皇清開國方略太宗文皇帝 天聰九年 1635年(正月〜九月)
春正月 功臣の牛录専管と宗室名分の改定
- 癸酉、功臣拜音図らの徭役を免じ、各自が管掌する牛录を専管させることとし、戦功による壮丁の加増や陣亡者の子への加増もそれぞれ専管とした。
- 丁丑、太宗は薩哈璘を通じ宗室の呼称を改定した。太祖の世子は「阿哥」、六祖の子孫は「覚羅」と呼び分け、いずれも紅帯を繋いで身分を示すこととし、紅帯を繋ぐ者を常人が祖父にまで及ぶ悪口で罵った場合は死罪とする一方、紅帯を繋がぬ覚羅を辱めた者は罪に問わないと定めた。
- 是月、使犬部の索瑣科が来朝した。
二月 人材登用の詔と喀喇沁壮丁の編審
- 壬午朔、各官に賢才の推挙を命じる詔を発した。身分の新旧を問わず居心公正な者を吏部・礼部に推薦するよう求め、文館の寧完我・范文程は連座法による情実推挙の防止を進言した。
- 同日、燕京・大凌河の新附官には宴を重ねる一方で旧来の帰順者が久しく労われていないことを憂い、守備以上の帰順者を集めて殿庭で宴を賜った。太宗は憔悴した官員を見て貝勒らに新旧を分け隔てぬよう戒め、貝勒らは以後の配慮を誓った。
- 丁丑、内外の喀喇沁蒙古壮丁一万六千九百五十三名を編審し、古嚕思希布・鄂木布楚琥爾ら各領主のもとで十一旗に編成、旧喀喇沁の壮丁も八旗蒙古に合わせて配属した。八旗総管大臣の下に梅勒章京・甲喇章京各二員を置き、六十歳以下十八歳以上(心身に障害のある者を除く)を対象に編審し、隠匿した者やその十家長には罰則を定めた。
三月 農繁期の濫役禁止
- 戊辰、太宗は三岔堡での狩猟から戻った翌日、諸臣を集め、城普請のための臨時徴発が農事を妨げていることを戒め、以後濫りに民夫を徴発して農務を妨げる管掌章京以下を治罪すると命じた。
五月 黒龍江呼爾哈遠征軍の凱旋
- 先の八年十二月、太宗は大臣巴奇蘭・薩木什喀に左右翼官兵二千五百を率いて黒龍江地方の呼爾哈を征討させた。訓示では、俘虜には善言で慰撫し衣食を共にすれば人心が服すこと、当地の民は言語が同じで先祖はもと同族であることを説き諭すよう命じた。
- 行軍にあたり、案内役の夏姓の屯長喀拜・庫魯木図屯長都爾敦らを従軍させ、帰路の帰順三屯には侵擾を禁じた。九年三月に甲喇章京瑚什布を迎えに遣わし、四月には巴奇蘭らが呼爾哈編戸の壮丁二千四百八十三人・口七千三百二人・馬八百五十六・牛五百四十三・駝八を収服したと報告した。
- 辛丑、貝勒阿巴泰らが蒲河の岡で出迎え大宴を催し、太宗は自ら殿で凱旋の諸臣と抱見礼を行った。巴奇蘭・薩木什喀以下に世職を加増し、招降した七千三百人には家屋・田地・衣食器皿を賜与した。
是月 宋遼金元史の編纂翻訳
- 己巳、太宗は文館の諸臣に宋・遼・金・元の四史から治世の要点や興亡の教訓、将帥の方策、賢奸忠佞に関わる記事を選んで編纂翻訳するよう命じた。漢文の史書には潤色が多く全て読む必要はないとし、根拠のない野史の翻訳は禁じた。また漢人が君主を無条件に「天子」と称する風潮に触れ、有徳の者でなければ天子の名に値せず、自らも天命の恒常性を恃みとせず日々慎むべきと語った。
是月 察哈爾親征―多爾衮らの遠征
- 先の二月丁未、太宗は貝勒多爾衮・岳託・薩哈璘・豪格を統兵元帥、納穆泰を右翼、図爾格を左翼として、護軍騎兵一万を率い林丹汗の子額爾克孔果爾額哲の招降に向かわせた。四月には済什哈・海塞を上都城旧址に駐屯させ諸貝勒の消息を待たせた。
- 丙子、多爾衮らの上奏が到着した。錫喇珠爾格地で索諾木台吉配下一千五百戸の投降を受け、黄河を船で渡って額哲の駐地托里図に迫った際、霧に紛れて隠密に行動し、葉赫貝勒錦台什の孫南楚らを先に遣わして額哲の姉蘇泰福晋に事情を告げさせた。福晋は弟との再会に慟哭し、額哲は諸宰桑を率いて出迎え、清軍は旗を連ね角を鳴らして進み、天を拝して母子と対面、両者は天地に誓いを立てた。翌日には宴を交わし、額哲配下の額済格固実ら一千戸も投降した。
- 鄂爾多斯部済農が額哲を誘って別に盟約しようとしたが、多爾衮らはこれを見咎めて留め置き、察哈爾の遺民や物資を全て差し出させ、額爾克楚琥爾の妻や部下千余戸も送り届けさせて全部を収服したと奏上した。
- 捷報の前日、太宗は「左耳が鳴ると必ず佳音がある」と語り、実際にこの日祁充格らが到着した。折しも巴林部長色特爾への宴席で宰桑布兌山津が祝いの酒を進めたが、太宗は「諫言なら聞くが、酒で諛おうとするのは正義に反する」と諭し、布兌山津は恥じて退いた。
六月 寧錦方面出兵と東海瓦爾喀遠征軍の凱旋
- 先の五月癸亥、太宗は諸貝勒大臣と、出征中の察哈爾遠征軍が明の救援を招く恐れがあるとして、寧遠・錦州方面へ軍を進め牽制することを議定した。貝勒多鐸を帥とし、喀喇沁部の賡格爾・万丹塞棱らを明北辺へ遣わして犒賞や貿易を名目に明側を油断させる策も併用した。
- 阿山・石廷柱・図頼・武拜らの先鋒四百が錦州へ迫ると、明の総兵祖大寿は副将劉応選らに迎撃させたが、清軍は明兵の混乱に乗じて突入し劉応選を斬り五百人を殲滅、遊撃曹得功ら三員を生擒、馬二百余匹を得た。さらに一台を落とし、援軍も得て縦還した曹得功を通じ和議を探る一方、賡格爾らも貿易途上で明の哨卒を撃破した。
- 多鐸が凱旋すると、太宗は代善・阿巴泰・徳格類・阿濟格とともに盛京懐遠門外で出迎え、抱見礼を行い、初めて専閫の任にあたり戦功を挙げた多鐸を称え良馬・甲を賜った。
- 丁酉、東海瓦爾喀遠征軍も凱旋した。先の八年十二月、太宗は武巴海・荆古爾岱に瓦爾喀征討を命じ、以前征討中に不注意で殺害された達珠瑚を戒めとして、俘虜への配慮と守備の徹底を細かく訓示していた。九年四月、両将は瓦爾喀の壮丁五百六十人・婦女五百口・幼稚九十口ほかの俘獲を報告し、六月に凱旋すると太宗は迎宴を命じ、屯長分達哩らに衣服・器物を賜与し世職を加増した。
是月 人民愛養と放鷹禁止の訓諭
- 辛丑、太宗は諸貝勒大臣に対し、太祖の遺した人民を愛養することこそ孝であり、額外の役使で民が離散逃亡すれば太祖の志に背き敵を利するのみと戒め、新旧帰順者を分け隔てず恩養するよう説いた。
- 癸卯、太祖の代に禁じられていた郊外での放鷹による田畑荒らしが再び横行していることを戒め、小民の家畜を奪う者を厳罰に処すと申し渡した。
是月 察哈爾来帰諸官への宴と伝国璽をめぐる逸話
- 丁未、竒塔特徹爾貝ら先に来帰した察哈爾諸頭目に続き、黄河の氷結を待って渡ってきた巴頼都爾ら十二頭目が一千四百四人を率いて来帰し、殿庭で宴を賜られた。六月壬寅には温泰が引き連れた索諾木台吉配下一千三百九十五人・家口五千四百三十八人も朝見し宴を受けた。
- 太宗は察哈爾先後来帰の諸官に改めて宴を賜り、自ら酒を注いだ。徳参済旺との問答では、太宗が「察哈爾部の帰趨も諸臣の来帰も、あらかじめ知っていた」と語り、徳参済旺は「聖諭はまさに神のごとし」と称えた。
秋七月 私情による裁断の禁止
- 癸酉、先の二月に総兵尚可喜が新附の民への寛典が驕縦を生んでいると奏し、罪を犯す前の厳禁を求めていたことを受け、太宗は満洲・蒙古・漢人を分け隔てず公正に裁くよう命じ、近頃漢人と満洲・蒙古の闘殴事件で互いに庇い合う風潮を戒めた。是月、漢人官員の考課により李思忠らを昇職させ、不正増員が発覚した者らを革職・罰銀に処した。
九月 伝国玉璽の獲得と山西攻略、崇徳建号への道
- 癸丑、貝勒多爾衮らが察哈爾部衆を収服し歴代伝国璽を得たうえ山西を略して凱旋した。捷報の六日後、太宗は使者を出迎えに遣わすとともに出征諸貝勒へ諭を送り、国内の豊作と平穏、各地での俘獲(蘭磐・岫巖・海州での明船拿捕、朝鮮人漁民・商人の拘束、朝鮮との交易など)を報告した。
- 玉璽は元朝の内府に伝わり、順帝が沙漠へ持ち去った後に大内から失われて二百余年、羊飼いが山羊の様子から発見して博碩克図汗の後裔に帰し、後に林丹汗がこれを奪っていた。多爾衮らは蘇泰福晋のもとにあると聞いて求め、「制誥之寳」の四字が刻まれた玉璽を得て「皇上の洪福による瑞祥」と喜んだ。
- 多爾衮らは降民を伴い黄河を渡って帰化城に至り、岳託の病のため一部を残し、大軍で明の山西一帯(平魯衛・寧武関・代州・忻州・崞県・黒峰口・応州)を略した。各地で明の哨卒・援軍を撃破し(前鋒将勞薩・蘇爾徳・図爾格らの戦功が特記される)、総計で明兵六千余を斬り、人口牲畜七万六千三百余を俘獲して帰化城で岳託と合流し班師した。
- 太宗は自ら盛京から出迎え、遼河を渡って諸貝勒の行軍を出迎え、九月壬子に多爾衮らの営に至った。翌朝、太宗は諸貝勒と伝国璽の受璽の礼を行った。壇上に案を設けて焚香し、多爾衮・正黄旗大臣納穆泰らが璽を捧げて進み、太宗は自ら璽を受け天を拝し、多爾衮以下と抱見礼を行った。額哲とその群臣も跪拝・抱見の礼をもって謁見した。
- 大宴ののち、献上された金印・玉帯・数珠・蟒緞・金銀器皿・駝馬などを納め、鄂爾多斯済農から送られた察哈爾人戸のうち壮丁八百名を各旗の欠額に補充した。額爾克孔果爾額哲には遜島錫爾哈の地を居所として与え、雕鞍・馬匹・貂裘などを賜り、太宗は盛京五里外まで自ら見送って大宴を催した。