洪秀全演義第三十回 石達開詩もて曾国藩を退け、李秀成計りて胡林翼を破る (石達開詩退曾國藩 李秀成計破胡林翼)
淮北攻略後の林鳳翔軍
- 淮北を得た林鳳翔は榜を出して民を安んじ、南京へ勝報を送る。朱錫琨は勢いに乗じて即座に進軍すべきと主張したが、林鳳翔は「疾走する将は挫かれる」(孔子の言葉を引用)として勝保の逸を以て労を待つ計略を警戒し、進軍を控えた。
- 曾立昌は朱錫琨に、勝保が東王一族殺害への私憤から北王の首級を待って兵を擁しているだけだと解説。朱錫琨はこれを聞き、私憤を公事より優先する将の危うさを嘆き、密かに錢江へ書状で伝えた。
曾国藩、石達開の入蜀を迎撃するか招降するか協議
- 石達開は安徽から荊襄を経て四川へ向かう道を進んでいた。浦口に駐屯していた曾国藩は九江攻略に手こずる中、石達開の動きを知り諸将と対応を協議。
- 羅澤南は石達開が招降に応じないだろうと見立て、塔齊布は情勢が変われば投降もあり得ると見る。曾国華は戦いも辞さぬべきと主張し、曾国藩は「まず礼を尽くし、応じなければ不意を突く」との折衷案でまとめた。
- 胡林翼配下の曾国葆が来訪し、胡林翼も石達開への対応(招降か迎撃か)について意見を求めていることを伝える。曾国藩は胡林翼が武昌・漢陽方面で李秀成を牽制しつつ荊州周辺の郡県も収めていると知り、まず招降を試み、応じなければ胡林翼の後援を得て戦う方針を固め、石達開に書状を送った。
曾国藩・石達開の応酬(招降状と返書)
- 曾国藩は書状で、石達開の才を評価しつつも清朝の正統性と天意の帰趨を説き、范増・姜維の故事を引いて「時務を知る者こそ俊傑」であるとし、投降を暗に勧めた。
- 石達開は返書で、勝敗を一時の天意と見るのは誤りであり、漢の高祖や劉備も苦難の末に大業を成したと反駁。夷夏の別(漢族と異民族の区別)を説き、清朝を正統と称える曾国藩の姿勢を強く批判しつつ、丁重な謝辞とともに五首の詩を添えて返した。
- 詩五首は、自らの不遇と志、乱世に功名を求めぬ矜持、天下万民を救えぬ憤り、英雄が時運に乗じて名を残すことへの願望、布衣から身を起こした劉裕らの故事に自らをなぞらえる内容で、詞藻豊かに己の志を述べたものだった。
曾国藩の撤退と石達開の迂回
- 曾国藩は石達開の文武兼備ぶりに感心し、勝算の低さと石達開が金陵を去り西へ向かうことが洪秀全の戦力を削ぐと判断して、軍を二十里退かせ道を譲った。塔齊布は朝廷への体面を懸念したが、曾国藩は説得した。
- 石達開は清軍の譲歩を単純な弱腰と見ず、荊襄方面へ進めば胡林翼らに包囲される恐れがあると読み、江西・湖南を経由して四川へ入る迂回路に進路を変更した。
李秀成、武昌から金陵へ召還される
- 東王の死、翼王の出立で天王は動揺し、石達開の進言もあって李秀成を金陵へ召還する。李秀成は譚紹洸に武昌・漢陽の後任を相談し、南京の人材が出払っていること、安王・福王は任に堪えないことなどを分析する。
- 譚紹洸に武昌防衛の方策を問われた李秀成は、清軍が各路一斉に攻めれば守り、一路のみなら迎撃するという原則を伝え、密計を記した書状と兵符印信を託して、清軍来襲時にはその計に従うよう厳命した。あえて自らの離任を各営に布告させ、これも計略の一部であると譚紹洸に明かした。
胡林翼・曾国藩の武昌総攻撃と譚紹洸の防衛
- 李秀成離任を知った胡林翼は好機と見て曾国藩と連携し、漢陽・武昌への総攻撃を計画。譚紹洸は李秀成の遺計に従い、晏仲武・洪春魁に洪山要道での伏兵、陸順德・蘇招生の水師に沙河守備を命じ、漢陽・武昌間を浮橋で連絡させて守りを固めた。
- 胡林翼軍は漢陽の守りの堅さに攻めあぐね、夜ごと太平天国軍の鼓角の陽動に悩まされ将兵は疲弊。曾国藩も塔齊布に浮橋焼却を命じたが、伏兵と水軍の挟撃で大敗し、羅澤南がかろうじて支えるも敗走を招いた。
- 火薬で城壁を崩そうとした胡林翼の計も、李秀成の事前対策(濠の掘削)により失敗。両軍とも二晩にわたる陽動で疲弊し、胡林翼は攻略の見込みが崩れたことを嘆いた。
評語
末尾の対句は「知略と勇気を兼ねた者が巧みな計略で大敵を打ち破り、その威名が轟いて敵軍が兵を収めて退いた」と述べ、石達開の詩才と気概、李秀成の遺した計略の巧みさを称えている。