洪秀全演義第三十一回 韋昌輝刎頸して銭江に答え、李鴻章単騎で曾帥に謁す (韋昌輝刎頸答錢江 李鴻章單騎謁曾帥)

武昌の攻防と譚紹洸の勝利

  • 胡林翼は曾国藩の敗報を受け、進退に窮していたところ、曾国葆の洪山攻めも失敗し、太平軍の鼓声に清軍は浮足立って自壊、胡林翼はその隙に兵を退いた。
  • 譚紹洸は馮雲山の子・馮文炳とともに漢陽から出撃し、義勇隊の晏仲武・洪春魁も呼応して胡軍を追撃した。胡林翼は岳州へ、曾国藩は九江へそれぞれ敗走した。
  • 譚紹洸は漢陽に凱旋し、洪春魁・晏仲武に漢陽を守らせ、自らは馮文炳と武昌に戻って防備を固め、天王へ戦況を上奏した。

李秀成の帰還と天王への進言

  • 李秀成は武昌を離れて金陵へ向かう途中、廬州で鮑超の動静を警戒するよう胡元煒に助言し、金陵に着いて天王に謁見した。
  • 天王は東王楊秀清誅殺と翼王石達開出奔の後、金陵に人材がいないことを嘆き、李秀成に忠王の位と水陸軍務の統括を授けた。
  • 李秀成は、武昌の得失は大局に関わらず北伐こそ要と説き、李開芳・羅大綱・吉文元と林鳳翔の合軍、銭江の四路都督起用、安慶固守と河南への増兵を進言した。
  • 折しも武昌大捷の報が届き、李秀成の献策が裏付けられて天王は喜んだが、続いて李開芳の上表が届く。

李開芳の上表と韋昌輝の苦悩

  • 李開芳は、東王誅殺の是非を天王が明らかにしないまま北王を放置していることに軍心の動揺を訴え、事態を憂える上表を寄せた。
  • 李秀成は銭江を訪ね、東王誅殺の経緯や北王の処遇について語り合う。銭江は北王がいずれ死を選ぶだろうと予見し、李秀成に速やかな仲裁を促す。福王洪仁達ら安・福両王への警戒も銭江は密かに告げた。
  • 李秀成は李開芳・吉文元に東王の罪状を説明する書状を送り、北王へも慰めの書を送った。

北王韋昌輝の最期

  • 韋昌輝は、東王一族皆殺しの過ちと北伐軍の停滞を憂い、覚悟を固める。妻の吉氏(韋昌輝の妃)に、その兄が反乱に加わったとほのめかし、実兄への未練を暗に責めた末、吉妃は自らの過ちを悔いて自害した。
  • 侍女の英荷も吉妃を慕って後を追い自害する。韋昌輝はこれを見て感傷しつつも、東王一族誅殺の非を認め、一命をもって北伐軍の疑心を解こうと決意、銭江へ遺書を送って自刎した。享年三十六。
  • 銭江は劉統監とともに駆けつけたが間に合わず、慟哭した。北王の死は東王派の異論を鎮め、天王は喪を厚く弔い、その子・韋元成に爵位を継がせた。

江南平定への号令と李鴻章の登場

  • 李秀成は上海が西洋人の居留地であることを理由に、清軍に先んじて江蘇平定を急ぐべきと進言し、天王もこれに従い、古隆賢・黄文金・頼文隆らに江西・安徽方面の作戦を命じ、自らは北伐軍と合流すべく蘇州方面へ出陣の準備を整えた。
  • 清朝では安徽合肥出身の李鴻章が頭角を現す。幼くして俊才とうたわれ、曾国藩に師事した後、皖撫呂賢基の幕僚となるも意見が用いられず、九江の曾国藩軍への従軍を決意する。相者の予言を受け、単身九江へ向かった。

評語

原文にはこの回末尾に評語・後人評は付されていない。