洪秀全演義第四十一回 李忠王計を定め武昌を復し、陳玉成財を棄て勝保を破る (李忠王定計復武昌 陳玉成棄財破勝保)
揚州陥落と托明阿の敗走
羅大綱は揚州を落とすと劉官芳に災民の撫恤と城壁修復を命じて留守を任せ、自らは郜雲官を先鋒として賴漢英に合流し、清の欽差托明阿と対戦した。托明阿は将略に乏しく、兵力の多さを頼んで籠城策を取ったが、副将緝順に「守るばかりで戦わぬのは既に失策」と諫められて出撃する。賴漢英軍は三路に分かれて猛攻し、夜には揚州城内に火の手が上がって托明阿軍は動揺、羅大綱軍も加わる挟撃で総崩れとなり、托明阿は八千余の兵を失って盱胎まで敗走した。清廷は激怒し托明阿を罷免、徳興阿を欽差大臣に任じた。
和春・張国梁の金陵急襲策と六合陥落
安徽から戻った和春は張国梁と謀り、羅大綱の勢いが強い揚州では戦わず、手薄な金陵を攻めれば太平軍主力が呼び戻されるとの策(囲魏救趙の計)を立てる。張国梁は不意を突いて六合城を奪い温紹原に守らせ、和春は金陵へ迫った。洪秀全は羅大綱を呼び戻し、羅大綱は劉官芳らに揚州を委ねて東南へ転じ、和春・張国梁の背後を衝いて金陵を救うこととなった。
李秀成の武昌奪還策
李秀成は湖北進出を志し、賴文鴻・李昭壽・洪春魁・晏仲武らに周辺郡県を回復させ、官文・胡林翼を翻弄した。陳玉成も皖北から西進して潜山・太湖・宿松・黄梅を落とし、さらに英山・羅田・麻城を陥れて黄陂・孝感に迫り、李続宜・李続賓・李孟群らを次々破った。李秀成は好機と見て武昌奪還を決意する。
洪山・漢陽への陽動と武昌攻略
曾国藩は服喪中で不在、官文・胡林翼は李世賢の江西侵攻を警戒して兵力を分散させていた。李秀成はこれを見抜き、李昭壽・賴文鴻に洪山を攻めさせて官・胡の注意を引きつつ、譚紹洸に漢陽渡河を装わせ、陳玉成にも孝感から漢陽方面へ圧力をかけさせる二正面の疑兵策を用いた。李孟群は妹の女兵隊を含め洪山を防戦したが、賴文鴻は身代わりの偽将を討ち取ったと見せて清軍を混乱させ、清軍は大敗した。
一方、官文は漢陽救援に兵を割いたため武昌の守りが薄まり、譚紹洸が浮橋を焼いて救援軍を撃退すると武昌は動揺、官文・胡林翼は南門から漢陽へ逃れた。李秀成は武昌城に入城、事情を知らぬ前任巡撫陶恩培が兵を率いて夜間入城してしまい、李昭壽・賴文鴻らに討ち取られ、総兵王国才も自刎した。武昌は太平軍の手に帰した。
李秀成と譚紹洸の対話(李昭壽への処遇)
戦功第一とされた李昭壽を李秀成が異例の厚遇で扱うことに、譚紹洸が「昭壽は剛愎で奸険、司馬懿の如く後に禍いを生む恐れがある」と諫める。李秀成は「北方の捻党(張洛行ら)との連携に昭壽を利用する腹づもりであり、恩遇で心を繋いでおく」と真意を明かし、譚紹洸も一応納得する。
武昌の防備固めと秦日綱の来援
李秀成は武昌の城壁修復・賑恤・洪山守備の強化などを進める中、燕王秦日綱が来援し、黄文金が左宗棠の囲みを脱した経緯を報告する。折しも金陵からの急報が届き、徳興阿の揚州包囲、和春・張国梁の金陵圧迫、さらに清が李鴻章を江蘇巡撫に任じ洋砲を用いて蘇常方面を脅かしている状況が知らされ、金陵優先の要請が来る。李秀成は陳玉成に鄂北から河南進撃を託し、自らは金陵へ引き返すこととした。
陳玉成と勝保の対決
陳玉成(清側は「四眼狗」と呼ぶ)は李秀成の要請を受け北進しようとした矢先、清将勝保が三万の兵と吉林馬隊を率いて鄂境に迫るとの報を受け、進軍を止めて八斗嶺に布陣する。夜ごと篝火を焚いて兵力を実数以上に見せかけ、前軍で誘い後軍で挟撃する策を立てた。
八斗嶺の戦い
勝保は陳玉成の籠城的布陣を見て「馬謖の街亭」に喩え侮るが、内心では警戒し、前軍のみで試しの攻撃を仕掛ける。陳玉成軍の蒙得恩は当初応戦を控え、後軍が勝保の大営を突く動きに合わせて交戦、やがて偽って敗走を装った。勝保はこれを真の敗走と信じて全軍で追撃するが、陳玉成軍は退却の途上に財物をわざと撒き、清兵がこれに群がって隊列を乱したところを一斉に反転して包囲攻撃、勝保軍は大敗した。陳玉成は勝るに乗じて清営に迫り、勝保を討とうとする。