皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳 二年 1637年

主戦論者の処刑

  • 三月甲辰、朝鮮の洪翼漢・尹集・呉逹済が市で処刑された。李倧は当初、開戦を主導した台諌の洪翼漢を平壌庶尹に任じて前線に出したため所在不明としたが、続いて宏文館校理の尹集・修撰の呉逹済を清の軍前に送り、後に洪翼漢も瀋陽へ護送された。三者はいずれも明に与し盟約破棄・開戦を主唱した罪により処刑された。

蓋州城修築の一時停止

  • 戊午、蓋州守将李思忠の上奏により蓋州城の修築工事を一時停止。旧城壁の破損状況を報告し、農繁期の丁夫負担を避けるため、破損箇所のみ土築で応急補修し、三年の猶予を得て後に甎造で本格修築することとなった。

貧民への貸付と種蒔きの奨励

  • 夏四月辛夘、太宗は飢饉に際し、余裕ある家に困窮者への穀物の売却・貸付を奨め、私蔵して腐らせることのないよう諭した。

八旗議政大臣の新設

  • 丁酉、貝子尼堪・洛託・博洛らに国政参議を命じ、各旗に議政大臣三員を新設(鞏阿岱・図頼・錫翰ら多数)。翔鳳楼で親王以下を集め、これまで議政に携わる人員が少なかったこと、卑賎な者を安易に登用すれば主に迎合するだけになる懸念、選ばれた者は国家のため民生を第一に考え、越権せず管旗大臣と協議した上で奏上すべきことを諭した。
  • あわせて満洲の言語・衣冠・騎射の伝統を守るべきことを説き、金の熙宗・海陵王が漢風に染まり本国の言語を忘れたのに対し世宗が旧制を復した故事を引き、出師・狩猟時以外は朝服を着用させるなど祖宗の制を子々孫々守るよう命じた。多爾衮ら群臣は謹んで奉行すると誓った。

朝鮮国王子の饗宴

  • 閏四月癸夘、崇政殿で朝鮮国王の二子李&KR1261;・李淏を招いて宴を賜った。先に多爾衮が渾河岸まで両人を伴い、太宗は使者を出して出迎え宴を催していた。モンゴル貢献の珍獣(斉赫特・野駝)や黒狐皮を見せ、李淏は感謝の意を述べた。

皮島の攻略

  • 壬子、武英郡王阿済格が皮島遠征から凱旋。先に太宗は貝子碩託・孔有徳・耿仲明・尚可喜に紅衣砲16門と朝鮮戦船50隻を与え皮島攻略を命じ、蘇爾徳を遣わして多爾衮らと攻撃計画を協議させていた。
  • 阿済格は四月八日に護軍・歩兵・騎兵・漢軍・朝鮮兵を動員し、小船で島の西北隅を攻撃、巨艦で正面からも攻めさせ、守島総兵沈世奎を斬り皮島を陥落させた。明兵1万7千余を撃破、水手・婦女幼稚あわせて約3500人、家畜640余、大船72隻、火砲多数を鹵獲したと報告した。
  • 太宗は睿親王多爾衮・饒余貝勒阿巴泰らに出迎えを命じ、崇政殿で凱旋の礼を受けた。

逃亡者葉雷追討の論功

  • 六月辛亥、錫特庫らの喀木尼堪部逃人葉雷追討の功を叙した。先に阿頼達爾漢が茂明安部の逃亡者を招服させたが、その葉雷らが再び科爾沁部の馬・牛を奪って逃走。錫特庫・武巴海らが数か月にわたり追跡し、温多地方で包囲、葉雷を射殺してこれを鎮圧、七か月を経て帰還した。太宗は世職の加増や衣服・馬匹・奴僕・荘田を賜った。

国政に励むよう諸大臣を諭す

  • 甲寅、太宗は太公の言を引き、天地の理に則り国政を整えることの重要性を説き、朝鮮を服属させた今こそ綱紀を立て後世の模範とすべきと訓諭した。

太廟への朝鮮平定の告祭と太祖の夢

  • 丙辰、朝鮮平定の功を太廟に告祭。その二日前、太宗は興京で太祖が飛騎に乗る夢を見、代善が追いつけず、続いて明の宮中で明皇帝が珊瑚を飾った絛を授けようとしたが、その人物は金代の神像に変わり金国の史書を授けられる夢を見た。目覚めた太宗が群臣に語ると、諸臣は「朝鮮征服の予兆であり、次には明国の天命を授かる兆しである」と奏した。太宗は皮島陥落と合わせ太廟・福陵に自ら祭告した。

三王への誡諭

  • 甲子、恭順王孔有徳・懐順王耿仲明・智順王尚可喜に皮島攻略の功で銀・彩緞などを賜り、戦死者の家族にも撫恤した。同時に、王爵の恩寵に見合う忠誠と部下統率の責任を果たしていないことを厳しく戒めた。
  • 尚可喜の家人が主人の財物隠匿を刑部に密告したが、太宗は「戦利品は兵に分散したはずだ」として審理を行わず、原告を智順王に引き渡させた。

皮島平定の論功と帰化城貿易

  • 秋七月己巳、先の皮島遠征の戦死者40名を通遠堡に合葬し、鰲拝・凖塔・薩木什喀・阿山・葉臣ら生存将士の世職を加増、戦死者の子弟に襲職を認めた。
  • 辛未、武拜らを帰化城に遣わし貿易を行わせた。八月には張家口付近で明の哨卒と交戦し15人を斬り1人を捕えて帰還した。

漢軍二旗の分立

  • 乙未、漢軍を二旗に分立。先に辛巳、太宗は漢官に対し、旧臣が各地を転戦し功を積んできたのに対し漢官は徭役免除など優遇を受けながら戦功に乏しいことを指摘し、口先だけの忠義でなく実際に力戦するよう厳しく求めた。牛录章京張成徳の武功を例に挙げ奮起を促した。これを受け石廷柱を左翼、馬光遠を右翼の管旗大臣とし満洲式に壮丁を編成した。

外藩使臣の較射

  • 八月癸丑、演武場で外藩使臣の弓射を観覧。喀爾喀車臣汗・土謝図汗の使臣らが参加し、左右両翼に分けて競わせ、王貝勒らも自ら射を競った。

モンゴル部内の誣告禁止

  • 九月己巳、モンゴル諸部での誣告・強奪を禁止。先に阿什逹爾漢・塞稜尼堪らが科爾沁・巴林・扎嚕特・喀喇沁・土黙特・阿嚕の諸部で赦詔を頒布し刑獄を整理していたが、太宗は扎嚕特部の内斉らが同居の塞稜綽博恵の家畜を誣告して奪う行為を強く戒め、事実であれば加害者から取り上げて返還するよう命じた。

孤独な旗人への配偶者支給

  • 丙戌、各牛录下で妻を持たない者に、捕虜の中から妻を給するよう諭した。

諸方の朝貢

  • 冬十月丙午、厄魯特部の顧実車臣綽爾済が初めて使者を送り朝貢。黒龍江・精格里河方面からも朝貢があり、禮部が宴を設けて迎えた。

朝鮮国王の再冊封

  • 庚申、李倧を改めて朝鮮国王に封じた。皮島遠征で功のあった朝鮮の林慶業を瀋陽に召し宴を賜り帰国させた。太宗は勅文の起草にあたり誇張を戒め、簡潔を旨とするよう内院諸臣に命じた。英固爾岱・瑪福塔に玉紐金印・誥命・黒狐裘・貂皮・鞍馬などを持たせ李倧に賜らせた。

瓦爾喀征討の捷報

  • 十二月癸亥、瓦爾喀征討の諸将が捷報を奏した。先に正月癸亥、太宗は朝鮮軍営から科爾沁・扎嚕特・敖漢・奈曼諸部の兵を咸鏡道経由で瓦爾喀征討に出し、尼堪・吉思哈・葉克舒らが会寧で朝鮮平壌巡撫兵を撃破していた。
  • 七月己巳、喀凱・塔克珠ら諸将が兵1200を四路に分けて瓦爾喀を征討。両黄旗・両紅旗・両藍旗・両白旗の各隊が現地の壮丁を嚮導とし、それぞれ男女数十から百数十人・家畜多数を獲得したことを奏上し、翌年四月に帰還した。獲得した瓦爾喀の男女には衣服・住居・器物・家畜を賜り、従征の兵にも銀を賞した。

清河での明兵撃破

  • 戊午、丹岱らが清河で明兵を撃破。武英郡王阿済格が牛荘から丹岱・薩蘇喀・譚拜・拜賽らに護軍・騎兵各40を率いさせ白土場で捕虜を求めたところ、明兵700に遭遇しこれを清河で急襲、馬22匹・旗2旒を獲得した。同月、赫葉氏・托科羅氏・黙爾哲勒氏・巴雅喇氏の諸姓から使者22人が貂皮などを貢いだ。