舊唐書卷七十一 列傳第二十一 魏徵

魏徵――出自と隋末の流転

  • 魏徵、字は玄成。鉅鹿曲城の人。父長賢は北齊屯留令。徵は幼くして父を失い貧しく、大志を抱きながら生業に就かず出家して道士となった。読書を好み博く通じ、天下の乱れを見て縦横家の説に傾倒した。
  • 大業末、武陽郡丞元寶藏が李密に応じて挙兵した際、徵は書記として召され、密が常に寶藏の上表文(実は徵の作)を称賛したことから召し出された。徵は密に十策を献じたが、密は奇としつつも用いなかった。
  • 王世充が洛口で密を攻めた際、徵は密の長史鄭頲に「密は連勝しているが驍將・銳卒の死傷が多く、府庫もなく功に賞がなく士気が緩んでいる、深溝高塁で持久すれば敵の兵糧が尽きて自ら退くのでそれを追撃するのが勝算」と説いたが、頲は「老生の常談」と一蹴、徵は「これは奇謀深策だ」と反論し立ち去った。
  • 密が敗れると徵も帰順したが久しく用いられず、自ら山東の安撫を願い出て秘書丞として黎陽に赴いた。当時、徐世勣がなお李密の兵を擁していたため、徵は書を送り、密の興亡の経緯を説き、世勣に「策名(仕官)が得られれば九族もその余光に浴すが、非人に身を委ねれば一身も保てない、殷鑑遠からず、疑いためらえば凶狡の輩に先んじられる」と説いた。世勣は書を得て帰順を決め、倉を開いて淮安王神通の軍に糧を送った。
  • まもなく竇建德が南下し黎陽を陥落させ徵を捕らえ起居舍人とした。建德が捕らえられると裴矩と共に関に入った。隱太子(建成)は徵の名を聞き洗馬に引き入れ厚く礼遇した。徵は太宗の勲業が日々高まるのを見て建成にしばしば早く手を打つよう勧めた。建成敗死後、太宗が徵を召し「お前は我が兄弟を離間させた、なぜか」と問うと、徵は「皇太子が私の言に従っていれば今日の禍はなかった」と答えた。太宗はもとより徵の器量を認めており詹事主簿に引き立てた。
  • 即位後、諫議大夫に抜擢、鉅鹿縣男に封ぜられ河北の安撫を命じられ便宜従事を許された。磁州で前東宮の千牛李志安・齊王護軍李思行が拘束され京師に送られるのに遇い、徵は副使李桐客に「我らは前宮・齊府の者を赦免すると命じられている、今また思行を送れば他の者も疑心を抱く、大夫は国境を出れば社稷の利のため専断してよい」と述べ、思行らを釈放し、これを上奏、太宗は大いに喜んだ。

魏徵――太宗への諫言(貞觀初期)

  • 太宗は徵をしばしば臥内に招き得失を訪ねた。徵は経国の才があり性格は剛直で屈しなかった。太宗は徵の諫を欣然と受け入れ、徵も知己の主に出会えたことを喜び知る限りを言った。太宗は「卿の諫言は前後二百余事に及ぶ、至誠に国に奉じる者でなければこうはいかない」と労った。この年、尚書左丞。
  • 徵が親戚を偏庇していると讒言され、御史大夫溫彥博に調べさせたが事実なしとされたものの、彥博は「形跡を避けなかったことは責められる」と奏し、太宗は徵を戒め「今後は形跡を存すべし」と述べた。徵は「君臣が公道を捨てて形跡ばかり気にすれば国の興亡もわからなくなる」と反論、太宗は改めて「私が誤っていた」と述べた。徵は「陛下には私を良臣にしてほしい、忠臣にはしないでほしい」と再拝し、「良臣は稷・契・咎陶のような者、忠臣は龍逢・比干のような者、良臣は身に美名を得て君に顕号を与え子孫に福禄を伝えるが、忠臣は誅殺され君は悪名を負い国も家も滅び虚名だけが残る」と説明した。太宗は深くこれを容れ絹五百匹を賜った。
  • 貞觀三(629)年、秘書監、朝政に参与。徵は喪乱後に典章が乱れていたため学者に四部書の校定を命じ、数年で秘府の図籍が整った。
  • 高昌王麹文泰が入朝しようとした際、西域諸国が使者を送り貢献しようとしたので太宗は文泰の使者厭怛紇干を迎えに行かせようとしたが、徵は「中国はまだ疲弊から回復していない、文泰入朝の経路の州県すら供給できないのにこれらの国の使者を迎えれば負担になる、商賈の往来なら辺境の民が利を得るが賓客として迎えれば中国が弊害を受ける、漢の光武帝も西域の都護設置要求を拒んだ」と諫め、太宗はこれを容れ厭怛紇干を追い返した。
  • 太宗が九成宮に行幸した際、京へ戻る宮人が湋川縣の官舎で休んでいたところ、右僕射李靖・侍中王珪が到着したため官属が宮人を別の場所に移し靖らを宿泊させた。太宗はこれを聞き「威福の柄が靖らにあるのか、なぜ靖を礼し私の宮人を軽んじるのか」と怒り、湋川の官属と靖らを取り調べさせようとしたが、徵は「靖らは陛下の心膂の大臣、宮人は皇后の掃除の隷、委任の重さが違う、靖らは官吏と法式を語り合う立場だが宮人は供食以外に参承すべきでない、これを理由に県吏を罰すれば天下の耳目を驚かすだけ」と諫め、太宗はこれを容れ官吏の罪を釈き靖らも不問とした。
  • 丹霄樓の宴で太宗は長孫無忌に「魏徵・王珪は東宮にいた頃は建成に尽くし当時は憎むべき存在だったが、私は彼らを抜擢し今に至る、古人に恥じない、しかし徵は私が諫を聞かない時、発言してもすぐには従わない、なぜか」と問い、徵は「事が不可と思えば陳論する、もしすぐ従うふりをすればそのまま実行されてしまう恐れがある」と答え、太宗が「その場で一旦従い、後で別に諫めればよいのでは」と重ねると、徵は「舜が群臣を戒めた『面従して退いて後言するな』にあたる、それでは稷・契が堯舜に仕えた意にそぐわない」と述べ、太宗は大笑し「魏徵の挙動は疎慢だと人は言うが、私にはただ嫵媚(愛らしい)としか見えない、まさにこのことだ」と述べた。
  • 同月、長樂公主が降嫁する際、皇后所生であることから資送を永嘉長公主の倍にする勅が出されたが、徵は「昔漢明帝が我が子を先帝の子と同列にできないと述べ楚・淮陽の半分にしたのが美談とされる、天子の姉妹が長公主、娘が公主、『長』の字がつく以上尊崇の差がある」と諫め、太宗はこれに従い、長孫皇后は感じ入り銭四十万・絹四百匹を徵の邸に賜った。まもなく郡公に進爵。
  • 貞觀七(633)年、王珪に代わり侍中。尚書省の滞訟を徵に評理させ、法に習熟していなくても大体を守り情理で裁断し皆が悦服した。史書編纂の詔(令狐德棻・岑文本《周史》、孔穎達・許敬宗《隋史》、姚思廉《梁》《陳史》、李百藥《齊史》)を受け、徵は総裁として撰定、簡正を旨とし、《隋史》の序論と《梁》《陳》《齊》の総論はすべて徵の作で、当時「良史」と称された。史書完成後、左光祿大夫・鄭國公、物二千段を賜った。

魏徵――四つの上疏

  • 徵は自ら国に功なく弁説だけで帷幄に参じたとして満盈を深く恐れ、目疾を理由にしばしば辞任を申し出たが、太宗は「卿を仇讎の中から抜擢し枢要の職に任じた、卿は私の非を見れば必ず諫めてくれる、金鉱のままでは値がないが良工が鍛えて器となれば宝となる、私は自らを金に卿を良匠に例える」と慰留した。徵はなお辞意を示し特進・知門下事となり、その後たびたび四つの上疏を奉り得失を述べた。
  • 第一疏は、天命を受けた君主が皆天地の徳に配そうとしながら克く終える者が少ない理由を問い、隋の煬帝が四十余年の強盛を一朝で失った経緯(欲のままに民を駆使し宮殿を飾り徭役を絶やさず、外に威を示し内に猜忌が多く、讒邪が幸いし忠正が生きられなかったこと)を挙げ、今すでに得た宮観・珍宝・美女・四海をどう保つかで上策(無為の治)・中策(旧を存し不急を省く)・下策(欲のまま増改築する)のいずれを選ぶかにより存亡が分かれると説いた。
  • 第二疏(後に「十思疏」と呼ばれる)は、木の生長を求めるにはまず根を固め、流れの遠きを求めるにはまず源を深くし、国の安泰を求めるにはまず徳義を積むべきと説き、元首は志を得れば情のままに人を傲り骨肉さえ路人のようになりがちだと戒めた。欲しいものを見れば足るを知り、事を起こそうとすれば止まるを知り、高きにあれば謙虚に、満ちれば百川の下に構える江海を思い、遊興には節度を、怠りには始めと終わりを慎み、壅蔽には虚心を、讒邪には身を正すことを、恩賞と刑罰には喜怒による誤りのなきよう思う、という「十思」を挙げ、これを弘めれば君臣共に事なく垂拱にして化すと述べた。
  • 第三疏は、刑賞の本旨たる勧善懲悪が好悪・喜怒によって曲げられる弊害を指摘した。好めば法の中でも寛大にし憎めば事の外にまで罪を求める風潮があれば、刑は濫用され賞は誤り、小人の道が伸び君子の道が消えると説き、隋の甲兵・府儲・戸口は今日と比べても遜色ないのに、隋は富強によって動いて滅び、我らは貧寡によって静かにして安んじていることを対比し、安きに危うきを思わず治に乱を思わないために覆轍を踏む者が多いと述べた。
  • 第四疏は、国の基は徳礼に資り君子の保つところは誠信にあると説き、孔子の「君は礼を以て臣を使い臣は忠を以て君に事える」「人は信なくば立たず」を引いた。貞觀の初めは善言を聞けば驚喜したが、五六年を過ぎると次第に直言を嫌うようになり、謇諤の士は逆鱗を避け便佞の徒が巧弁を弄するようになったと指摘し、同心の者を朋黨と呼び剛直な者を擅権と呼ぶような風潮が続けば正人は言を尽くせなくなると諭し、君子には敬して疎く小人には軽んじて狎れる態度こそ興亡・安危の分かれ目であり、内外に私なく上下相信じることが要だと説いた。
  • 太宗は手詔でこれを称え優詔で納れた。長孫無忌に「即位の初め、上書する者は『君主は威権を独運すべき』とか『兵を耀かし四夷を威圧すべき』と言ったが、魏徵だけは『武を偃せ文を興し、徳を布き恵みを施せば中国が安んじて遠人は自ずから服す』と勧めた、私はこれに従い天下は大いに安んじた、絶域の君長も朝貢し、これは皆魏徵の力である」と述べた。

魏徵――その他の諫言と逸話

  • 上封事する者が多く実情に沿わないとして太宗が咎めようとした際、徵は「古の誹謗の木の意義と同じ、当を得ていれば陛下の益、当を得ていなくても国家に損はない」と諫め、太宗はこれを容れた。
  • 洛陽宮積翠池の宴で群臣が賦詩した際、太宗は《尚書》を詠み、徵は西漢の高祖受降・鴻門の会・叔孫通の儀礼制定を詠んで「終には叔孫の礼に頼って初めて皇帝の尊きを知った」と結び、太宗は「魏徵の言は常に礼を以て私を約束する」と評した。
  • 《五禮》修定の功で一子を縣男に封じる際、徵は自らの孤兄の子叔慈に譲ることを願い出て、太宗は「卿のこの心は俗を励ますに足る」と許した。
  • 貞觀十二(638)年、禮部尚書王珪が「三品以上が親王に途で会えば車を降りるのは礼に反する」と上奏、太宗は「卿らは自ら尊く我が子を卑しめるのか」と反発したが、徵は「親王の班次は三公の下、古事にも今の国憲にも合わない」と述べ、太宗は「太子は君となるべき者、太子がなければ母弟が継ぐ、なぜ我が子を軽んじるのか」と問うたが、徵は「殷は兄終弟及、周以降は嫡長子相続が庶孽の窺覦を絶ち禍乱の源を塞ぐための深い慎みだ」と答え、太宗は王珪の奏を許した。
  • 皇孫誕生の宴で太宗は「貞觀以前、天下平定に随行し艱険を共にした功は玄齡に及ぶ者なく、貞觀以後、忠讜を献じ国を安んじ顔を犯して正諫し私の過ちを正したのは魏徵のみ、古の名臣もこれに勝るまい」と述べ、自ら佩刀を解いて二人に賜った。
  • 徵は戴聖《禮記》の編次の乱れを整理し《類禮》二十巻を撰し、太宗はこれを善しとし物千段を賜り太子・諸王にも配布、秘府に蔵した。
  • 西域に葉護可汗を立てる使者を送った際、別に金銀帛を持たせ諸国で馬を市おうとしたが、徵は「可汗を立てる名目で馬を買えば、諸蕃は義を薄くし利を重んじると見て、馬も得られず義も失う」と諫め、漢文帝が千里馬の献上を辞退した故事、光武帝が千里馬を鼓車に宝剣を騎士に賜った故事、魏文帝の求珠を蘇則が諫めた故事を引き、太宗はこれを容れて中止した。
  • 公卿が封禪を請う中、徵だけが不可とし、太宗が理由を問うと「功は高いが民はまだ恵みを実感せず、徳は厚いが恩沢が行き渡らず、遠夷は義を慕っても求めに応じきれず、瑞祥はあっても密ではなく、豊作が続いても倉廩はまだ充実していない、十年病んだ人がすぐ米一石を背負って百里歩けないのと同じ」と答え、伊洛以東・海岱にかけて人煙が絶え道路が荒廃している現状で夷狄に虚勢を見せることを危ぶみ、太宗はこれを退けられなかった。その後、右僕射の欠員に徵を任じようとしたが固辞された。
  • 皇太子承乾が徳業を修めず魏王泰の寵愛が高まる中、太宗は「今の朝臣で忠謇なのは魏徵に勝る者はない、彼を皇太子の傅とし天下の望みを絶つ」と述べ、貞觀十六(642)年、太子太師・知門下省事のまま拝命。徵は病を理由に辞退したが、太宗は「漢の太子に四皓が助けたように、私も卿に頼るのは同じ意味だ」と詔した。

魏徵――晩年と死

  • その年、病が篤くなり中使が絶えなかった。徵の宅に正寝がなかったため、太宗は自らの小殿の材料を割いて徵の邸を五日で造営させ、素褥・布被を賜り、その質素好みに応えた。病篤くなると太宗自ら再度見舞い涙を流し望みを問うと、徵は「嫠婦(寡婦)は自らの機織りの糸を憂えず宗周の亡びを憂う」と答えた。数日後、太宗は夢に平生の徴を見、翌朝徵の薨去が奏された。享年六十四。太宗自ら哭し五日間廃朝、司空・相州都督を追贈、諡は文貞、羽葆鼓吹・班劍四十人、絹布千段・米粟千石を賻い、昭陵に陪葬。葬送の際、妻裴氏は「徵は生前倹素、一品の礼で葬れば意に反する」として辞退し、布車に柩を載せ文彩の飾りを付けなかった。太宗は苑西楼に登り喪を望み哭し、百官に郊外まで見送らせ、自ら碑文を作り石に書した。後に実封九百戸を追賜した。
  • 太宗は「銅を鏡とすれば衣冠を正し、古を鏡とすれば興替を知り、人を鏡とすれば得失を明らかにできる、私はこの三鏡を保ち己の過ちを防いできたが、魏徵の死で一鏡を失った」と嘆いた。徵の死後、遺した表の草稿に「天下の事には善悪があり、善人を任じれば国は安んじ、悪人を用いれば国は乱れる、公卿の間には愛憎があり、憎めば悪のみ見え、愛せば善のみ見える、愛憎の間で詳慎し、愛しても悪を知り憎んでも善を知り、邪を去るに疑わず賢を任じるに二心なければ興る」とあった。太宗はこれを侍臣に示し「公卿は笏に書き知れば必ず諫めよ」と命じた。
  • 徵は容貌は凡庸だったが胆智があり、顔を犯して諫める際は帝が激怒しても顔色を変えなかった。かつて中書侍郎杜正倫・吏部尚書侯君集を宰相の材と密かに推薦していたが、徵の死後、正倫は罪で黜せられ君集は謀反で誅殺され、太宗は徵が朋党を組んでいたのではと疑い始めた。また徵が生前の諫諍の言辞往復を自ら記録し史官起居郎褚遂良に示していたことを知り、太宗はさらに不快に思った。かねて衡山公主を徵の長子叔玉に降嫁させる約束があったが、太宗は手詔でこれを停め、徵の家は次第に衰えた。
  • 徵には四子、叔琬・叔璘・叔瑜(原文の記載どおり、四子とあるが三名のみ列挙)。叔玉が爵位を継ぎ國公、光祿少卿に至る。叔瑜は潞州刺史、叔璘は禮部侍郎、則天の時に酷吏に殺された。神龍初、叔玉の子膺が鄭國公に継封された。叔瑜の子華は開元初、太子右庶子。

史論

  • 史臣曰く。私はかつて漢史《劉更生傳》を読み、王氏の擅権を論じ漢祚の移りを恐れた上書を見たが、漢成帝は悟らず、更生は憂え嘆きつつも禍を顧みず極言した、その忠誠の篤さよ。当時、諫言する者は多かったが、谷永・楊興の上言は奸利を図り賊臣の手先となり、梅福・王吉の言は古道に近いが事情に切実でなかった。諫を納れ賢を任じるのは容易ではない。私は《魏公故事》を読み、太宗との政術についての往復問答は数十万言に及び、その匡過弼違は近くに例を取り博く類を連ね、前代の諍臣も及ばぬものであった。その実は道義に根ざし律度として発し、身正しく心強く、上は時の主に背かず下は権幸に阿らず、内は親族を侈らせず外は朋党を作らず、時に逢って節を改めず地位を図って忠を売らなかった。載せる四篇の上疏は万代の王者の法となる。漢の劉向、魏の徐邈、晉の山濤、宋の謝朏も才はあったが、文貞(魏徵の諡)の雅道に比べれば及ばぬところがあろう。前代の諍臣は魏徵ただ一人である。
  • 贊にいう。智者は諫めないことがあり、諫めても智とは限らない。智者が言を尽くせば国家の利となる。鄭公(魏徵、鄭國公)は節度に達し才は経世済民に周く、太宗はこれを用い子孫は長く世を保った。