沿革と概説
- 黄帝が車服を作り出して以来、上古は簡素で等威の別がなかった。三皇五帝は制度を継承せず、暦法や服色を改めた。周が衰えると諸侯が僭越し、装飾を極めた。秦は戦国の礼を折衷し、鹵簿・金根車・大駕・法駕の制度を備え、千乗万騎の規模は『舜典』『周官』の記述を超えた。漢はこれを継承し、乗輿三駕と呼び儀衛の盛んなることは比類なかった。
- 後漢の明帝は儒者に命じて『曲台記』を考証させ、『周官』の五輅六冕の文と山龍藻火の数に基づいて法服を制定したが、実際には行われず金根車に乗るのみであった。その後、後魏・北斉では輿服が奇異となり、隋に至って統一され旧儀が復活した。
隋制の車制と服制
- 隋の制度では車に四等(亙幰車・通幰車・軺車・輅車)があった。当初は五品以上に偏幰車を許したが不体裁として廃止し亙幰車に代えた。三品以上は通幰車(青壁)、一品は油幰朱網の軺車、輅車のみ勅許を得た者だけが乗ることができた。馬の珂は一品以下九子、四品七子、五品五子と定めた。
- 衣裳には常服・公服・朝服・祭服の四等があった。
- 常服: 平巾幘・牛角の箄簪・紫衫・白袍・靴・起梁帯。五品以上は金玉の鈿飾、犀角の簪を用いる。武官はすべてこれを着用し、六品以下は緋色の衫を着る。大仗に陪立する五品以上及び親侍は両襠縢蛇を加え、勲侍はこれを除く。
- 公服: 弁冠・朱衣裳・素裳革帯・烏皮履。弁は烏漆紗、簪導は象牙。五品以上は鹿胎の弁、犀角の簪導を用いることもあり、玉琪の飾りを一品九琪・二品八琪・三品七琪・四品六琪と等差をつけた。三品以上は紛・鞶囊を革帯の後ろに佩び、その上に玉珮を加える。鞶囊は二品以上金縷、三品以上銀縷、五品以上綵縷とし、文官は平常の参内・在庁時にこれを常服とした。
- 朝服: 親王は遠遊三梁冠(金附蟬・犀簪導・白筆)。三師三公以下の多くの官はそれぞれ進賢冠・武弁幘・高山冠などを着し、絳紗単衣・白紗内単・皁の領褾襈裾・白練の裙襦・絳の蔽膝・革帯(金飾の鈎䚢)・方心曲領・紳帯・玉鏢金飾の剣(または金鏢)・山玄玉の佩・綬・韈・烏皮舄を着用する。三品以上は緑綬、四五品は青綬を用い、玉環の有無や剣珮綬の省略は品階により差がある。綬の色目(纁朱綬・緑綬・紫綬・青綬)はそれぞれ四采・三采の配色と長さ・幅が定められていた。
- 祭服: 玄衣纁裳の冕に旒を垂らしたもので、綬・珮・剣の数は朝服に準じ、章紋(七品以下は逓減、六品以下は無章)に差があった。
- 文武官はみな笏を執り、五品以上は角牙製、六品以下は竹木製とした。
- 当時、内外の官には秩序があり、車服による身分の区別が明確であったが、越王侗が東都で即位すると詔してこれを停廃し、以後は次第に乱れて隋の滅亡に至った。
唐の車制――五輅八等
- 唐の制度では天子の車輿に玉輅・金輅・象輅・革輅・木輅の五輅があり、耕根車・安車・四望車を合わせて八等とし、いずれも供御の用に充てた。ほかに指南車・記里鼓車・白鷺車・鸞旗車・辟悪車・軒車・豹尾車・羊車・黄鉞車があり、豹尾車・黄鉞車は武徳年間にはなく貞観以後に加えられた。黄鉞車は天宝元年に金鉞車と改称された。属車十二乗も儀仗に用い、大駕行幸では鹵簿の前後に、大陳設では儀衛の左右に配された。
- 玉輅: 青質で玉飾。左に青龍、右に白虎を画き、金鳳翅を飾り、黄屋左纛。左に十二旒の升龍旗、右に長さ四尺広さ三尺の闟戟を載せる。蒼龍の馬を駕し、鑾は十二、鈴は二を軾に付す。祭祀・納后に用いる。
- 金輅: 赤質、金飾。赤の駵馬を駕す。郷射・祀還・飲至に用いる。
- 象輅: 黄質、象飾。黄の駵馬を駕す。行道に用いる。
- 革輅: 白質、革張り。白の駱馬を駕す。巡狩・臨兵事に用いる。
- 木輅: 黒質、漆塗り。黒の駵馬を駕す。畋猟に用いる(五輅の蓋・旌旗・鞶纓の色はいずれも輅本体の色に従い、蓋の裏はみな黄とする)。
- 耕根車: 青質、蓋三重。籍田の耕作に用いる。
- 安車: 金飾、重輿・曲壁。八鑾。臨幸に用いる。
- 四望車: 犢車の制に同じく金飾。八鑾。拝陵・臨吊に用いる。
- 高宗は輅に乗るのを好まず、大礼には輦を用いるようになり、則天武后以後は常態化した。玄宗はさらに輦も礼にかなわないとして廃止し、開元十一年冬の南郊祭祀では往路は輅、帰路は騎馬とした。以後の行幸・郊祀では遠近を問わずみな儀衛の中で騎馬とし、五輅や腰輿の類は鹵簿に陳列するだけとなった。
皇后・皇太子・王公以下の車
- 皇后の車には重翟車・厭翟車・翟車・安車・四望車・金根車の六等がある。
- 重翟車: 青質、金飾。箱は重翟の羽で飾り、青油の纁、朱裏の通幰、紫の帷、朱の絡網。八鑾、蒼龍の馬。受冊・従祀・享廟に用いる。
- 厭翟車: 赤質。紅錦の帷。赤い駵馬。采桑(親蚕)に用いる。
- 翟車: 黄質。白紅錦の帷。黄の駵馬。帰寧に用いる。
- 安車: 赤質、金飾。四馬。臨幸・弔に用いる。
- 四望車: 朱質。拝陵・臨吊に用いる。
- 金根車: 朱質。日常の通行に用いる。
- 皇太子の車輅には金輅・軺車・四望車がある。
- 金輅: 赤質、金飾。旗九旒、赤の駵馬四頭。従祀・正冬の大朝・納妃に用いる。
- 軺車: 金飾、紫幰幟朱裏、馬一頭。五日毎の常参・朝享・出入に用いる。
- 四望車: 金飾、紫油纁、馬一頭。弔問に用いる。
- 王公以下の車輅は、親王・武職一品は象飾の輅、二品三品は革輅、四品は木輅、五品は軺車とし、旒の数は一品九旒から四品六旒まで差等があった。
- 内命婦の夫人は厭翟車、嬪は翟車、婕妤以下は安車に乗り、それぞれ馬二頭を駕す。外命婦・公主・王妃は厭翟車、馬二頭。一品以下は白銅飾りの犢車(牛を駕す)、二品以下は油纁・絡網を省き、四品は青の偏幰とした。
- 唐初以来、三公以下の車輅はすべて太僕寺が造り管理し、冊命の拝受や二時の巡陵・婚葬の際に貸与されたが、その後はもっぱら騎馬のみとなった。
天子の衣服十二等
- 唐制の天子の衣服には大裘の冕・袞冕・鷩冕・毳冕・繡冕・玄冕・通天冠・武弁・黒介幘・白紗帽・平巾幘・白帢の十二等があった。
- 大裘冕: 旒なし。黒羔皮の裘に玄領褾襟縁、朱裳、白紗中単。玉具の剣、白玉の双珮、玄組の双大綬(六采)。天神地祇を祀る際に着用。
- 袞冕: 白珠十二旒。玄衣・纁裳に十二章(衣に日・月・星・龍・山・華蟲・火・宗彝の八章、裳に藻・粉米・黼・黻の四章)を織り出す。祭祀・廟謁・上将出征の送迎・飲至・即位・元服・納后・元日受朝に用いる。
- 鷩冕: 七章(衣に華蟲・火・宗彝、裳に藻・粉米・黼・黻)。有事還主の際に用いる。
- 毳冕: 五章(衣に宗彝・藻・粉米、裳に黼・黻)。海嶽を祭る際に用いる。
- 繡冕: 三章(衣に粉米、裳に黼・黻)。社稷・帝社を祭る際に用いる。
- 玄冕: 衣は無章、裳に黼一章。蜡祭・朝日夕月に用いる。
- 通天冠: 金博山・附蟬十二首、珠翠を施す。絳紗の裏、白紗中単。祭祀の還御・冬至朔日の受朝・臨軒拝・元会・冬会に用いる。元服前は双童髻・空頂黒介幘とする。
- 武弁: 金附蟬、平巾幘。講武・出征・四時蒐狩・大射・禡祭・類祭・宜社・賞祖・罰社・纂厳に用いる。
- 弁服: 麤皮の弁に十二の白玉琪、絳紗衣・素裳。朔日受朝に用いる。
- 黒介幘: 白紗単衣・白裙襦。拝陵に用いる。
- 白紗帽: 白裙襦、烏皮履。視朝・聴訟・宴見賓客に用いる。
- 平巾幘: 紫褶・白袴、玉具装。乗馬の際に用いる。
- 白帢: 大臣の喪に臨む際に用いる。
- 太宗はさらに翼善冠を制定し、朔望の視朝に常服・帛練裙襦とともに用い、袴褶を着る場合は平巾幘と通用させて令に定めた。常服は赤黄の袍衫・折上頭巾・九環帯・六合靴で、いずれも魏・周に起源し戎事に便利なものであった。貞観以後は元日・冬至の受朝と大祭祀を除きみな常服のみとなった。
顯慶元年の大裘冕・袞冕論議
- 顯慶元年九月、太尉長孫無忌ら修礼官が奏上した。武徳の『衣服令』では天子が天地を祀る際は旒のない大裘冕を着るとするが、無忌・于志寧・許敬宗らは『礼記』郊特牲・月令等を検討し、袞冕こそ歴代の通例(漢明帝・魏晋・後魏北斉隋)に合致すると論じた。また『新礼』が社稷を祀る際に四旒三章の繡冕、日月を祀る際に無章の玄冕を天子に用いさせているのは、本来四五品の服であり三公九卿の服(袞冕・毳冕・鷩冕)と釣り合わないと指摘し、歴代の故実に従い諸祭祀にはすべて袞冕を用いるべきと上奏し、勅許された。
- また無忌らは、皇帝が諸臣・五服の親の喪に哀を挙げる際に令が定める「白帢」は近代由来で稽古の根拠がなく、素服に改めるべきと奏し、これも許された。以後、鷩冕以下は天子は着用せず、白帢も廃されたが、令文は改訂されないまま残った。
- 開元十一年冬、玄宗が南郊祭祀に臨むにあたり、中書令張説は、令では大裘冕(『周礼』に基づく質実な服)を用いるとあるが永徽二年に高宗が実際に用いたのに対し、顯慶年間の改訂では袞冕(『礼記』郊特牲に基づく文飾の服)が則天武后以来用いられてきたと奏し、両冕を製作して玄宗に呈した。玄宗は大裘が質朴で旒もなく寒暑に通用しないとしてこれを廃し、以後、元正朝会は袞冕・通天冠、大祭祀は袞冕を用いることとし、他の服制は令文にあっても行われなくなった。開元十七年、五陵を朝拝する際は素服のみとし、朔望の常朝も常服を用い、翼善冠も廃止された。
皇太子の衣服
- 『武徳令』では皇太子の衣服に袞冕・具服遠遊三梁冠・公服遠遊冠・烏紗帽・平巾幘の五等があり、貞観以後に弁服・進徳冠が加えられた。
- 袞冕: 白珠九旒。玄衣纁裳に九章(衣に龍・山・華蟲・火・宗彝の五章、裳に藻・粉米・黼・黻の四章)。侍従して祭祀・謁廟・元服・納妃の際に用いる。
- 具服遠遊三梁冠: 金附蟬九首。絳紗袍・白紗中単。謁廟還宮・元日冬至朔日の入朝・釈奠に用いる。
- 公服遠遊冠: 絳紗単衣・白裙襦。五日毎の常服・元日冬至の受朝に用いる。
- 平巾幘: 紫褶・白袴。乗馬に用いる。
- 弁服: 鹿皮の弁、玉琪九。朔望及び視事に兼用。
- 進徳冠: 九琪、金飾。常服・練裙襦や袴褶と通用。
- 永徽以後はもっぱら袞冕・具服・公服のみを用い、乗馬袴の際は進徳冠を用いて他は廃止された。宴服・常服は諸王と同じ紫の衫袍を用いた。
- 開元二十六年、粛宗が皇太子に立てられて冊を受けた際、太常の儀注に「絳紗袍」とあったが、皇太子はこれが皇帝の称と同じであるとして辞退し、玄宗が百官に議させた。尚書左丞相裴耀卿・太子太師蕭嵩らは、令の「絳紗袍」は具服の中の一物にすぎず名称のみを改めればよいとし、「朱明服」と改称することを奏上し、勅許された。
侍臣の服制
- 『武徳令』では侍臣の服に袞・鷩・毳・繡・玄冕及び爵弁・遠遊冠・進賢冠・武弁・獬豸冠の十等があった。
- 袞冕: 青珠九旒。青衣纁裳に九章(衣に龍・山・華蟲・火・宗彝、裳に藻・粉米・黼・黻)。第一品が着用。
- 鷩冕: 七旒、七章。第二品が着用。
- 毳冕: 五旒、五章。第三品が着用。
- 繡冕: 四旒、三章。第四品が着用。
- 玄冕: 裳に黻一章のみ。第五品が着用。
- 爵弁: 旒章なし、玄纓。九品以上が着用。冕服は助祭・親迎・私家の祭祀に用い、羅で作り紬または繒を用いた。
- 冠は遠遊三梁冠(諸王)・進賢冠(三品以上三梁・五品以上両梁・九品以上一梁、三公以下多くの文官)・武弁平巾幘(侍中中書令は貂蟬を加える、武官及び諸省の官)・法冠(別名獬豸冠、御史台の官)・高山冠(内侍省内謁者等)・卻非冠(亭長・門僕)など品階・職掌により区別された。朝服(具服とも)は絳紗単衣・白紗中単・革帯・曲領方心・絳紗蔽膝・剣珮綬などから成り、一品以下五品以上は陪祭・朝饗・拝表の大事に、七品以上は剣珮綬を省いて用いた。公服(従省服)は一品以下五品以上が謁見や公事に用い、六品以下は紛・鞶囊を省いた。綬の色目(親王纁朱綬、一品緑綟綬、二三品紫綬、四品青綬、五品黒綬)はそれぞれ采数・長さ・幅が定められ、鞶囊の材質(金縷・金銀鏤・銀鏤・綵鏤)も品階により異なった。
- 七品以上の文官は朝服に白筆を簪し、武官・爵位者は簪さない。舄履はみな烏色とし、勲官・爵位を有し職事官に任じる者は本官の正服を著る。致仕者・理由あって去官した者が召されて謁見する際は前官の従省服を着る。平巾幘・簪箄導・冠支等の細目、視品府佐・国官・流外官・行署・雑掌・国子太学生・書算学生・州県学生・州県佐史・郷正里正・岳瀆祝史・尚食局主食・典膳局主食・太官署食官署の掌膳・供膳・羊車小史・漏刻生・漏童に至るまで、それぞれ平巾幘・介幘・褠衣・袴褶等の別が細かく定められていた。
- 龍朔二年九月戊寅、司礼少常伯孫茂道は、臣下九章の服が君主の冕服と飾りの龍を共有し尊卑が乱れているとして、雲・麟に龍を代え升山を上とすることを求めたが議は定まらなかった。儀鳳年間、太常博士蘇知機がまた公卿以下の冕服に別の等差を立てることを上表し、有司に議させたところ、崇文館学士校書郎楊炯が反論を奏上した。
- 楊炯はまず太昊庖犧氏・黄帝軒轅氏の故事から説き起こし、『虞書』にいう日月星辰・山龍・華蟲・宗彝・藻・火・粉米・黼・黻の九章はそれぞれ聖王の徳を象徴するものであり、周において袞冕・鷩冕・毳冕・繡冕・玄冕の制が定められた由来を詳述した。蘇知機の「大明冕十二章」の提案については、日月星辰は既に旌旗に用いられ、龍・山・火はすでに古制にあり、雲・麟・鳳・玄亀・水などを新章とする根拠は経典になく不経であると論破した。「鸞冕八章を三公に」の提案も、鸞は太平の瑞であり三公の徳の象徴ではないとし、また「藻」を蓮花と解する蘇知機の説も文意を誤ると批判した。「毳冕六章を三品に」「黼冕四章を五品に」の提案も、王の毳冕と三品の服が同格になり尊卑が乱れる、あるいは古に典拠がないとして退けた。結論として、周公・孔子の定めた法度をみだりに改めるべきでないと論じ、これにより蘇知機の提案は退けられた。
景龍二年、劉子玄の乗馬衣冠論議
- 景龍二年七月、皇太子が国学で釈奠を親修するにあたり、有司の儀注では従臣がみな馬に乗り衣冠を着ることとされていた。太子左庶子劉子玄は、古来大夫以上は車に乗り馬は騑服(添え馬)としたこと、魏晋以降も朝士は牛車を用いたこと、鞍馬は軍旅や戎服の便に供するものであることを述べ、褒衣博帯・革履高冠は本来馬上のものでなく車中の服であり、朝服のまま騎乗すれば馬の驚逸で人が落馬し、履が脱げ、参列の列が乱れる恐れがあるとして批判した。また典拠として引かれる『梁武南郊図』は後世の作画であり、閻立本や張僧繇の絵に見える服飾も後代の考証にすぎないとし、乗馬衣冠の制は廃すべきと論じた。皇太子はこれを容れて外に宣行させ、令に編入して恒式とした。
宴服(常服)の沿革
- 宴服は古の褻服(普段着)で、いまは常服とも呼ばれる。江南では巾褐裙襦、北朝では戎夷の制が混じり、北斉では長帽短靴・合袴襖子など朱紫玄黄を好みに任せて着た。隋代の帝王貴臣は黄文綾袍・烏紗帽・九環帯・烏皮六合靴を多く用い、百官の常服も庶民と同じ黄袍であったが、天子の朝服は帯の環の数(十三環)で差をつけた。烏紗帽は次第に廃れ、折上巾(北周武帝建徳年間に創始)が貴賤通用となった。晋公宇文護が袍に下襴を加えることを始め、大業元年、煬帝は牛弘・宇文愷・虞世基・許善心・袁朗らに命じて衣冠の等差を新たに定め、五品以上に朱紫の通服を許した。大業六年、行幸の従駕者はみな戎衣とし、五品以上は紫袍、六品以下は緋・緑、胥吏は青、庶人は白、屠商は皁、士卒は黄とした。
- 武徳初年は隋の旧制により天子の宴服(常服)は黄袍・衫とし、のち赤黄を用いるようになり士庶が赤黄の衣服雑飾を用いることを禁じた。武徳四年八月の勅では、三品以上は紫(玉飾)、五品以上は朱(金飾)、六品以上は黄(六七品は銀飾、八九品は鍮石飾)、流外・庶人は黄(銅鉄飾)と定め、笏の材質・形状も品階により差をつけた。貞観四年にはさらに三品以上紫、五品以下緋、六七品緑、八九品青と改め、帯は鍮石とした。貞観五年八月には七品以上に緑の龍甲双巨十花綾、九品以上に青の絲布・雑小綾を賜い、太宗は自ら翼善冠を、貴臣は進徳冠を着用するようになった。
- 龍朔二年、孫茂道の奏により八九品の色を碧に改め、朝参の場では黄を兼用することを許した。総章元年、黄の使用を一切禁じた。上元元年八月には、一品以下は手巾・算袋を帯び刀子・礪石を佩ぶことを許し、文武三品以上は紫(金玉帯)、四品深緋・五品浅緋(金帯)、六品深緑・七品浅緑(銀帯)、八品深青・九品浅青(鍮石帯)、庶人は銅鉄帯と定めた。文明元年七月には旗幟をすべて金色とし、八品以下の服色を碧に改め、京の文官五品以上・六品以下の清官は毎日入朝の際に常服・袴褶を着ることとした。景雲中にはまた上元の故事に依り手巾・算袋を帯びさせ、武官五品以上は佩䪓韘七事(刀・刀子・礪石・契苾真・噦厥・針筒・火石袋)を佩びたが、開元初にこれも廃止された。則天武后天授二年、朝集使の刺史に繍袍を賜い背に八字の銘を繍わせ、長寿三年には岳牧に金字銀字銘の袍を賜い、延載元年には文武三品以上に緋紫単羅銘襟背衫を賜い、官職ごとに獅子・麒麟・虎・豹・鷹・鶻・豸・盤龍鹿・鳳池・雁などの文様で飾らせた。
- 武徳以来、巾子(上平頭の小様)が文官名流の間に用いられ、則天朝では貴臣に高頭巾子(武家諸王様と呼ばれた)が賜われた。中宗景龍四年三月には宰臣以下に内様巾子を賜い、開元以来は紫皁の官絁による頭巾・平頭巾子が文官士人の間で流行し、玄宗開元十九年十月には供奉官・諸司長官に羅頭巾・官様巾子が賜われ、今日に至るまで用いられている。
- 天宝十載五月、諸衛の旗幡隊仗の色を従来の緋色から赤黄色に改め、土徳に符合させた。
- 高祖武徳元年九月、銀菟符を銀魚符に改めた。高宗永徽二年五月、開府儀同三司及び京官の文武職事四五品に随身魚を給した。咸亨三年五月、五品以上に銀飾りの新魚袋を賜い、三品以上には金装の刀子・礪石一具を賜った。垂拱二年正月、諸州の都督刺史も京官と同様に魚袋を帯びることとした。天授元年九月、内外の佩魚を亀に改めた。久視元年十月、職事三品以上の亀袋は金飾、四品は銀飾、五品は銅飾とし、官給とした。神龍元年二月、内外官五品以上は旧に依り魚袋を佩び、六月には郡王・嗣王に特に金魚袋を許した。景龍三年八月には特進にも佩魚を許し、散職の佩魚はこれに始まる。武徳以来、正員帯闕官のみが佩魚したが、員外・判試・検校の官も則天・中宗以後は佩魚しないまま帯びるようになり、去任・致仕すれば魚袋を返上した。開元九年、張嘉貞が中書令として致仕者の終身佩魚を奏請しこれが栄寵とされ、理由あって去任した者にも佩魚が許された。以後、緋紫の賜与には魚袋が伴うようになり、これを章服と呼び、魚袋を佩び朱紫を服する者が増えた。
- 梁制の袴褶は近代の従戎の服で、纘厳(戒厳)の際は文武百官みなこれを着る。車駕親戎の際は袴を縛って舒散させない。中官は紫褶、外官は絳褶とし、舄は皮製とした。冠衣が朱色の者は赤舄、烏衣の者は烏舄を用い、褶服のみ靴(胡履、戎服の便のためのもの)を用いた。
- 旧制では乗輿の案褥・床褥・床帷はいずれも紫を飾りとしたが、天宝六載、礼儀使太常卿韋縚の奏請により御袍と同じ赤黄を飾りとするよう改められた。
皇后・命婦の服
- 『武徳令』では皇后の服に褘衣・鞠衣・鈿釵礼衣の三等があった。
- 褘衣: 首飾は花十二樹と両博鬢。深青の織成で翬翟の文様十二等。受冊・助祭・朝会などの大事に用いる。
- 鞠衣: 黄羅製、雉の文様なし。親蚕に用いる。
- 鈿釵礼衣: 十二鈿、雑色、珮綬なく舄の代わりに履。宴見賓客に用いる。
- 皇太子妃の服も花九樹・両博鬢の首飾、褕翟(青地・搖翟の文様九等)・鞠衣・鈿釵礼衣(九鈿)の三等に準じた。
- 内外命婦の服は花釵と両博鬢、翟衣(青質羅、雉の文様を重ねて九等より品階に応じて減らし、一品花鈿九樹・翟九等から五品花鈿五樹・翟五等まで差等)、鈿釵礼衣(一品九鈿から五品五鈿)などに分かれ、内命婦は受冊・従蚕・朝会、外命婦は嫁・受冊・従蚕・大朝会にこれを用いた。六尚・宝林・御女・采女・女官等の礼衣は雑色で首飾りなし、七品以上は大事に礼服・平常は公服、九品以上は大事・平常とも公服とした。東宮の女官も同様とし、女史は半袖裙襦を着た。諸公主・王妃の珮綬、諸王の県主・内命婦は品に准じ、外命婦五品以上は夫・子の品に准じた。婦人の宴服は令により夫の色に依るが、公庭でない場では風俗が奢侈に流れ、令格によらず綺羅錦繍を好みのままにし、宮掖から庶民に至るまで貴賤の別がなくなった。
婦人の乗馬用被り物の変遷
- 武徳・貞観の頃、宮人が騎馬する際は斉・隋の旧制に依り羃䍦(全身を覆う被り物)を用い、王公の家でも同様であった。永徽以後は帷帽(裙を頸まで垂らす)が用いられて次第に露出が進み、禁令が出ても間もなく元に戻った。咸亨二年の勅では、百官の家族が路上で帷帽のみを用い羃䍦を廃し、車に乗らず簷子に乗るようになった風潮、命婦の朝謁で馳せ乗る車に禁門を入る失礼を厳しく戒めたが、則天武后以後は帷帽が広く行われ羃䍦は廃れた。中宗即位後は宮禁が緩み、羃䍦の制はまったく行われなくなった。開元初、従駕の宮人は胡帽を着け化粧を露わにし、士庶の家もこれに倣って帷帽は絶えて用いられなくなった。さらに露髻で馳騁し、丈夫の衣服・靴衫を着る婦人も現れ、尊卑内外の別がなくなった。
- 奚車は契丹の塞外で用いられていたものが開元・天宝中に京城に伝わり、兜籠は巴蜀の婦人が用いていたものが乾元以来、蕃将が朝に多く出仕するようになり担ぎやすいことから京城に広まり、車輿に代わった。
- 武徳以来、婦人の履の形は重々しく、線靴もあった。開元以来、婦人はもっぱら軽妙な線鞋を用い、侍女は履を用いた。臧獲(下僕婢女)の類はみな襴衫を着た。太常寺の楽は胡曲を尚び、貴人の饌はみな胡食を供し、士女はこぞって胡服を着るようになり、こうした風潮が安史の乱(范陽羯胡の乱)の遠因ともなった。
太極元年、唐紹の上疏(明器と障車の禁制)
- 太極元年、左司郎中唐紹が上疏した。王公以下の送葬の明器等は令に品秩ごとの規定があり、孔子は「明器は備物にして用いるべからず、芻霊(藁人形)を善しとし、俑(人形)を作る者は不仁」と説き、俑は生人に似せたもので殉葬に近いゆえに不仁とされたという。しかし近頃は王公百官が競って厚葬を行い、生き写しの偶人・木馬を作って路人に誇示し、破産してまで模倣しあう風潮が士庶にまで及んでいるとし、明器はすべて令式に依り墓所に陳列するのみとし衢路を行進させないよう禁制を求めた。
- また唐紹は、士庶の親迎の礼において、近頃「障車」と称して道を塞ぎ酒食や財物を強要する風習が下俚から王公にまで広がり、音楽を大々的に催して徒党を集め道を遮り、財物を求める額は万を越えることもあると述べ、これが名教を損ない風俗を害するものとして禁断を求めた。犯した者のうち蔭位のある家は名教に背いた罪に准じて簿に付し、蔭位のない者は杖六十に処し、それぞれ本罪も科すことを求めた。