洪秀全演義第十七回 彭玉麟情を恤み軍餉を贈り、郭嵩燾策を献じ水師を創る (彭玉麟恤情贈軍餉 郭嵩燾獻策創水師)
張玉良の登用
曾國藩は張亮基に敗戦の顛末を語り、張玉良に救われた経緯を伝えた。張亮基は張玉良を召し出し、その威風に感じ入って厚く賞を与え、朝廷への上奏で敗戦を報告するとともに張玉良を営官に推挙した。
敗戦の後始末
耒陽・攸県などの官吏が次々と城の陥落を報告し、曾國藩は激怒するが、張亮基は「兵力の劣勢は諸官の罪ではなく、二万の兵で衡州一つ守れなかった我らの責である」と諭す。曾國藩は恥じ入り、敗戦の報が朝廷に届けば処罰は免れぬと嘆くが、張亮基は国法として受け入れる覚悟を示した。胡林翼は「衡陽まで退いて敗残兵を集め、武昌・長沙の兵を招集し、江西の援軍を頼んで再起を図るべき」と進言し、張亮基もこれに従い全軍衡陽へ退いた。
洪秀全の衡州統治と長沙攻略の議
洪秀全は衡州を平定して民を安んじ、湘の民は次々に帰順して糧を献じた。醴陵・攸県・耒陽の捷報も届き、秀全は論功行賞をしようとするが、錢江は「戦功のたびに官を与えては後々収拾がつかなくなる」と諫め、秀全はこれを聞き入れた。宴の席で長沙攻略が議論され、李秀成は「長沙に固執せず湘江を下って武昌を取り、種族の理を天下に布告すれば東南は自ら平定に向かう」と唱え、錢江も「長沙包囲の名目で両湖軍を牽制しつつ、手薄な湖北を突いて武昌を奪う」との策を示し、秀全は両案を採った。
楊秀清からの使者
楊秀清の使者として胡以晃の弟・胡以昶が祝いの品を届けに来た。胡以昶は「広西では秀全が単独で両湖に進んだのは秀清を陥れるためとの流言が広まり、秀清は妻を亡くしたこともあって疑心を強めているが、胡以晃の取り成しで事なきを得ている」と報告した。錢江はこれを敵の反間の計と見抜き、秀全と対処を協議した。
蕭三娘との縁組み
錢江の献策により、洪宣嬌が楊秀清の妻とすべく蕭朝貴の妹・蕭三娘に持ちかけた。三娘は当初訝しんだが、宣嬌の説明を聞いて事情を悟り、大局のため承諾した。秀全は胡以昶を通じて秀清に妻を弔うとともに三娘との縁談を申し入れ、秀清は三娘の器量を知って喜んで受け入れた。
婚姻による懐柔
両者は成婚し、三娘は錢江の意を受けて秀清の前で秀全の徳を称え続けた。秀清は当初の疑いを恥じ、秀全に詫び状を送って和解した。
清軍側の警戒と兵糧難
張亮基・胡林翼はこの婚姻策を反間対策と見て警戒を強めた。胡林翼は「洪軍が桂林・長沙を避けているのは武昌を狙い南北交通を断つ意図であり、長沙より兵糧確保が急務」と説き、募金を試みるが衡陽は貧しく効果は上がらなかった。
進撃方針の決定
黄文金は張・曾軍が兵糧に窮しているとして追撃を進言するが、錢江は「退く敵は追わぬもの」と制し、水軍を先に湖北へ進め、自らは陸路武昌へ向かう二正面策を献じ、秀全はこれを採用して陳坤書ら四将に水軍を、石達開に陸路先鋒を命じた。
彭玉麟の借款
衡陽に退いた曾國藩・張亮基は兵糧の逼迫に苦しむ中、羅澤南の勧めで地元の富商「謙裕餉当」の彭玉麟を頼った。生員でありながら不遇な彭玉麟は、朝廷の名目での借款要請に、自らの利にもなると判断して五千両を貸与した。曾國藩はその器量に感心し、後日の登用を約した。
彭玉麟と徐氏の顛末
彭玉麟にはかつて教書の傍ら、隣家の未亡人・徐氏との恋があった。梅花の扇絵に添えた詩を機に文通が始まり、後日の婚約めいた約束を交わしたが、噂が広まり彭玉麟は当店に身を寄せることとなった。曾國藩からの借款の一件を機に、洪軍の来襲を恐れた彭玉麟は徐氏を伴わず単身長沙へ逃れ、これを知った徐氏は入水して命を絶った。
郭嵩燾の水軍創設策
長沙で曾國藩に合流した彭玉麟は文案として迎えられた。折しも郭嵩燾(曾國藩の姻戚)が来訪し、「洪軍の水師が長江一帯を制すれば我が方は不利になる、広東の拖罟船を模した水軍を創設して江防を固めるべき」と献策し、曾國藩はこれを容れて水軍創設に着手した。