洪秀全演義第五十二回 李孟群廬州城に戦死し、左宗棠浮梁県に捷を報ず (李孟群戰死廬州城 左宗棠報捷浮梁縣)

衡州郊外の激戦

  • 李續宜は伏兵を疑いながらも退けば必ず敗れると判断し、士気を鼓舞して交戦を続けるが、石達開軍は高所を占め、太平軍の射撃は的中し続ける一方、清軍の弾は届かない。
  • 賴裕新の指揮する太平軍は鼓と銃声を断続させて清軍を消耗させ、ついに総攻撃を仕掛ける。劉長佑の進言でようやく退却するが、太平軍は十方から追撃し、清軍は大混乱で潰走する。
  • 右軍統領江忠泗は重傷を負い、李續宜・劉長佑は耒陽まで敗走。李續宜は自らの誤りを詫び、江忠泗は「達開の部将にすら敗れたことこそ恥」と語って血を吐く。

石達開の南進策

  • 部将李義は四川突入を主張するが、石達開・賴裕新は都興阿の大軍が動かず陣を固めていることを警戒し、長駆で疲弊した自軍で正面決戦を避けるべきと判断。
  • 桂・黔方面が手薄であることを踏まえ、南下して永州を奇襲する策を決定。賴裕新は精鋭で永州を急襲し、守将餘星沅を討ち取り、祁陽の観音灘でも清兵を降す。石達開軍はそのまま桂・黔方面へ進む。

湖北側の対応

  • 敗退した李續宜は胡林翼に事情を報告し、援軍として温存されていた都興阿軍が動かなかったことへの不満を述べる。胡林翼は言葉を尽くして慰める。
  • そこへ陳玉成が皖省へ再侵入し廬州から湖北方面へ迫っているとの報が入り、胡林翼は動揺。鮑超が江西方面に出ているため、廬州攻撃には李孟群を充てることに決める。

陳玉成の廬州包囲策

  • 陳玉成は部将吳汝孝に廬州周辺の要衝を守らせ、鮑超の来援を遮断する構えを取りつつ、自らは廬州を突く李孟群を誘い込んで殲滅する策を練る。

李孟群の敗死

  • 李孟群配下には占術に長けた李奉貞・李嗣貞姉妹がおり、これまでの戦で吉凶を占い当ててきた実績から李孟群は深く信頼していたが、幕僚方玉潤は今回の廬州攻めを危険視していた。
  • 李孟群は嗣貞の占いを信じて廬州を包囲するが、陳玉成の大軍が急遽反転帰還したとの報に動揺。方玉潤は「李續賓の三河の二の舞」と警告するが、李孟群は撤退の機を逃し、陣を固めて外部からの救援を待つ道を選ぶ。
  • 陳玉成は糧道・水路を断って包囲を九日間維持し、清軍が飢えと疲弊で戦意を失うのを待ってから総攻撃をかけ、李孟群軍を壊滅させる。李孟群自身も捕らえられるが、投降を拒み、五日後に自刃して果てた。享年五十に満たなかった。
  • この報に湖北・江西は動揺し、咸豊帝は李孟群に諡と褒賞を与えた。鮑超の救援も間に合わなかった。

左宗棠、浮梁で窮地に

  • 胡林翼・曾国藩は李秀成・陳玉成の勢いを踏まえ、まず江西を平定してから安慶へ向かう方針を確認する中、左宗棠から救援要請が届く。
  • 李世賢が寧国・徽州・祁門方面を席巻し、黄文金とも呼応して左宗棠の糧道を断とうとしていた。曾国藩は釐金徴収権を左宗棠に与えるが、既に太平軍に奪われた地からの徴収は名ばかりで、左宗棠は不満を募らせる。
  • 黄文金の急襲で左軍は損害を受け浮梁まで後退。曾国藩は張運蘭・曾国荃ら十路の援軍を続々と派遣する。

反攻と勝利

  • 左宗棠は浮梁城を放棄して野戦に持ち込み、士気を保ちつつ耐え忍ぶ。李世賢の猛攻で損害は増えるが、援軍十路が黄文金を包囲し、黄文金は損害を受けて敗走。
  • 李世賢は左軍への総攻撃を強めるが、曾国藩の援軍到着の報に接し、包囲を解いて撤退。左宗棠はこれに乗じて反撃し、劣勢から一転して勝利を収めた。