皇清開國方略世祖章皇帝 順治元年 1644年

睿親王多爾衮への大将軍印下賜と明討伐

  • 夏四月乙丑、攝政睿親王多爾衮に大将軍の敕印を授け明討伐の軍を統率させた。先に崇徳7年9月済爾哈朗・阿済格が中後所・前屯衛・山海関付近を攻略し、崇徳8年3月には明の寧遠・沙河所も自ら放棄されて山海関外が清の勢力下に入っていた。大学士范文程は攝政王への上啓で、中原の民心が明から離れつつある好機を捉えて進取すべきと説いた。
  • 甲子、太祖・太宗に出師を祭告し、乙丑、世祖は篤恭殿で睿親王多爾衮に大将軍印を授ける敕を与え、王は満洲・蒙古兵の3分の2、漢軍及び孔有徳らの兵を率いて出陣した。

呉三桂の来降交渉と山海関の戦い

  • 壬申、大軍が翁後に至った際、明の平西伯呉三桂から援軍要請の使者が来た。既に流賊李自成が北京を陥落させ崇禎帝が自経しており、李自成は呉三桂に降伏を勧めたが呉三桂は拒み、山海関に拠って清に救援を求める書を送った。多爾衮は返書でこれに応じ、進軍を続けた。
  • 癸酉、多爾衮は再び呉三桂に書を送り、共通の敵として流賊討伐への協力と、管仲・桓公の故事を引いて過去のわだかまりを越えた処遇(藩王への封建)を約束した。
  • 己夘、大軍は山海関に入り、呉三桂が出迎えて降った。多爾衮は呉三桂の兵に清軍と識別するための白布の目印を付けさせ、李自成の軍(20万余、崇禎帝の太子・諸王等を伴う)と対峙。折からの強風の中、多爾衮は諸将に軽率な突出を戒めつつ布陣し、呉三桂の兵を右翼末端に配して総攻撃をかけ、李自成軍を大敗させて40里追撃、晋王朱審烜を捕らえた。呉三桂は平西王に封じられ、玉帯・蟒袍などを賜った。

燕京の平定

  • 五月己丑、大軍が燕京を平定した。多爾衮は山海関からの追撃戦の後、殺掠・焚焼の禁止を諸将に誓わせ、撫寧県・昌黎県・灤州など沿道の各地で明の旧官員が次々に投降・帰順し、そのまま官職に留任させ倉粟を放出して民を賑わせた。
  • 李自成は燕京の宮殿を焼き財宝を奪って西へ敗走。多爾衮は諸将に追撃を命じる一方、6月戊子朔、通州に至り、己丑に燕京へ入城。故明の文武官員・老幼の民が香を焚いて出迎え、内監は明の鹵簿・御輦を用意したが、多爾衮は「周公が幼主を輔けた故事に倣い輦に乗るべきではない」としつつ、衆議に従って乗輦して入城し、武英殿で政務を執った。
  • 庚寅、多爾衮は兵部に対し、薙髪して帰順した地方官には昇格、軍民には移住免除を約す招撫の檄文を発するよう命じ、故明の官員の留任、避難していた官民の登用、投降兵の処遇なども定めた。辛夘には、李自成の暴虐を糾弾しつつ崇禎帝のため官民に3日間の喪に服させ、その後は薙髪させる旨を諭した。

捷報の天への奏上

  • 壬寅、燕京平定の捷報を天に告げ、朝鮮・蒙古に頒布した。己亥に捷報が届くと、世祖は済爾哈朗ら諸王群臣とともに天を拝し、諸王群臣は表を上げて慶賀した。世祖は敕を送り多爾衮を労った。あわせて黒龍江呼爾哈部を征討していた鄂羅塞臣・巴都礼・沙爾琥達の軍も凱旋し、俘虜が八旗に編入された。

遷都の決定と北京到着

  • 九月甲辰、世祖が燕京に至った。多爾衮と諸王大臣は遷都燕京を協議し、燕京が古来の帝王の都であり天下統治に適することを述べる連名の上奏を行い、世祖は7月癸巳、上帝への祭告文を発した上で遷都を決断、あわせて太祖・太宗への祭告文も奉げた。
  • 8月丁巳、盛京総管以下、各城の城守官(熊岳・錦州・寧遠・鳳凰城・興京・義州・新城・牛荘・岫巌ほか)を定め、東京・耀州・盖州・海州・鞍山・広城にも駐防を配置した。乙亥、世祖は盛京を発ち、9月甲辰、燕京に到着した。

北京での定鼎と即位の大典

  • 冬十月乙夘朔、世祖は京師に鼎を定め(遷都を正式に確定し)、天下に大赦の詔を頒布した。多爾衮・故明の大学士馮銓らは世祖の帝位就任を勧進し、世祖はこれを許した。太祖・孝慈高皇后・太宗の神主を太廟に安置する儀礼を経て、圜丘で天地を祭る大典を行い、祝冊文を奉げた。
  • 大清門より皇極門に入り、諸王文武百官が表を上げて拝礼し、正朔を中外に頒布した。あわせて太廟・社稷に告げる詔を発し、明の弊政の廃止、逋賦の免除、隠逸の登用、高齢者への恩賜、罪人の大赦などを宣言した。