舊唐書卷十九 武宗

武宗至道昭肅孝皇帝、諱炎(初名瀍)、穆宗の第五子(814–846年)。文宗の急死後、宦官仇士良らに擁立され即位した。宰相李徳裕を重用し、回鶻の侵入や昭義の劉稹の反乱を武力で平定する一方、道教に傾倒して会昌の廃仏を断行し、多数の寺院を廃して僧尼を還俗させた。

年表(11件)

出自と生い立ち

  • 武宗、諱は炎、穆宗の第五子。母は宣懿皇后韋氏。元和9年(814年)6月12日、東宮で生まれる。長慶元年(821年)3月、潁王に封じられる(本名は瀍)。開成年間、開府儀同三司・検校吏部尚書を加えられ、百官の例に依り毎月俸料を支給された。かつて文宗は荘恪太子が非業の死を遂げたことを悔い、敬宗の子・陳王成美を皇太子に立てたが、開成4年(839年)冬10月に宣制したのみで、冊礼を挙げられずにいた。

開成五年(840年)

  • 正月2日、文宗が急病に倒れる。宰相李珏・知樞密劉弘逸は密旨を奉じ、皇太子に監国させようとした。しかし両軍中尉の仇士良・魚弘志は詔を偽って十六宅から潁王を迎え、「皇太弟に立て軍国政事を権知させる、陳王成美は幼年ゆえ改めて陳王に復す」という趣旨の詔を発した。この夜、仇士良は兵を率いて皇太弟を少陽院に迎え、百官は東宮の思賢殿で謁見した。3日、仇士良は仙韶院副使尉遲璋を捕らえて殺し、その一族を誅した。4日、文宗が崩じ、遺詔により皇太弟が柩前で即位、宰相楊嗣復が冢宰を摂した。14日、正殿で冊を受ける。時に27歳。陳王成美・安王溶はその邸第で死んだ。かつて楊賢妃が文宗に寵愛される一方、荘恪太子の母王妃は寵を失い恨みを抱いたため楊妃に讒言され、王妃は死に太子は廃された。開成末年、文宗は病多く後嗣なく、賢妃は安王溶を後継に立てるよう請うたが、文宗が宰臣李珏に諮ると李珏は反対し、結局陳王が立てられた。ここに至り、仇士良は武宗擁立の功を独占しようとして安王擁立の旧事を暴いたため、安王・陳王・楊賢妃はいずれも死を賜った。
  • 2月、穆宗妃韋氏(帝の母)を宣懿皇太后と追諡。仇士良(右軍中尉)を楚国公、魚弘志(左軍中尉)を韓国公に封じ、崔鄲・崔珙をともに同中書門下平章事とする。2月15日の玄元皇帝降誕日を降聖節と定め、休暇1日とした。
  • 3月、宮人劉氏・王氏をともに妃とする。朔望に刑法官を入閣させる制を停止。
  • 5月、6月12日の皇帝誕生日を慶陽節と定める。宣懿太后を太廟に祔す。武宗は穆宗陵(光陵)を開いて合祔しようとしたが、中書門下は「園陵はすでに安定し、再び陵を開けば神霊の安寧を損なう恐れがある」旨を奏して諫止し、旧墳に増築して福陵と名付けるにとどめた。また留司の攝官・正官の給与配分について、正官の料銭が雑給より少ない不均衡を是正すべく、毎貫200文を割いて攝官に与える案を奏し、許可された。
  • 秋7月、検校礼部尚書・華州刺史陳夷行を、改めて中書侍郎・同平章事とする。
  • 8月17日、文宗を章陵に葬る。知樞密の劉弘逸・薛季稜が禁軍を率いて霊駕を護送したが、二人はかねて文宗に重用されていたため仇士良に憎まれ、身の危険を感じて挙兵し仇士良・魚弘志を討とうと謀った。鹵簿使の兵部尚書王起と山陵使の崔稜がその企てを察知して先に諸軍へ告げたため、この日、劉弘逸・薛季稜は誅殺された。門下侍郎・同平章事楊嗣復は検校吏部尚書・潭州刺史・湖南都団練観察使に、中書侍郎・同平章事李珏は検校兵部尚書・桂州刺史・桂管防禦観察等使に、御史中丞裴夷直は杭州刺史に、いずれも劉弘逸・薛季稜の党に連坐して左遷された。易定で軍乱が起き節度使陳君賞が逐われたが、君賞は豪傑数百人を糾合して城に戻り、乱を起こした兵士を尽く誅して軍城は再び安定した。
  • 9月、淮南節度使・検校尚書左僕射李徳裕を吏部尚書・同中書門下平章事とし、まもなく門下侍郎を兼ねさせる。宣武軍節度使・検校吏部尚書・汴州刺史李紳が代わって淮南を鎮する。帝は藩邸にいた頃から道術修攝を好んでおり、この秋、道士趙帰真ら81人を禁中に召して三殿で金籙道場を修めさせ、自ら三殿に行幸して九天壇で法籙を親受した。右拾遺王哲が「即位当初から過度に崇信すべきでない」と上疏したが、聞き入れられなかった。
  • 11月、鹽鐵転運使の奏により江淮以南で茶税を復活。魏博節度使何進滔が卒し、三軍はその子重霸を推して留後の事を知らせた。

會昌元年(841年)

  • 正月、郊廟の礼を行い、礼が終わって丹鳳楼に御し、大赦・改元。
  • 2月、淮南節度使・検校吏部尚書李紳を中書侍郎・同平章事とする。中書は戸部度支の人事について、諸軍からの奏請で本司の郎吏が有名無実化している弊を正すよう奏し、許可された。車駕は昆明池に行幸。仇士良に紀功碑を賜い、右僕射李程にその文を作らせた。
  • 3月、湖南観察使楊嗣復を潮州司馬、桂管観察使李珏を端州司馬、杭州刺史裴夷直を驩州司戸に貶す。宰臣李徳裕は司空に進む。3月壬申、李徳裕・陳夷行・崔珙・李紳らが「憲宗には中興の功があり百代不遷の廟とすべき」と奏し、帝は「至当」と応じたが、なお議は続き結局実行されなかった。故中書令・晋国公裴度に太師を贈る。山南東道で蝗害。龍首池に霊符応聖院を造営。
  • 4月辛丑、「憲宗実録の旧本は未整備なので史官に重修させよ。旧本は破棄せず新撰完成後に併せて奏進せよ」と敕す。李徳裕はさきに憲宗廟の不遷を請うたが議者に阻まれ、また実録に父李吉甫の不善な事跡が記されるのを恐れて改撰を請うたもので、朝野はこれを非難した。
  • 5月辛未、中書門下が奏す。「六典によれば隋は諫議大夫7人を置き従四品上とした。大暦2年に門下侍郎を正三品に昇格させて以来、両省に四品官が欠けている。諫議大夫を隋の旧制に依り従四品に昇格させ左右に分け、また御史中丞も大夫に次ぐ要職でありながら秩が低いため従四品に昇格させたい」とし、許可された。
  • 6月、禿鶖鳥が禁苑に集まる。庚子夜五更、小流星50余りが乱れ飛ぶ。魏博兵馬留後何重霸を検校工部尚書・魏州大都督府長史・天雄軍節度使とし、重順の名を賜う。中書の奏により宰相が毎月時政記を史館に送る旧例(姚璹の故事)を復活。衡山道士劉玄靖を銀青光禄大夫・崇玄館学士とし広成先生の号を賜い、道士趙帰真とともに禁中で法籙を修めさせる。左補闕劉彦謨がこれを切諫して河南府戸曹に貶される。今後、封事の処理は「留中不下」ではなく「御史台へ回付」を原則とする敕を下す。
  • 7月己巳、北方に長時間見える流星。関東で大蝗害。襄州・郢州・江左で大水。彗星が室壁の間に再び現れる。
  • 8月、回鶻の烏介可汗が使者を遣わして遭難を告げる。黠戛斯に攻められ前可汗が死に、部人が烏介を可汗に推したこと、国が破散したため太和公主を奉じて南下し大国(唐)を頼る旨。烏介が塞上に至った頃、大首領嗢没斯は赤心宰相と相攻めて赤心を殺し、部下数千帳を率いて西城近くに退いた。天徳防禦使田牟がこれを上聞。烏介はまた宰相頡干迦斯に上表させ、天徳城を借りて公主を安んじ、糧食・牛羊の供給を乞うた。金吾大将軍王会・宗正少卿李師偃をその牙帳に遣わして宣慰し、公主の入朝を促し、粟2万石を賑給させた。
  • 9月、幽州で軍乱、節度使史元忠を逐い、牙将陳行泰を留後に推す。三軍が符節を求めて上章したが、朝廷は許可を保留した。
  • 10月、幽州雄武軍使張絳が軍吏呉仲舒を入朝させ、陳行泰の残虐を訴えて討伐を請い、許された。同月、陳行泰を誅し、張絳を知兵馬使とする。車駕は咸陽で校猟。
  • 11月丁酉朔、壬寅夜、大星が東北に流れ光が地を照らし雷のような音を発し、山崩れ石落つ。室宿に起こった彗星は56日で消えた。太和公主が使者を遣わし、烏介が可汗を自称し冊命を請うていること、漠南に至ったばかりゆえ宣慰使の降臨を乞うていることを伝え、許された。
  • 12月、中書門下が実録編纂の体例を奏す。要旨は、禁中の私語は伝聞に基づき浮妄になりがちなので今後は削除すること、宰相・公卿の議論は朝廷で公認された表奏・詔勅に基づくもののみ記載し、私家に伝わる密疏の類は根拠薄弱なので載せないこと。許可された。李徳裕は憲宗実録から父李吉甫の不善な事跡を削らせようと奏し、鄭亜がその意を迎えて削除した。李徳裕はこの条を上奏し直すことで痕跡を隠そうとしたが、士大夫の間で非難の声が上がり、武宗もこれをある程度知っていた。

會昌二年(842年)

  • 正月丙申朔、撫王紘を開府儀同三司・幽州大都督府長史・幽州盧龍節度大使とする。雄武軍使張絳を検校左散騎常侍・幽州左司馬・知両使留後とし、仲武の名を賜う。中書の奏により九宮壇本大祠を中祠に格下げ。宰相崔珙・陳夷行が左右僕射上事の儀注を定める。
  • 2月丙寅、中書が河東・鳳翔・鄜坊・邠寧等道の州県官への課料銭支給が観察使段階で流用され実際の官人に届いていない弊を指摘し、実物を時に応じて支給し観察判官が専任で管理する制、また赴任官人の京債返済負担軽減のため戸部が2ヶ月分の加給料銭を貸し付ける制を提案、許可された。太子太師致仕蕭俛が卒す。牂柯・南詔蛮が入朝。
  • 3月、迴紇烏介可汗を冊立する使者を派遣。振武麟勝節度使劉沔を検校右僕射・太原尹・北京留守・河東節度観察処置等使とし、苻澈に代えて太原の師で迴紇討伐にあたらせる。
  • 4月乙丑朔、李徳裕・崔珙・李紳・牛僧孺らが上章し、尊号「仁聖文武至神大孝皇帝」を加えるよう請う。戊寅、宣政殿で冊を受ける(当初4月9日の予定が雨のため23日に延期)。中尉仇士良が「宰相が赦書で禁軍の衣糧馬草料を減らそうとしている」との讒言を受け激怒したが、帝が両軍中尉を召して赦書は自らの意であり宰相によるものでないと諭すと、仇士良は恐れ入って謝した。元日朝賀の儀注を改定(宰相・両省官も再拝の礼を行う)。天徳が迴紇部族による境内侵擾を奏す。桑の伐採を禁じる敕。
  • 5月、慶陽節の宴の手配を定める。天徳軍使田牟が迴紇の大将嗢没斯ら2600人の投降を奏し、慰労の詔を遣わす。李徳裕、司徒を兼守。太子太師致仕鄭覃が卒す。
  • 6月甲子朔、火星が木星を犯す。丙寅、太白が東井を犯す。迴紇の降将嗢没斯ら2600余人が京師に至る。嗢没斯を検校工部尚書・帰義軍使・懐化郡王とし李思忠の姓名を、迴紇宰相受耶勿を帰義軍副使・検校右散騎常侍とし李弘順の姓名を賜う。
  • 7月、嵐州の田満川が郡に拠って叛き、劉沔がこれを誅す。
  • 8月、迴紇烏介可汗が天徳を過ぎ杷頭烽北に至り、雲州・朔州の北川を掠奪。劉沔に雁門諸関の守備を命じる。迴紇の首領屈武が幽州に降り左武衛将軍同正に任じられる。迴紇の内乱に乗じて討つべきか、朝廷で議論。牛僧孺は防守重視を、李徳裕は「嗢没斯・赤心という頼みを失った迴紇は弱体化しており、今こそ撃つべき」と主張し、武宗はこれを容れた。許・蔡・汴・滑等六鎮の師を徴発し、劉沔を迴紇南面招討使、張仲武(幽州盧龍節度使・蘭陵郡王)を東面招討使、李思忠(河西党項都将)を西南面招討使とし、太原に会軍させる。皇子峴を益王、岐を兗王に、皇長女を昌楽公主、第二女を寿春公主、第三女を永寧公主に封じる。麟徳殿で室韋の首領督熱論ら15人に謁見。太原が迴紇の南進や公主の食糧窮乏を奏す。烏介への詔を発し、迴紇が塞に近づき盟約に背き横水柵下で殺戮を働いたことを難じ、速やかな帰順を促す。
  • 10月、吐蕃の賛普が卒し、論普熱が入朝して告哀、李璟を吐蕃へ弔祭に遣わす。帝は涇陽に行幸し白鹿原で校猟。諫議大夫高少逸・鄭朗らが「校猟が頻繁で万機が廃れる、用兵の折でもあり停止すべき」と諫め、帝はこれをねぎらった。

會昌三年(843年)

  • 正月、出師のため元会を廃す。新任の銀州刺史何清朝を検校太子賓客・左龍武大将軍とし、沙陀・吐渾・党項の兵を率いて振武へ赴かせ劉沔の指揮下に入れる。
  • 2月、百官の私廟設置に関する制限を布告。太原の劉沔が、石雄を遣わして迴鶻の牙帳を襲わせ大同軍から殺胡山で大破し、烏介可汗が負傷して逃走、太和公主を雲州で迎えた旨を奏す。この日、宣政殿で百官が祝賀。武宗は制を発し、迴鶻の敗滅の経緯と劉沔の功、太和公主帰還の喜びを述べ、迴紇の残党を討伐し、京・東都の迴紇関連寺院・摩尼寺の財物没収と関係者の還俗・処罰を命じた。石雄を銀青光禄大夫・検校左散騎常侍・豊州刺史・御史大夫・豊州西城中城都防禦・本管押蕃落等使、劉沔を検校尚書左僕射、張仲武を検校尚書右僕射とする。黠戛斯の使者注吾合素が入朝し名馬2匹を献じ、可汗が迴鶻を破り太和公主を得たことを伝える。中使に注吾合素を太原へ送らせて公主を迎えさせる。烏介可汗は矢傷を負い黒車子へ逃げ込み、黠戛斯に討伐を命じる。
  • 3月、太和公主が京師に到着、百官が章敬寺で出迎え、憲宗・穆宗の二廟に告げる。4月、昭義節度使劉従諫が卒し、三軍はその甥劉稹を兵馬留後に推して節鉞授与を請う。詔使を潞府に遣わし劉従諫の喪を洛陽へ護送させようとしたが、劉稹は朝旨を拒否した。中書門下両省尚書御史台四品以上・武官三品以上に劉稹の処分(誅か赦か)を議させる。
  • 5月、節度使・観察使らの従者数を制限する敕。禁中に望仙観を築く。朝議では「用兵中で中原に事を構えるべきでない、澤潞は親王遥領とし劉稹に権知させ辺境の戦が終わるのを待つべき」との意見が大勢だったが、李徳裕一人が「澤潞は内地であり従来の跋扈を許してきたことがすでに失策、劉稹を討たねば必ず殄びる」と主張、武宗もこれに同意した。以後、諫官の反対上疏が相次いだ。
  • 6月、西内神竜寺が火災。左軍中尉楚国公仇士良が卒す。
  • 秋7月戊子、宰相が幽州の迴鶻平定・鎮魏の劉稹討伐について使者派遣と三鎮軍情の偵察を奏し、当初張賈を候補としたが「剛にして気を負い不安あり」として李回を遣わすことに決した。
  • 8月壬戌、火星が輿鬼を犯す。萬年県東市で火災。黠戛斯の使者諦徳伊斯難珠が入朝。右僕射・平章事陳夷行を検校司空・河中尹・御史大夫・河中節度観察等使とする。
  • 9月、劉稹討伐の制文を発す(劉悟以来の澤潞の跋扈と劉従諫・劉稹父子の逆節を非難し、成徳軍節度使王元逵を北面招討澤潞使、魏博節度使何弘敬を東面招討澤潞使に任じ討伐を命じる内容)。徐泗節度使李彦佐を澤潞西南面招討使とするが出師が遅く、朝廷は天徳軍石雄をその副とする。劉稹の牙将李丕が降り忻州刺史となる。陳許節度使王宰を澤潞南面招討使とする。河陽節度使王茂元が卒し(贈司徒)、王宰がその万善の軍を代わって統べる。
  • 10月、宰相監修国史李紳・兵部郎中史館修撰判館事鄭亜が重修「憲宗実録」40巻を進める。晋絳行営副招討石雄が賊砦5箇所を収める。河東節度使劉沔を検校司空・滑州刺史・御史大夫・義成軍節度、鄭滑濮観察等使とする。荊南節度使李石を検校司空・平章事・太原尹・北都留守・河東節度観察等使とする。
  • 11月、中外官員の削減を吏部に命じる敕。12月、王宰が天井関を収める。榆社行営都将王逢が兵の不足を訴え、太原軍2千を援軍とする。李石が太原の兵不足のため横水の戍卒1500人を王逢へ回したが、賞給の遅れに軍情が不満を募らせ、都頭楊弁が乗じて反乱を起こす。

會昌四年(844年)

  • 正月乙酉朔、澤潞用兵のため元会を廃す。この日、楊弁が太原節度使李石を逐う。斎月断屠に関する敕(正月3日断屠、開元22年の旧敕に依る三元日各3日断屠等)。壬子、河東監軍使呂義忠が太原を収復し楊弁を生擒、乱卒を尽く斬り、百官が祝賀。
  • 2月甲寅朔、崔元式を検校礼部尚書・太原尹・北都留守・河東節度観察等使とする。太原が楊弁とその一党54人を献じ、狗脊嶺で斬る。
  • 3月、晋絳副招討石雄を澤潞西面招討とし、汾州刺史李丕をその副とする。道士趙帰真を左右街道門教授先生とする。武宗は神仙修行に志し趙帰真を師としたが、趙帰真は寵を恃んで仏教を排毀し、帝もこれに傾いた。4月、王宰が澤州を攻める。
  • 5月、司農卿薛元賞を京兆尹とする。
  • 6月、崔珙(尚書右僕射・中書侍郎・同平章事・判度支)を澧州刺史に貶す。癸丑、諫官の連署上奏を禁じる敕。故左軍中尉仇士良の官爵を追削し家財を没収(死後、その家から兵仗数千件が発見され、旧罪も暴かれたため)。崔珙をさらに恩州司馬員外置に貶す(鹽鉄使在任中、宋滑院の鹽鉄銭90万貫を欠損させたため)。度支・鹽鉄・転運を一使に統合。
  • 7月、淮南節度使杜悰を尚書右僕射・門下侍郎・同平章事・判度支・鹽鉄転運等使とする。李紳を検校司空・平章事・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事とする。吏部が中外の官員1114員の削減を奏す。王元逵の奏により邢州刺史裴問・別将高元武が城を挙げて降る。洺州刺史王釗・磁州刺史安玉が何弘敬に降り、山東三州が平定される。潞州の大将郭誼・張谷・陳揚廷が王宰の軍に人を遣わし劉稹を殺して自ら贖うことを請い、王宰の上聞により石雄が兵7千を率いて潞州に入る。郭誼が劉稹の首を斬って石雄を迎え、澤・潞等五州が平定された。
  • 8月戊戌、王宰が劉稹の首と大将郭誼ら150人を露布とともに京師に献じ、帝は安福門で受俘、百官が楼前で祝賀。魏博節度使何弘敬を廬江郡開国公に、成徳軍節度使王元逵を検校司空・太子太師・同平章事・太原郡開国公にそれぞれ進封。李徳裕を太尉に進め衛国公に封じ食邑千戸を加える。兵部侍郎・翰林学士承旨崔鉉を中書侍郎・同平章事とする。河東節度使陳夷行が卒す。
  • 9月、天徳軍使石雄を検校兵部尚書・河中尹・御史大夫・河中晋絳慈隰等州節度使とする。前山南東道節度使盧鈞を検校尚書左僕射・潞州大都督府長史・昭義軍節度使・澤潞邢洺観察等使とする。忠武軍節度使王宰を検校司空・太原尹・北都留守・河東節度観察処置等使とする。郭誼ら誅殺の制を発す(劉従諫父子の逆節と郭誼らの投降を非難し、大辟に処す旨)。郭誼・劉公直・王協・安全慶・李道徳・李佐堯・劉稹とその母阿裴・弟妹・従兄弟一族・関係者の子弟門客・伎術人・李訓の兄・王涯の姪孫・韓約の子・王璠の子ら、名を挙げられた者は皆、独柳で処斬された。河陽三城鎮遏使の地を孟州とし澤州をこれに割隷、懐・孟・澤を併せて河陽節度とする。皇子愕を開府儀同三司・夏州刺史・朔方軍節度大使とし党項の反乱に対処させる。
  • 10月、車駕は鄠県に行幸。11月、雲陽に行幸。12月、郊礼を控え未決の獄囚を早期に決着させる敕。左僕射王起の知貢挙をめぐり、榜出後に宰相が可否を判定する慣行が議論となり、帝は「子弟であれ寒門であれ実藝を取れ」と述べ、李徳裕は名家子弟が挙業に習熟している事情を説いた(楊虞卿一門の朋比を戒めた楊知至・鄭朴らの落第の経緯を含む)。

會昌五年(845年)

  • 正月己酉朔、南郊壇に望仙台を造る敕。道士趙帰真が寵遇されることに諫官が延英で異論を述べ、帝は李徳裕に「道話を聞くだけで軍国政事は卿らと論じている」と釈明。趙帰真は世論を憚り羅浮道士鄧元起(長年の術ありと称す)を推挙、帝は中使を遣わして迎えさせ、以後、衡山道士劉玄靖・趙帰真と結んで仏教排毀・寺院取り壊しの動きが進む。李徳裕・杜悰・李譲夷・崔鉉・孫簡ら文武百僚が徽号「仁聖文武章天成功神徳明道皇帝」を上る。辛亥、郊廟の礼を行い、承天門で大赦。庚申、義安太后(敬宗の母)が崩じ、喪礼の日程(聴政3日・小祥13日・大祥25日・釈服27日)を定めるが、兵部尚書帰融の建議により「日を以て月に易える」形で12日釈服に短縮された。前太原節度使李石を東都留守とする。
  • 2月戊寅朔、太白が昴の北側を掩う。諫議大夫陳商の知貢挙で選ばれた37人の合格に請託ありとの世論があり、翰林学士白敏中に覆試させ張瀆・李玗・薛忱・張覿・崔凜・王諶・劉伯芻ら7人を落第させる。
  • 3月、崔鉉が知政事を罷め陝虢観察使となる。李回が本官のまま同平章事となる。
  • 夏4月、皇第四女を延慶公主、第五女を靖楽公主に封じる。祠部に天下の寺院・僧尼数を検括させ、寺4600・蘭若4万・僧尼26万500人という数を得る。杜悰が知政事を罷める。崔元式(戸部侍郎・判戸部)が同平章事となる。
  • 6月丙子、朝政の大事は必ず群議に諮るべしとする敕。神策軍が望仙楼・廊舎539間の修築完了を奏す。
  • 秋7月庚子、天下の仏寺を併省する敕。中書門下の条疏により、諸上州は像を寺一所に集め他は廃し、上都・東都両街はそれぞれ寺10所・僧10人を留める案が示されたが、帝はこれを削り、上都・下都各街2所・僧30人(上都左街は慈恩・薦福、右街は西明・荘厳を留める)とした。中書はまた、廃寺の銅像・鐘磬は鹽鉄使が鋳銭に、鉄像は本州が農器に、金銀鍮石像は度支に回すこと、民間所有の金銀銅鉄像は1ヶ月以内に納官、僧尼は祠部でなく鴻臚寺の管轄とし、大秦・穆護等の外来宗教も同様に還俗させることを奏した。
  • 8月、会昌廃仏の制を発す。三代以前に仏教が無かったこと、仏寺の隆盛が国風を蠹耗し民の農桑を奪っていること、高祖・太宗以来の武徳・文治で天下を治めるに仏教は不要であること等を述べ、天下で拆毀した寺4600余所、還俗させた僧尼26万500人(両税戸に編入)、拆毀した招提・蘭若4万余所、収公した良田数千万頃、両税戸とした奴婢15万人、還俗させた大秦・穆護・祆教徒3千余人という具体的数字を挙げて廃仏の成果を誇示した。
  • 第六女を楽温公主、第七女を長寧公主に封じる。中書の奏により、公主の上表の自称を長公主の例に倣い「某邑公主幾女上表」に統一し、郡主・県主も同例とする。
  • 9月、火星が上将を犯す。
  • 10月乙亥、中書が、太宗が王世充・竇建徳を擒えた汜水県武牢関の地に、廃寺(定覚寺)の材木を用いて昭武廟を建て太宗の武功を顕彰することを奏し、許可された(李石に東都で画手を選ばせ聖像を修飾させる)。
  • 11月甲辰、僧尼還俗により無人となった悲田養病坊について、両京は寺田を、諸州府は7頃から10頃を割いて残疾者救済の粥料に充てる敕。
  • 12月、車駕が咸陽に行幸。給事中韋弘質が中書の権重と三司銭穀を宰相が兼領すべきでない旨を上疏したところ、宰相は「管子」「匡衡」「蕭望之」「陳師合(貞観年間に流刑となった監察御史)」「賈誼」等の故事を引いて反駁し、韋弘質は賤人の身で宰相を軽んじ時政を撓乱するものとして貶官された。あわせて中書が、機密公事以外の表疏・奏事・銭穀刑獄等について中書舎人6人が先に可否を参詳する旧制を復活させることを請い、許可された。李徳裕は在相位が長く政敵を多く抑えてきたため怨みを買い、崔鉉・杜悰の罷相後は中貴人が「李徳裕は権を専らにしすぎる」と讒言、帝の意も傾き、白敏中の一派が韋弘質を教唆してこの上疏をさせたとされ、李徳裕への怨みはここに深まった。

會昌六年(846年)

  • 正月癸卯朔、丁巳、左散騎常侍致仕馮定が卒す(贈工部尚書)。己未、南詔・契丹・室韋・渤海・牂柯・昆明等国の使者が入朝し麟徳殿で謁見。兵部侍郎・判度支盧商が党項討伐諸道軍への糧料前渡を奏し、許可された。己丑、渤海王子大之萼が入朝。東都太微宮に玄元皇帝・玄宗・粛宗の三聖容が完成し、裴章を遣わして薦献。監察元壽の奏により、前彭州刺史李鈇が本州龍興寺の婢を乳母として買った違法を咎められ隨州長史に貶される。
  • 2月壬申朔、癸酉、旱天のため京城・天下の系囚について官典犯贓・強盗殺人・十悪以外は減刑し軽罪は釈放する詔、党項征討の軍に濫殺を禁じる詔。丁丑、左拾遺王龜が父(興元節度使)の老年を理由に侍養のため休官を願い出て許される。庚辰、夏州節度使米暨を東北道招討党項使とする。壬午、右庶子呂讓の亡兄の娘の再婚が許される。乙酉、前太子少保劉沔が太子太保致仕となる。前寿州刺史王鎮が潞州長史に貶される。壬辰、翰林学士・起居郎孫穀を兵部員外郎とする。旱魃により上巳の曲江賜宴を停止。銭幣改革の敕(来年正月以降、公私とも新銭のみ通用させ旧銭を数年停止、俸給の一部を現銭で支給等)。舒州刺史蘇滌を連州刺史に貶す(李宗閔の党で以前から左遷を繰り返され、李紳の弾劾による)。邠寧節度使高承恭を西南面招討党項使とする。丁酉、新羅使金国連が入朝。天象の異変(月・星の犯掩)複数記される。
  • 3月壬寅、帝が不予(御名を炎と改める)。方士に傾倒し服食修攝を重ねたことから薬躁が現れ喜怒常ならず、病篤くなり十日余り言葉を発せなくなる。宰相李徳裕らが謁見を求めたが許されず、内外とも安否を知らぬまま人心が動揺した。23日、遺詔が宣せられ、皇太叔光王が柩前で即位。この日、武宗は崩じた。時に33歳。諡は至道昭肅孝皇帝、廟号は武宗。同年8月、端陵に葬られ、徳妃王氏が祔葬された。

史論

  • 史臣曰く、開成年間、王室は衰微し政は宦官の手にあった。文宗の崩御に際し儲位が急に移り、武宗は宗室の一員として皇位を継いだ。だが武宗は雄謀勇断をもって既に失われた威権を振るい起こし、非凡の俊傑(李徳裕ら)を抜擢して用いた。回鶻が国を失い澤潞の劉稹が兵を阻む事態に際しても、群議に惑わされず李徳裕ら大臣の献策のみを容れ、出師によって乱を平定し、憲宗の元和中興の功に継ぐ功業を成した。しかし一方で、道術を求めて仙人を訪ね、道観を築いて心を玄妙に遊ばせ、俗を超越しようとするに至った。仏教を廃し僧尼を還俗させたことは、梁の武帝・後秦の姚興らの仏教への過度な傾倒を戒めるものではあったが、秦の始皇帝・漢の武帝が神仙を求めた過ちを悟らぬまま道士の言に惑わされ、他国由来の教えを一方的に排斥した誹りは免れない。仏教は中国に伝来して千年近く民間に深く根付いており、笮融・何充のような佞臣は世に絶えず、荀子・孟子のような賢者でなければ正論を興しがたい中で、一朝にして仏像を毀し経巻を焼いたことは、信徒の怨みと世人の非難を招いた。哲王の政は物情を驚かせぬものであり、前代の存廃を論ぜぬ姿勢こそ中道である。武宗の英断は弊を革めようとする志にほかならないが、その性急さは惜しまれる。