學博士・弘文館學士に召され《文思博要》編纂に参与した。嘉運は穎達の《正義》の繁雑な点をしばしば指摘し、諸儒もその指摘を的確と評した。高宗が春宮にいた頃、崇賢館學士に召され洗馬秦暐と共に殿中で侍講し厚く礼遇された。同十九(645)年、国子博士に遷り卒去。

史論

  • 史臣曰く。唐の徳が興隆する中、英儒が相次いで現れ、佐命に協力した実例がある。薛収は謀を助け経謀は雅道に適い、不幸にも短命でわが良士を失わせた。太宗が「肖像を早く図らなかったのが悔やまれる、もし生きていれば中書令にしただろう」と語った言葉に、その才が知れよう。元敬は文辞明敏でありながら権勢を畏れ房玄齡・杜如晦に狎れなかった、深沈で慎み深いとは彼のことだろう。元超は父の風望を継ぎ弘略を輔弼し、罪なくして二度流されたが、大任に登ってからは嘉謀を尽くし多才を汲引し、感恩の重さは時に聞こえた、有終の美を成したと言えよう。稷は名家の出でありながら大用に達し、自ら禍の種を残したことは貞亮とは言い難い。姚思廉は篤学寡欲で家学の漢史を父から受け継ぎ、大節に臨んでも屈しなかった。編纂を成し箴規で聖を輔けたことは命世の才と言うべきである。師古は儒風の家に生まれ経義に該博、史策を詳註し典礼を探測し清明な人柄で天賦の才格があった。しかし三度黜せられたのは時の譏りによるもので、孔子の「才難し」の言のとおりであろう。令狐德棻は貞度にして時に応じ問いに平直に答えた、旧史を徴し新禮を修め国風を暢べ、治乱を弁じ王霸を談じ帝業を助けた、「元首明らかにして股肱良し」とはこのことだろう。鄧世隆は国史の誉れがあり忠直であったが、王太への返書の不遜さは何と不明であったことか。御集編纂の上疏はその弼直を示す。顧胤は清芬な人柄で模範とすべき者、積善の余慶に子を得たと言えよう。李延壽は史学を研究し編纂・刪補を成し大典を完成させた、班固・司馬遷に比肩する者はどの時代にもいるものだ。李仁實はそれに次ぐ存在である。孔穎達は風格高爽で幼少より聞こえ、探究は明敏、応対も巧みで天賦の通才であった。人の道は満つるを悪み必ず毀誹があるものだが、《正義》が輝いたことこそ異能の証、馬嘉運らの指摘もそれを損なうものではない。司馬才章は時に藉り儒を崇め業を成し、王恭は声教を弘め礼学を極め、馬嘉運は達識で自ら通じ典雅を成した、皆才用に適い彩りを添えた、指摘の繁雑さはむしろ完璧を求めたゆえであろう。

  • 河東の三鳳(薛收・薛德音・薛元敬)は共に瑞を黃圖(帝都)にもたらした。令狐德棻は良史、孔穎達は実に名儒。経を解いて窮まらず、顏(顏回)を希う徒である。瀛洲に登り館に入る、なんと盛んなことか。