皇清開國方略太宗文皇帝 天聰八年 1634年(七月〜十二月)
秋七月 宣府への進軍と蒙古諸部の来会
- 太宗は宣府城東南に駐軍した。科爾沁部の巴達哩・布達齊・洪果爾ら十数名の首長が兵五千を率いて合流すると、大宴を催し蟒袍を賜った。
- 己丑、軍を四路に分けて明の辺境へ入り朔州で合流する方針を定めた。貝勒阿濟格・多爾衮・多鐸・大臣阿山・伊爾登が両白旗兵と翁牛特・察哈爾新附の図巴済農らを率い巴顔珠爾格地から龍門へ、貝勒豪格・額駙揚古利らが尚方堡を攻めて辺牆を破り、太宗自ら本隊を率いて続いた。壬辰、辺牆突破の報を受け大軍は尚方堡から宣府右衛へ進んだ。
- 太宗は覚羅龍什らに命じ宣府右衛の明将官へ盟約違反を責め和議を促す書を送り、あわせて城中の軍民にも上情不通による戦禍の責任は明の官吏にあると諭した。
八月 大同・応州方面の攻略
- 大同城南に駐軍し、宣府新城への砲撃、応州城の包囲、小西城外郭の攻略を進めた。明の開平生員張文衡が大同から来投し、明朝の腐敗と民の窮乏、太宗の威名を慕う民意を訴えたため、文館に命じ出師の趣旨を布告させた。
- 応州城東南の石家村堡を砲撃で陥落させた。先登した満珠什哩・海桑・鼐格噶達琿・綽諾には厚く賞を与え、陣没した希福・固哩布にも遺族への賜与を行った。
- 大同への夜襲を察知し図嚕什・武拜に伏兵を命じたが間に合わず、そのまま追跡させ、明の哨卒十人を捕えた。
- 太宗自ら大同南山に至り曹文詔の騎兵と対峙。鄂齊爾桑に挑戦させたのち、捕虜高登湖らを通じ大同城官吏や曹文詔へ書を送り、明朝が将士の労苦を顧みず戦功の有無のみで賞罰し宦官が専権を振るう実情を説いて翻意を促し、この日その騎兵を撃破した。
- 縦還した俘虜曹天良・馮国珍に託し、明の代王の母楊氏へ和議を求める書を送った。
- 壬申、蒙古諸部長が各自の俘獲を報告。癸酉、大同城南山岡に転営し、僧侶や明洪武帝八世孫の朱乃廷らを城内へ送り投降を促したが応答はなかった。
- この間、徳格類らは独石口・長安嶺城を落とし赤城を攻めたが堅固で撤退、保安州経由で応州に合流。代善は得勝堡を落とし(明参将李全は自尽)、懐仁県を攻めたが落とせず、来援の明騎兵を碩託らが撃破、朔州・井坪城も攻めたが落とせず朔州馬邑間に駐屯。薩哈璘・碩託は代州方面で崞県を夜襲で落としたが円平駅は空振りに終わり、代善に合流して大同で謁見・宴を受けた。
- 阿濟格・多爾衮・多鐸は龍門口で明参将の軍を破ったが龍門は落とせず、転じて保安州を落として応州で合流、豪格と共に朔州を経て五台山まで進んで還った。
- 阿巴泰・阿濟格・揚古利は霊丘県を攻略し知県・守備を斬り、王家荘攻めでは正黄旗兵が先登、礼部承政巴篤禮が力戦の末に矢に当たり陣没した。太宗はこれを悼んで涙し、後に三等男の世職を追贈した。
閏八月 万全左衛城の陥落と班師
- 八月丁丑、移営の途上、前鋒将錫特庫・納海らが明の哨卒六人を捕らえ、あわせて明側の間諜書を入手した。書は満洲がもと明の属国であることを説き、投降者には黒雲龍・桑阿爾齋の先例に倣い厚遇するとの内容であった。
- 太宗はこれを読み崇禎帝へ返書を送り、満洲が明の属国であったことは否定しないが遼東官吏の欺瞞と訴えの不通が仇怨を深めたと述べ、明軍の斬首数の虚偽は黒雲龍に問えば明らかになると指摘した。同時に押収した張宗衡・曹文詔配下宛の書状には、清軍の損害を誇張し戦果を偽る記述があった。
- 太宗は原書を捕虜に持たせるとともに張宗衡へも書を送り、届く塘報がことごとく虚偽であることを指弾し、明国の衰亡ぶりを述べて決戦を望むなら期日を約すよう求めた。
- 以後も各地で戦果が続いた。錫特庫は天城・赤城方面で、図嚕什は懐遠方面で、また左衛城では祖大弼配下の騎兵二百五十を撃破するなど、前鋒諸将が連日戦果を挙げた。
- 閏八月乙酉、図嚕什は宣府偵察中に単騎で明哨卒に突入し腹に矢を受けながらも力戦、後続が到着して十三人を斬り二人を捕えたが、二日後に軍中で没した。太宗は自ら見舞い、後に忠宣と諡し一等子の世職世襲を許した。
- 丁亥、万全左衛城を八旗合力で攻略した。正紅旗の褚庫・布丹が先登して守備常汝忠を斬り城兵を殲滅し、両名は厚く賞を賜った。
- 太宗は尚方堡辺まで班師し、留守の諸貝勒へ敕書を送り、四路並進の経過と各路の戦果(台堡百二十を破壊、諸城攻略)を伝えた。
九月 瀋陽への凱旋
- 丙申、出師の勝利を告げ牛を屠り纛に祭った。戊辰、留守の済爾哈朗らが国内の平穏と俘獲の状況を奏上し、あわせて祖大寿の動静に関する情報を報告した。明の崇禎帝が三度祖大寿を召しても応じなかったため妻子を獄に繋いだ末に出征させたこと、大寿が本心では戦意薄弱であったこと、明が蒙古兵を疎んじ大凌河で蒙古兵に大寿殺害を命じたが失敗した経緯、桑阿爾齋ら蒙古兵が自衛のため大寿と盟約した一件などが詳述された。留守の貝勒らは、大寿が召命に応じなかった罪を恐れて外藩蒙古へ侵犯する恐れもあると進言した。
- また済爾哈朗の上奏には、錦州から逃れた烏納海の報告に基づき、貝勒岳託が靴底に書を隠した使者を錦州の蒙古人多爾濟哈坦・諾木齊らへ送り、投降を促す長文の書状を届けたことも併せて記されていた。
- 辛未、大軍は遼河を渡り十方寺辺に駐屯、済爾哈朗・岳託らが出迎え宴を賜った。壬申、太宗は自ら堂子に詣で還宮した。
是月 瓦爾喀降民の旗分撥補
- 先の七年十一月、大臣吉思哈・武巴海に瓦爾喀部征討を命じた際、太宗は俘虜の扱いや軍紀(婦女の保護、夜間の警戒、俘獲物の各自取得許可など)を細かく訓示していた。
- 八年五月、両将は寧古塔から捷を報じ、俘虜壮丁・婦女・幼稚のほか馬牛・毛皮多数を得たと奏上した。太宗は新たに得た瓦爾喀人戸を八旗に均等配分せず、不足する旗に優先的に撥補するよう命じた。
冬十月 索倫部の入貢と太祖廟への告文
- 五月に続き、索倫部の巴爾達齊らが再度朝貢し貂皮を献じた。庚戌、太宗は諸貝勒とともに太祖の霊に楮幣を焚いて告文を奏し、受命以来の憂勤と、朝鮮の帰服、喀爾喀五部・喀喇沁・土黙特・阿嚕諸部の帰順、林丹汗の西奔と病没、明のみが敵として残る現状を述べ、神霊の加護による大業成就を祈願した。
是月 蒙古牧地の境界画定
- 巴林・翁牛特・柰曼・敖漢・四子部・阿嚕科爾沁・扎嚕特の各部と八旗蒙古との牧地境界を地名を挙げて定め、越境者には侵犯の罪を科すこととした。各旗・各部の戸数(総計二万三千余戸)も定めた。
- 大臣阿什達爾漢・塔布囊達雅齊が現地で会議し、離部・越境・私罰などの違反事案(柰曼部長衮楚克巴図魯の離部駐留、喀喇沁部属員の私罰完結など)を裁定したが、太宗はこれを覧て外藩ゆえ寛大に減刑するよう命じた。
十一月 諸官の考課
- 乙丑、六部各官を三年の考績により昇職させ、あわせて管漢軍各官を撫養の善否・戸口の増減で評定した。是月、使犬部葢青屯頭目僧格が五十人を率い来朝し貂皮を貢いだ。
十二月 察哈爾新附諸臣への慰労宴
- 先の六年四月、太宗の親征により林丹汗は西奔、その部衆は逃亡・戦乱で多く失われた。七年八月には異鳥(鵽鳩)が遼東に群集し、国人はこれを蒙古帰順の兆と見た。八年正月、太宗は林丹汗残余の部衆が錫爾哈錫伯図地に流散していると知り、諸大臣に蒙古兵を率いさせ合同で征討させ、俘虜の扱いを細かく訓示した。
- 二月、婦女幼丁・馬を俘獲し将士に分与した。五月、林丹汗の叔父茂奇塔特が来朝し厚遇された。
- 太宗は征明の路について、宣府から大同へ向かえば動揺する察哈爾部衆の招撫にも都合が良いと判断し、衣服・甲冑等の準備を命じるとともに、明境に駐牧する察哈爾遺民へ招降の書を送った。
- 以後、庚戌の図巴済農配下の投降を皮切りに、閏八月・九月・十一月・十二月と断続的に察哈爾諸部の首長・宰桑らが数百〜数千戸単位で相次いで来帰し、太宗はその都度使者を派遣して出迎え、宴を催し衣服・馬匹・牛羊などを賜与した。図巴済農本人の投降時には太宗自ら出迎えて大宴を催し、墨爾根喇嘛が護法神マハーカーラ像を奉じて来帰した際には、その像がもと元世祖の代に鋳造され五臺山、次いで蒙古薩斯嘉、察哈爾へと移されてきた由来が語られた。また嘗て天命六年に罪を得ていた喀爾喀貝勒巴哈達爾漢や、同じく天命六年に来帰していた額駙古爾布什の旧属阿爾賽も、この頃改めて来帰した。最終的に集まった帰順戸口は総計五千戸二万口に達した。
- 辛丑、太宗は新附の諸臣を大宴に招き自ら酒を勧めた。徳参済旺との問答では、太宗が「察哈爾部の傾覆も諸臣の来帰もあらかじめ知っていた」と語り、徳参済旺は「聖諭はまさに神のごとし」と称えた。