皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳 三年 1638年

紅山口での明兵撃破

  • 八月丙申、前鋒将領武拜らが紅山口で明兵を撃破。四月にも武拜は寧遠付近で哨卒を捕えていたが、今回は沙爾琥達とともに前鋒兵・モンゴル兵各40で紅山口の明千総2人・兵100を撃破、羅文峪・宻雲でも敵軍を破り邏卒を殲滅した。

挙人・生員への官階授与

  • 戊申、科挙合格者に官階と丁役免除の特典を付与。羅碩・常鼐・瑚球ら挙人10名に牛录章京品級と免役、一等〜三等生員にも護軍校品級と免役を段階的に授けた。

睿親王多爾衮・貝勒岳託の明国分道征討

  • 癸丑、太宗は睿親王多爾衮を奉命大将軍として左翼軍(副将は豪格・阿巴泰)を、貝勒岳託を揚武大将軍として右翼軍(副将は杜度)を統率させ、二路に分けて明国を征討させた。
  • 出征に際し軍律を宣示。戦闘での敗走・拒戦の扱い、越隊・妄動の禁止、行軍中の規律、寺廟の保護や無抵抗の民への配慮などを細かく定めた。
  • 太宗は自ら「征伐は好むところではないが、明が和を拒むためやむを得ない」と述べ、丙子年の昌明州攻略時に略奪に走った将兵が処罰された例を引き、禹が罪人を見て泣いた故事を語って将士に自省と規律遵守を求めた。また威力で人を畏怖させるより礼と和を以て諸国を心服させるべきとも説いた。
  • 岳託の右翼軍、続いて多爾衮の左翼軍がそれぞれ太宗自らの見送りを受けて出征した。

伊蘇特部帰順者への世職授与

  • 己未、伊蘇特部から帰順した博琫・錫訥布庫・和尼齊らに世職を授与。

優免人丁の規定

  • 九月丁丑、無世職の管旗大臣・承政は10丁、梅勒章京・内大臣・参政は8丁など、官位に応じた丁役免除数を定めた。

右翼軍の牆子嶺突破

  • 冬十月丁酉、岳託らの右翼軍が牆子嶺から明の辺牆を突破したと奏報。明総督呉阿衡率いる援軍6000を撃破、副将・守備らの部隊も次々と撃破し、大小砲25門を鹵獲した。牆子嶺攻略にあたっては嶺の両側の険阻な高所から迂回する策を用い、図頼・恩格図・譚泰・都雷・巴特瑪ら各隊が連携して突入に成功した。
  • 明の海龍守備に対しては、清軍が理由なく人を殺すことはない旨、また辺城の内は明領だが外は清の版図であることを伝える諭示を送った。

左翼軍の青山関突破

  • 戊戌、多爾衮らの左翼軍が青山関から突入と奏報。董家口東の険阻な地形から迂回して突入し、青山関・董家口・青山営の民は逃走。流賊(李自成ら)が河南で活動中との情報や、山海関の防備状況なども併せて報告された。
  • この日、朝鮮国王李倧が援軍派遣の遅延を謝罪する使者を送ったが、太宗は「朝鮮軍が来ずとも明征討を妨げはしなかった」としつつ、王爵剥奪などの重罰は科さず、班師後に改めて裁定するとした。

太宗自らの明国親征

  • 己酉、太宗自ら大軍を率い明国を三路に分けて進撃。先に、二路軍のみでは山海関以東の援軍を招くことを危惧し、太宗自身が鄭親王済爾哈朗・豫親王多鐸らと山海関方面を牽制するため出征することとした。孔有徳・耿仲明・尚可喜には紅衣砲・戦車の携行を命じた。
  • 大軍は彰武台口を経て渾河に至り、科爾沁・喀喇沁の諸王が兵を率いて来会。義州に入り軍紀を厳しくし、大凌河を渡って戚家堡・錦州方面へ進撃、孔有徳・耿仲明・尚可喜らが紅衣砲で臺・堡を次々陥落させた。豫親王多鐸は明総兵祖大寿の令箭を持つ使者を捕え、戚家堡・石家堡も攻略した。

中後所からの班師

  • 十一月庚午、中後所から班師。鄭親王済爾哈朗の兵力不足を見て豫親王多鐸が応援に赴いたが、祖大寿の来襲に土黙特部の一部が退却する事態もあった。石廷柱・馬光遠らが李雲屯・柏士屯など多数の屯堡を攻略、孔有徳らも大福堡を招降し臺を陥落させた。
  • 太宗は中後所城下で祖大寿に面会を望む書を送ったが応答はなく、鄭親王済爾哈朗が模龍関などを攻略した後、大軍は明の辺境を出て瀋陽へ帰還した。

外藩朝貢諸部への饗宴

  • 十二月己丑朔、朝貢に来た厄魯特・土黙特・蘇尼特・鄂爾多斯・烏珠穆沁など諸部、翌日には黒龍江・索倫・呼什哈礼氏・巴雅喇氏などの諸部にそれぞれ饗宴を賜り、綵緞・銀両・衣服・鞍馬を下賜した。

新降漢人の戸籍編成

  • 癸丑、恭順王孔有徳らの砲撃で降伏した五里河臺の守備李計友・李惟観らを含む新降漢人を戸籍に編入。あわせて陣獲した守備・百総にも衣服等を賜り、帰順者を51屯の民戸として編成した。